第七話
──3月
行灯の明かりの下、また一枚料紙をめくる。はらりと音を立てて、次の文章が目に入った。そこに描かれている図形と文字を何度も読みながら、一言一句間違えないように、頭の中に叩き込む。
この古びた書物、題名は「やさしい日記の書き方・入門編」という大変ふざけたものだが、その実は魔法について書かれた真面目な秘蔵書だ。高度な魔法の使い方や、その呪文が事細やかに書き記されている。このような魔術書は禁書扱いなので、題名をそのまま示す事ができないのだ。ちなみに、作者は残念ながら祖父だ。
この屋敷には、祖父がその長い人生の間に編纂した書物が何千とある。これもその一つで、今朝方書庫から拝借してきた。そして夕方の稽古が終わった今、自室で読んでいるのだ。書を読む事は好きなので、就寝前のこの時間が毎日の楽しみでもある。
それに、自分の目的を達成させるためにも、上位魔法の習得は必要不可欠な事だ。だからこの時間は、色葉にとってすごく貴重で大切な時間なのだ。
だがそんな時間は、突然響いた声のおかげでまたしても崩れ落ちた。
「──お〜い、色葉、いる〜?」
相変わらず暢気な声だ。折角のこの時間をそんな声に邪魔されたくない。とは思いつつも、仕方ないので反応だけはしてやる事にした。
「……誰もいません」
「えっ、いないの? でも、声聞こえるよ?」
そこで迷わないでよ。と内心でぼやいて、色葉は黙ったまま立ち上がった。
「何?」
戸の二歩ほど手前まで歩いて、その向こう側に立っているであろう少年に向かって声をかけた。やっぱりいた〜。という声が聞こえてきたが黙殺する。そして戸を開けようと手を伸ばした。
何が嬉しいのか、彼は無駄に元気な声で言った。
「色葉、市に行こう!」
「嫌だ」
と即答し、伸ばしかけた手を下ろしたのも覚えている。
すると道風が、勢いよく戸を開けて部屋の中に入ってきて、ものすごく真剣な顔で俺を説得し始めたのも記憶にある。
そしてその途中に、道風の鳩尾に軽く拳を叩き込んだのも思い出せる。
だが、なぜ今自分がこうして夜の市に向かおうとしているのかが、全く分からない。
「いや〜、初めてだね〜、こうやって色葉と出歩くなんてさ〜」
「ほんと、夢にも思わなかったよ」
いつも通り感情の無い声音で言いながら、色葉は服の袖に腕を通した。そして、腰帯を慣れた手つきでしっかりと結ぶ。
すでに就寝用の単を着ていたのだが、急遽外出するための服に着替える事になってしまった。行き先が人混みなので、目立たないよう夜陰に紛れる黒い服を選んだ。
「それにしても、色葉ってやっぱり細いね〜」
「……これでも努力はしてるんだけど……」
そう言いながら試しにわき腹を押さえてみると、服の上からでも骨の感触が伝わってきた。その硬い感触に、色葉は表情を曇らせる。
毎日欠かさず体を鍛えてはいる。しかし、その成果が全く目に見えないのだ。おかげでいつまで経っても性別を間違われる。
「髪も長いし、肌も白いし〜。ほんとに女の子みたいだね〜……うぐっ!」
ほら、こうやって。
「……道風って、殴られたい人なの?」
「僕、女の子が大好きな人だよ〜」
会話が全くかみ合っていない。意味が分からない。すごく面倒くさい。
と、心の中で悪態を並べても始まらないので、護身用の刀を手に取り、腰に差した。
「じゃあ、行こうか」
何か予感のようなものがあったのかもしれない。ただ、どうしても行かなくてはならないと思ったのだ。
それがあの出会いにつながるとは、この時、微塵も予想する事はできなかった。
「さ、寒い……」
屋敷の門を出た途端、冷たい風が吹き抜けた。春に向けて暖かくなってきたはずなのに、今夜は一段と肌寒い。こんな事なら、防寒用の蓑でも羽織って来ればよかった。まあ、じきにこの寒さにも慣れるだろうから、それまで待つとしよう。
同じように体を震わせている道風に、色葉は視線を向けた。
「それにしても、白花に贈り物なんて、突然どうしたの?」
それが今回の外出の目的だ。やけに真剣な顔で白花に贈り物をしたいと言われた時は、訳が分からないまま思わず彼を殴ってしまった。これが常習化してきた事をほんの少し申し訳なく思うのだが、道風も男なのでこれくらいは許されるだろう。というより、殴られる理由も少しは考えて欲しい。
道風は両手をこすり合わせながら首を傾げる。
「え〜っと、まあ、恩返しかな〜」
「何の?」
「色々とね〜」
よく分からない返答をされた色葉は、ふーんと言って夜空を仰いだ。綺麗な星空の中に煌々と輝いている満月が視界に入る。
