十二話 救済のノクターン
いつの間にか眠ってしまっていた。最近よくあることだ。
気付かないうちに眠ってしまっていて、おかしな夢を見ることが。いつから眠ってしまったのかも分からない。これもあの犬が見せている夢なのだと思う。
あの犬は夢で覚悟はできている、といっていた。私も覚悟はできた。決行は今夜だ。草木さへも眠る、深夜に決行する。
それまでに準備を整えなければならない。
一階に降りると、母が夕食の支度をしていた。私は夕飯を作る母の背中を見た。私が今夜しようとしている、ことを知ったらなんと思うだろうか。
やめなさい! と怒るだろうか。
そのとき、私は夢で見たことを思い出す。善悪の判断は自分がするものだ。他者に左右される善悪など、善悪ではなく周りに流されているだけで、本当の善悪ではない。
私は黙って椅子についた。母はふりかえり、
「あら、少し待ってね。もうすぐできるから」
と、手を休めることなく、いった。
私は両手をテーブルに乗せたまま、
「うん、ゆっくりでいいよ」
と、答える。心は落ち着いている。
こんな澄み切った、心持ちは初めての体験だ。思えば、私はいつもなにかに怯えていた。
どうして、私はこんなに弱いのか、どうしてこんなに怯えているのか、分からなかったが、いまなら分かる気がする。
それは誰かの判断で生きていたからだ。自分の判断で生きている、いまは怖いと思わない。
誰かの判断で生きるとは辛いものだ。自分が操り人形のように思える。
自分の判断で生きれる人に、私はなりたい。
「はい」
母はできたばかりの料理をテーブルに並べ始めた。
味噌汁と白ご飯、ほうれん草のごま和え。そして、メインのから揚げ。すべてを並べ終えると、母は、
「さ、食べましょうか」
と手を合わせた。
「父さんは今日も遅いの?」
私が聞くと、
「え、ええ……お父さんは遅くなるから先に食べてましょう」
母は味噌汁に口をつけ、いった。
会話もなく静かに夕飯はすんだ。母と一緒にいても会話らしい、会話はない。暗い性格の両親に似て、私も暗いから明るい会話が成立するはずない。
会話をしたところで、場の雰囲気が暗くなるぐらいなら、初めから会話などしないほうがいいのだ。
食器を洗うのは私の役目。今日はから揚げだった。大皿はから揚げの脂がべっとりとこびりつき、洗剤ではなかなか落ちない。
二~三回洗剤をつけて、流してを繰り返すうちになんとか指を食器に這わすとキュウっ、キュウっ、と音が出るまでになった。
食器を洗い終えると、私は風呂に入る。いつもと同じ繰り返しだ。変わることもなく、変えようとも思わない。生活リズム。
風呂をあがると、あとは歯磨きだけ。もう、あとは眠るだけだ。
そう、ここに越してくるまではそれの繰り返しだったが、いまは違う。私には使命できたから。しかし、それも今夜で終わる。犬を救えば、終わりになるんだ。
やっと私は解放される。
そう思うと、囚われていたのは自分だったのではないか、と思うようになった。檻に入っていなくても、人間は何かに囚われて生きているのではないか。
もし、今夜犬を救うことで私も救われるのなら、本当に救われるのなら、どれほど良いことか。
あとは待つだけ。すべてが眠る、草木さへ眠る深夜まで待つだけだ。
私がまばたきをしたときだ、白い空間に私は立っていた。私の目の前には当然のように犬がいる。犬は私を見上げている。空間が色を取り戻していき、気付くと私は工場にいた。
工場の犬の檻の前に立っていた。鉄格子のすき間から、犬は私を見上げ、
「キューン、キューン」
と、鼻を笛のようにして泣いていた。
いま助けてあげるから、いま助けてあげるから。私の頬に熱い雫が流れた。どうやら、私は泣いているようだ。
どうして、泣いているんだろう。いまから犬を救うと言うのに、涙が止まらない。
犬の泣き声を聞くと、涙が止まらない。私は持ってきていた、ハムに今日学校から盗んできた薬品を入れる。ハムのあいだに包丁で切り込みをいれており、その切れ込みの中に薬品をいれたのだ。
犬は、「キューン」と甲高く泣いた。
もう、犬はしゃべることはなかったが、私には犬のいっていること分かった。助けて、助けて、と脳の髄から聞こえてくるのだから。
私はゆっくりと、ハムを鉄格子に近づけた。犬は鼻をひくつかせながら、ハムに噛み付く。私はその光景を無心に見つめた。犬は大きな口でハムを食べている。
ここまで、食べ物を旨そうに食べることができるのは犬だけだ。ハムを食べ終えると、犬はまだ満足しないのか、物欲しそうな顔をした。
なにも起きない。ドラマなどでは口にいれた刹那に、症状があらわれていたのに。2~3グラムでは少なすぎたのだろうか。
と、思ったとき、それは起きた。
犬は突然、苦しみだしたのだ。体を檻にぶつけて、倒れ込んだ。白い泡が口からあふれ出る。すると、犬は何かを吐き出した。胃の中の内容物をすべて吐き出す勢いで、犬は吐いた。
小刻みに体が痙攣している。え? どうしてそんなに、苦しんでいるの、私は戸惑った。ドラマでは口に含んですぐに、死んでいたじゃないか。
苦しむのは一瞬だったじゃないか。なのに、犬は苦しみながら白い泡を口いっぱいに浮かべていた。血走った目で私を見る。蛇に睨まれた蛙のように私は動けなくなった。
どうして、救われるのに、そんな苦しそうなの?
どうして、救ってあげたのにそんな目で、私を睨む。
目をそらせなかった。
死に逝くその目に見つめられ、私は動けなかった。まだ、声が聞こえる。助けてという声が聞こえる。どうして、まだ聞こえるんだ。
いま助けてやってるんじゃないか。
それなのに、この声は消えることはない。どうして、どうして、どうして、どうして、僕は助けてやったじゃないか。
私は耳を塞いだ。犬は私を見つめたまま、光を失った。
光を失った目は私を見つめている。どこに逃げようとその視線から逃れることはできない。私は犬を助けたのに、この罪悪感はなんなんだ。
私は善を行ったのに、この罪悪感はなんなんだ!
私は迷える犬を救済したのに、この罪悪感はなんなんだ!




