第八話
色葉の自室は、ぼんやりとした月明かりに照らされていた。木窓を開けているので、部屋に冷たい風が入り込んできている。文机に積まれた書物が、ぱらぱらと音を立てた。
「……三年ぶり、か」
寝床の上で寝返りを打ち、小さく呟いた。投げ出した左手をそっと握りこむ。風にめくれる書物を眺める目は、遠くを見透かすように細められた。
もしかすると、あの事がきっかけだったのかもしれない。それまでうやむやだった目的が、急に現実味を帯び始めたのだ。
──世界を変える。
これは、ずっと昔に交わした氷波との約束でもあった。そしてあの事件をきっかけに、俺はその目的を達成するための努力を始めたのだ。毎日毎日繰り返しの日々を送り、ただひたすら剣術や魔術の稽古に時間を費やした。おかげで今では、人並みには剣も魔法も使えるようになった。
でも、まだまだだ。まだ、足りない。世界を変えるためには、もっと強大な力をつけなければならない。もっと大きな強さを。
再び風が吹いた。
「……それにしても、遅いな」
氷波との再開を果たした後、彼女を屋敷に連れ帰り、真っ先に祖父の下へと足を運んだ。
行方不明だった少女の姿を見た祖父は、色葉と同じように唖然とし、まず謝罪の言葉を述べた。そんな老人に氷波は困ったような顔で笑い、「ただいま戻りました」と頭を下げた。
そして幾分か緊張が残されたものの、明るい雰囲気のままその場は解散となった。だが、氷波と祖父は話があるという事で、色葉だけ先に部屋に戻ったのだ。
……先に戻ってて、すぐに行くから。
と笑顔で言われてから、すでに一時間以上が過ぎただろう。待つのは苦手ではないが、睡魔と闘うのは苦手だ。
「ふぁ……」
少しだけ眠ろうか。そう思い始めた途端、廊下に人の気配を感じた。そして、その足音が部屋の前で止まり、こんこんと戸を叩く音が響いた。色葉は微笑を浮かべる。
「開いてるよ」
そう一声かけると、ゆっくりと戸が開けられた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
言葉と共に、待ち構えていた少女が部屋に入ってきた。申し訳なさそうな顔をする彼女に、色葉は起き上がって首を横に振った。
「いいよ、待つの嫌いじゃないし。適当に座って」
「ありがと」
指し示された場所に腰を下ろした氷波は、片膝を立てて座っている色葉をまじまじと見つめた。
「本当に変わらないね……色々と」
妙な視線を向けられた色葉は、微笑を少し悲しげなものへと変えた。両腕でお腹を抱える。
「……やっぱり、気になるよね」
「気になるよ。ちゃんと食べてる?」
「食べてるけど……全然大きくならないし……縦にも横にも」
段々と沈んでいく声音に、氷波は身を乗り出して励ますように両手を握り締めた。
「そ、そうなんだ。でも頑張ってね、応援するよ」
その言葉に色葉は苦笑いを浮かべた。応援されても、無理なものは無理なのだけれど。色葉は溜め息を吐いて、ふと顔を上げた。いくら月明かりが差し込んでいるとはいえ、それだけでは部屋は少し薄暗い。
「灯り、点けるね」
そう言って、色葉は立ち上がった。後ろの棚にある油を取ろうと、氷波に背を向けた。その時。
「……っ!」
突然、体が温もりに包み込まれた。背後から回された手に色葉は息を呑み、反射的に振り解こうとする。過去の記憶が甦り、恐慌状態に陥りそうになった。しかし、
「…………もう私を……一人にしないで……」
耳朶に響いたその少女の声に、色葉はすぐに落ち着きを取り戻した。依然として鼓動が高く脈打ってはいるが、次第に思考が鮮明になっていく。そこで、ようやく気が付いた。