その色葉の横顔を見た道風は、同じように空を見上げて呟いた。
「……白花ちゃんもね、あの満月みたいに……輝いてるんだよ」
その言葉に、色葉は漆黒の瞳を僅かに瞠った。おかしな事を言ったと道風は色葉を顧みる。だが色葉は、ふっと微笑を浮かべて、そっか、と呟いただけだった。
「……笑わないんだ」
「なんで? 笑う必要なんてない」
当然のように言い切った色葉に、道風は笑い声を上げた。
「あっははっ、色葉の場合必要ないんじゃなくて、何も分かってないんでしょ〜」
「…………うん」
図星だ。そもそも誰かに贈り物をするという概念が無い色葉にとって、「輝いているんだよ」などと言われても、「光ってるの?」と返す事しかできない。
「いわゆる、一目惚れってやつだよ〜」
「よく分からないけど……とにかく、白花に喜んでもらえる物を見つけるんだね」
色葉の言葉に道風は相好を崩した。色葉がこんなにも恋愛に無関心というか、鈍感というか、無知というか。興味が無いという事がありありと伝わってくる。
「まぁ、そういう事になるね〜」
言いながらも、道風は笑い続ける。
道風にけたけたと笑われた色葉の顔は、徐々に不機嫌になっていった。その様子を見て、道風はぴたりと笑いを収める。道風の反応にひとつ溜め息を吐いた色葉は、ふと思った事を口にした。
「でも、白花の好みなんて、俺知らないよ?」
「ん〜、何とかなるんじゃないかな〜」
自分の事のくせに無責任にそう言い放って、道風は数歩前へ歩いた。呆れる色葉を、満面の笑みで振り向く。
「ではっ。いざ、しゅっつじ〜ん!」
右手を掲げて、元気よく歩き出した。そんな彼を見て色葉は苦笑いを浮かべた。彼は本当に暢気で、それがなんだか羨ましく思える。自分には、彼のような余裕が無い。
「色葉〜? 早く早く〜」
ならば、今から作ればいいと、最近ようやく思えるようになってきた。それがいつできるかは分からないけれど。
「待てって。すぐにい……く…………」
──しかしそんな時間は、どうやら俺には無いらしい。
「………………ひな、み……?」
時が、止まった。
遠くから聞こえる人々の喧騒。水路を流れる水のせせらぎ。吹き抜ける風の音。
その全てが、感覚の中から消えていく。その代わりに去来したのは、深い深い無音の世界。
そして視界の中には、ある一人の少女が立っていた。腰まで伸びた黒髪に、透き通るように白い肌。どこか色葉と似た雰囲気を持つその少女は、優しく、そして悲しげな微笑を浮かべていた。その微笑に吸い込まれるかのように、視線はその一点に奪われた。
その姿を見た途端、記憶の奥底に隠れていた過去がよみがえった。
──自分に向かって伸ばされる手。色葉もその手をとろうと精一杯腕を伸ばす。だが、無情にもそれは届かない。あと少し。そのほんの僅かな距離が、二人の間を引き離す。わめき叫びながら、彼女を包んでいる黒いもやを必死に振り払おうとする。しかし、実体を持たないそれは指の隙間をすり抜けていった。そして、彼女の体は──
色葉は息を呑んだ。怒涛のように様々な思考が脳裏を駆け巡るが、それらは一切まとまらずに、意識の中へと消えていった。ぐるぐると回る言葉の奔流に押しつぶされそうになる。
道風が何かを言おうと口を開いていた。しかし、色葉の耳にはもう何も届かない。
「……っ!」
感情の昂りが最高潮に達した色葉は、くるりと方向転換し脱兎の如くこの場から逃げ出した。
取り残された道風は、色葉の背をじっと見つめながら立ち尽くしている謎の少女に視線を向けた。その黒曜石のような瞳は、夜目でも分かるほど潤んでいた。
「……あの〜?」
気遣わしげに声をかけるが、少女は呆けたように動かない。しばらくして、今度は片手を少女の眼前にかざして振った。
「あっ、ごめんなさい……」
ようやく気が付いたその少女に、道風は輝くような優しい笑顔を見せた。
「今ならまだ、追いつけるよ?」
「……あ、ありがとうございます!」
そう頭を下げた少女は、色葉の後を追って星空の下を走り出した。見る見るうちにその背中も遠ざかっていく。
風が吹き、足元から冷気が這い上がってきた。思い出したように寒さが戻ってきて、道風は体を震わせた。
「……う〜ん、一人になっちゃったね〜」
笑みを崩さないまま、道風は屋敷の塀にもたれかかった。寒さに身を震わせながら空を見上げる。そこには、先程と全く変わらない満月が輝いていた。
「はっ……はっ……」
