十四話 表面張力が切れ溢れ出る血だまりと痛み
朝食を食べながら、私はずっと考えていた。
そうだよ、あれは夢だったんだ。夢と現実をごちゃ混ぜにしているだけさ、きっとそうだよ。そう思えば思うほど、ご飯がのどを通らない。
普段残したことのないご飯を半分以上も、残してしまった。
これ以上胃になにかを詰め込めば、吐いてしまいそうだった。腹の奥が逆流している感覚をのど元まで感じる。
工場の糞尿の臭いが、鼻にこびりつき離れない。どんないい匂いを嗅いだとしても、この臭いを消し去ることはできないだろう。
それは風邪を引いたときに鼻につく、嫌な臭い。黄色い鼻水が鼻に詰まったときのような、あの嫌な臭いに似ていた。
もう、気にするのはやめよう。
気にしたって仕方のないことだ。あれは夢だったんだ。夢に決まっている。
最近よく見るじゃないか、夢か現実か分からない夢を最近見るじゃないか。きっとそうに決まっている。
「どうしたの?」
どうやら私を心配してくれていたらしい母の声が聞こえた。いま私はどんな顔をしているだろうか。
恐怖で歪んだ顔。悲しみの顔。それとも、能面のような無表情。
唯一分かるのは笑顔だけではないということだ。
「……いや……なんでもないよ」
私がそういうと、「そう」といった切り、母はなにも聞かない。聞き過ぎることも、聞かなさ過ぎることもない。
冷たいと思う人もいるかもしれない。
しかし、今の私には母のその対応が嬉しかった。それ以上の会話はなく、食事を終えた。
食器を洗うのは私の担当だ。いつものように食器を洗っていると、手を滑らせグラスを割ってしまった。
やはり、いつもの私らしくないようだ。
粉々になったグラスの破片を拾ったとき、脳を突き刺すような鋭い痛みが頭から指先に駆け抜けた。びりびりと雷に打たれたような激痛を感じた。
どうやら、指が切れたようだ。人差し指から一粒の血だまりが浮かんだ。
ジンジンとする痛みが指先から、頭に伝わる。表面張力が切れたグラスから水が流れ出すように、粒状になった血が流れ落ちた。
それなりに、深く切ったらしい大粒大の血痕が地面に落ち、四方に広がる。
地面に落ちた血痕は血をたっぷりと吸い潰された蚊のように、見えなくもない。包丁や鋭利な刃物で切るよりも、グラスで切った指は想像以上に痛かった。
本のページで指を切ったときといい勝負だ。
「大丈夫!」
母が居間からあらわれ、私に駆け寄る。私は危ない、といおうと思ったが当然母は知っていた。スリッパを履いて厳重注意していた。
当然といえば、当然だ。あれだけ派手な音が鳴れば、ガラスが割れたことぐらい分かるのだから。
「あとは私が片付けるから、あなたは絆創膏を貼りなさい」
そういって、母は箒を持ってきて荒く破片を掃きとる。そして、細かい破片は掃除機で綺麗に吸い取った。
私は絆創膏を貼りながら、ガラス片を片付ける母をみた。
絆創膏を貼ったものの、赤い血が絆創膏のガーゼ部分をすぐに覆いつくす。
よほど、深く切ったようだ。今でも痛い。生きているということは、痛みを感じるということ、か。痛い、これは夢じゃない。
痛い、私は生きているんだ。こんなに痛いのだから、生きているのだ。
死んだものは痛みを感じない。痛いのは嫌だが、痛みを感じないのも嫌な気がする。いったい、どっちが救いなのだろうか。
痛みを感じるのが救いなのだろうか、痛みを感じないのが救いなのだろうか。
私は泣いていた。大粒の涙を流して私は泣いていた。痛くて泣いているのではない。生きているのが嬉しくて泣いているのだ。
それから、私は二回絆創膏を張り替えた。
張り替えても、張り替えても、すぐにガーゼは真っ赤になる。
「早く準備しないと、学校に遅れるわよ」
私の代わりに食器を洗い終わった、母が台所から顔をだしいった。
そうか、もうそんな時間か。私は立ちあがり、準備を始めた。私は制服を着、家を出た。今日は曇天。厚い雨雲がモクモクと天を飲み込み、灰色の世界を形作っている。
天までもが私の心情を代弁しているかのようだ。
今日は雨が降るだろう。傘を持っていった方がいいのは分かるが、私は何も持たず家を出た。どうして、持たなかったのか。
深い意味はない、ただ、何も持ちたくない気分だったのもあるが、自転車をこぎながら傘を差すという器用な真似は私にはできないからだ。
時間に余裕がないというのに、私は自転車に乗らず手で押した。車輪とギアが回る甲高い機械音がガラガラ、と鳴る。
このままなら遅刻は確実だ。もう遅刻は覚悟している。
遅刻してでも、確かめなくてはならないことがあるのだ。
*
着いた。ここからでも、糞尿でどんよりとした空気が漂ってくる。
工場の前で立ち止まり、大きく深呼吸した。
パレットの間から私は檻を見た。工場側の窓や玄関からはこのパレットは見えないようになっている。パレット同士をつなげた板のあいだから、檻が見えるのだ。
そこで私は息を止める。いや、息をのみ込んだ。重い汚れた空気がのどに詰まり、肺を圧迫する。犬がいない、犬がいないのだ。
灰色のぶち禿がある、絶望的な目をしたあの犬が檻から消えていた。やっぱりそうだ、あの夢は、あの夢は夢じゃなかった。現実だったんだ。
ああ、なんてことをしてしまったんだ。私は馬鹿だった。私は自分を責めた。どうしてあんなことを考えてしまったんだろう。
どうして行動してしまったんだろう。
どうして何の罪もない、犬を殺してしまったんだ。
どうして虐げられた側の命を殺してしまったんだ。
ああ、そこで私は息を詰めた。警察に届出をだされれば、私は捕まってしまう。
あの薬品があるのはこの辺では学校だけだ。回りに回って、私のもとにたどり付いてしまう。私の優秀ではない脳細胞が危険を知らせていた。
頭がくらりとして、私は尻もちをついた。取り返しのつかない罪を犯してしまった。こんなときでも、自分の身のことを一番に考えてしまう。
人間とは自分勝手で残酷な生き物だ、と思った。
ああ、なんて法とは偉大なんだ。法があるから、私は思い悩んでいる。法があるから、人間は制御されている。
残酷な人間を制御するには法しかないじゃないか。しかし法も完璧ではない。
完璧ならあのような犬は生まれないじゃないか!
その日私は学校を休んだ。
いや、その日だけではない、それから一週間以上学校を休んだ。ずる休みと思う者もいるかもしれないが、本当に体調を崩してしまったのだ。
捕まるかもしれない、恐怖に震えながら布団を頭までかぶって過ごす。そんな日が何日も続いた。