揺れる声で呟いた氷波の体が、小さく震えていた。胸の前で交差している手も、小刻みに震えている。冷え切ったその手を、色葉は自らのそれで包み込んだ。そして、小さく息を吐く。
「……分かってる」
言葉と共に、腕の中で氷波の方に向き直った。赤子をあやすかのように、その形の良い頭に手をのせる。ゆっくりと撫でてやると、手入れの行き届いた細く長い黒髪がさらさらと流れた。
「…………大丈夫だよ、こうしてまた会えたんだから。絶対、大丈夫」
優しく語りかけると、氷波の口から微かな嗚咽が聞こえてきた。三年もの間、色葉やその家族達と離れ離れだったのだ。氷波の両親が、彼女が生まれた直後に亡くなって以来、藤神家の人々がずっと一緒に暮らしてきて、もはや家族も同然といっても過言ではない間柄になっていた。そんな人達から離れ、七歳の少女が一人きりとは、心細い事この上なかっただろう。
安心させるように、色葉も氷波の背中に腕を回した。その、いつの間にか色葉より大きくなってしまった背を、優しく何度もさする。すると、彼女の両腕に力がこめられた。
「それに……あの櫛、まだ持ってるよね」
そう色葉が聞くと、氷波は掠れた声で、うん、と頷いた。鼻をすすり、言葉を続ける。
「私……ずっと、この櫛に力を貰ってたんだ。本当に、ここに色葉がいるみたいで……すごく、心強かった」
言い切った氷波の手は、もう震えてはいなかった。最後に色葉の細い体をきつく抱きしめると、ゆっくりとその背中から腕を下ろした。
「…………ありがと。もう、平気」
氷波はそう言って部屋の中央へ移動し、ぺたんと座り込んだ。その頬は、月明かりの下でも分かる程に紅潮していた。落ち着いたみたいで良かった、と心の中で思い、色葉は灯りを点すための油を棚から取り出した。
「…………でも、いきなり背中からは……」
油を専用の容器に入れ、火属性の魔法で点火しながら色葉は呟いた。いきなり背後から抱きつかれるのは、過去の心的外傷が甦るのだ。
「……赤松様から聞いたよ。私がいなくなった次の年の事」
「最近はましになってきたんだけど……今でもまだ、うなされる時がある」
呟いてから、色葉は小さく笑った。
「こんな事言えるの、氷波だけだよ」
「それは……嬉しいのかどうか、迷うんだけど」
彼女が言うのは、本音を話せる相手がいないのは残念だ、という意味だろう。そんなもの、氷波一人で十分だ。
色葉は氷波の前に、さっきと同じように片膝を立てて座った。彼女と視線を合わせて、目を細める。
「氷波は背、高くなったね」
「うん。……あー、何か、ごめんなさい?」
「嫌味にしか聞こえないんだけど」
三年前までは色葉の方が高かったのに、今では少しばかり見上げないといけない程だ。苦い顔をする色葉に、氷波もまた苦笑いを浮かべた。
この話をしていても分が悪いので、話題を変える事にした。
「そういえば、おじい様と何の話してたの?」
「えっと……三年間の、お互いの事とか、色々……」
「へぇ、そうなんだ」
自分から聞いておきながら、相変わらず素っ気ない返事をする色葉に、氷波は突然目を輝かせた。
「私、色葉に話したい事、たくさんあるんだ。今夜は付き合ってよ!」
ね?と期待に満ちた目で身を乗り出す氷波に、色葉が反対できるはずもなく──
「い、いいけど、別に……」
色葉の徹夜が決定した瞬間であった。
次の日。
氷波との会話に花を咲かせてしまい、昨夜は一睡もすることができなかった。氷波と話す事はとても楽しいし、内容も充実したものだったのだが、いかんせん眠い。