息を詰まらせながら、色葉は荒い呼吸を繰り返す。足を止めて大きな木の幹に手をつき、何度も深呼吸を繰り返す。冷たい空気が肺に入ってきて、熱くなった体を内側から冷やす。……息が整ってきた。
色葉はそこでようやく辺りを見渡した。
今立っている場所は小高い丘になっていて、周囲の景色がよく見える。丘のすぐ近くには藤神家の屋敷を見つける事ができた。所々に灯りが見える。少し離れた所に視線を移すと、今夜道風と行く予定だった市が見えた。そのさらに向こうには田畑も広がっていて──
この景色、見覚えがある。
色葉は、手をついている木を見上げた。なかなかに歴史を感じさせるその大樹は、見事な枝振りを広げる桜の木だった。
「……はは、やっぱりここに来ちゃうんだ」
乾いた笑みをこぼしながら、色葉はずるずると腰を落ち着けた。背中を太い幹に預け、膝を引き寄せて抱える。
あの木の下。いろんな思い出が詰まった、桜の木。その思い出の中にいるのは、とある一人の少女。三年前に行方が分からなくなって以来、一度も会った事の無い少女だ。
「…………帰ってきた……」
でもそんな彼女が、ついさっき目の前に現れた。何の前触れも無く、突然に。
自分は、彼女との再会を心から待ち望んでいたはずだ。なのに今、心の中に広がっているのは喜びだけではない。むしろそれ以外の感情の方が大きいだろう。
だから自分は逃げた。あの場から、彼女から。そして、過去から。
「景色、きれいだね」
「……っ!」
突然のその声に、色葉は身をすくませた。そして、顔を声が聞こえた方とは反対側に向ける。対する少女は、視線を遠くに向けながら言葉を続けた。
「私、安心した。大好きなこの景色が変わってなくて」
「……そんなの……変わってたまるか」
震える声を隠すように、色葉は低く呟いた。膝を抱く腕に、自然と力がこもる。
「ここからの景色だけは、絶対に変えさせはしない」
「ふふっ、相変わらずかっこいい事言うね」
少女は、色葉から少しだけ離れた場所に腰掛けた。なだらかな傾斜に足を伸ばす。
二人の間に沈黙が流れた。
風の音だけがただ聞こえる中、最初に口を開いたのは少女の方だった。
「…………ごめんなさい」
「……なんで、謝るの」
「だって、全部私のせいだよ。私があんな事しなかったら──」
「──違う!」
鋭い声で、色葉は少女の言葉を遮った。
「あれは、俺の弱さが招いた結果だ。俺が、守りきれなかっただけ」
「でも……」
「だから! ……ごめん、氷波」
そこでようやく、色葉は少女の顔を、目を見た。いつの間にかこちらを向いていた彼女の目には、心からの安堵と、再開した喜びが垣間見えた。少女はふっと表情を綻ばせると、不意に顔を伏せた。
言葉を詰まらせる少女に、色葉は優しげな微笑を浮かべた。
「泣いてもいいと思うよ。俺も、泣きそうだから」
「……その前に、一言だけ、いい?」
小さく頷くと、少女は潤んだ上目遣いをしたまま、その薄い唇を動かした。
「…………ただいま、色葉」
「おかえり、氷波」
その短いやり取りで、少女の緊張の糸は解けてしまったようだ。瞬く間に少女の儚げな顔が歪み、その頬を大粒の涙が伝った。三年間の空白が生んだその涙は、ぱたりと地面に滴り落ち、僅かに生えた雑草の隙間に吸い込まれていった。
「やだっ……なんで、こんなっ……」
後から後から流れ出るそれに、少女は慌てて目許を拭う。そんな彼女を見た色葉は、ゆっくりと立ち上がって歩み寄った。
そして、黙したまま少女の頭に手をのせた。その小さな温もりに、少女は泣きながらも満面の笑みを広げる。
「いつまで経っても変わらないね。……その癖も、君も」
「俺、氷波に会うまでは変わらないって、決めてたから」
色葉の普段は控えめな笑顔も、今回ばかりは泣き笑いに近いような顔になっている。それだけ、この少女との再会が色葉の心を動かしたのだ。言葉ではとても言い表せない。
頭の上にのせられた手をとった少女は、その白く細い指を両手で包み込んだ。
「ねえ色葉。私とまた会えて、嬉しい?」
「当たり前だよ。嬉しくない訳ない」
色葉の素直な言葉に、少女はさらに輝くような笑顔を見せた。そして囁くような声で、かすかに呟いた。
「──今度こそ、ずっと一緒だよ。たとえ世界の全てが、敵だったとしても」
色葉は、その言葉に大きく頷いて、握られた手をしっかりと握り返した。
その真の意味を、今はまだ、色葉は理解する事ができなかった。その言葉に隠された、とある過去の真実を。
──そして物語は、ようやく動き始めた。