朝日が窓から差し込んできたところで、氷波はようやく自分の部屋に戻っていった。きっと部屋の準備や着替えをしに行ったのだろう。色葉は、それから服を着替えて、ついでに早めの朝餉を取ろうと食堂に向かった。
そして、そこにいた先客に、色葉は顔を真っ青にした。
「──道風っ?」
おはよ〜、と手を振る彼に色葉は駆け寄った。きれいさっぱり忘れていたが、そういえば昨日は道風と市に行く予定だったのだ。
「えへへ〜、外で寝ちゃった〜」
その言葉に、色葉はさっと道風の額に手を当てた。
「な、なに?」
「熱は……無いね」
驚いて少し仰け反った道風に、色葉は内心でふっと笑った。「なんとかは風邪をひかない」とは事実だったようだ。
ほっと胸を撫で下ろした色葉は、炊事の者が道風の隣に一瞬で用意した席に座った。この手際の良さは全国に誇れる水準だと思う。
すでに食事を終えていた道風に向かって、色葉はわずかに頭を下げた。
「ごめん道風、存在を忘れてた」
「大丈夫だよ〜。でも、後でちゃ〜んと説明してもらうからね〜」
彼女の事、と言いながら右手の小指を立てる道風に、色葉は真剣な顔で小首を傾げた。
「小指、痛いの?」
「あははっ。首はちょっと痛いよ〜、変なかっこで寝ちゃったみたいでさ〜」
いつもどおりかみ合わない会話だが、もはや突っ込む気にもなれない。色葉は朝から早々に溜め息を吐いて、出されてきた朝餉に視線を移した。──ちなみに色葉は自分の発言がずれている事に全く気付いていない──
今朝の食事は、玄米を炊いたものと味噌汁、それとたくあんだ。まあ、武家にしては一般的な献立だろう。冷めていなければ美味しい、はずだ。
「いただきます」
手を合わせて、箸を手に取った。とりあえず玄米をひとくち。
「……ん、美味しい」
そしてもうひとくち。ほくほくの湯気万歳。
しばらく、かちゃかちゃという箸の動く音と、味噌汁をすする音、すぐ隣から発せられる欠伸の音だけが食堂に響いた。静かな朝食。なんと素晴ら──
「でさでさ〜、誰なの?」
突然、耳元で囁かれた。眉間にしわを寄せながらも、色葉は食事の手を休めずに答える。
「幼馴染だよ。一歳の頃からの」
「へぇ〜。でも僕、始めて見たよ〜?」
「……そりゃあ、三年前に離れ離れになったから」
道風の「なんで?」という視線に、色葉は箸を置いた。あと少し残された汁物に視線を落とす。
「昔、色々あったんだ」
「色々って?」
ずずっと残りの味噌汁を口の中に流し込んだ。それを飲み込み、お椀を机に置く。
「…………そんなにおもしろい話じゃない」
色葉の低い呟きに、道風は黙り込んだ。色葉は、ごちそうさまと手を合わせて、静かに席を立った。気を取り直した道風が、何かを言おうと口を開こうとした、その時。
「──おはようございます」
食堂の戸が、そんな声と共に開けられた。
「あ、色葉に生島さん、おはようございます。食事はもう終えられましたか?」
氷波だ。昨夜は確か白い服だったが、今は薄い水色の単に身を包んでいる。そんな彼女の言葉に、道風は軽く目を瞠った。
「あれ? 何で僕の名前知ってるの?」
「皆さんのお話は、赤松様から伺いましたから」
そう言って、氷波は色葉の前の席に座った。先程と同じように、朝餉の準備が手早くなされる。氷波は色葉に向かって苦笑いを浮かべた。
「……ごめんね、色葉。昨日は長い間話し込んじゃって」
「いいよ。俺もすごく楽しかったし」
先程とは打って変わって、色葉の表情が心なしか明るい。色葉と氷波の顔を見比べた道風は、いかにも子供らしい笑顔を広げた。そして、さっき言おうとした事を改めて口にする。
「ねぇ、色葉〜」
「何?」
「昨日行けなかったからさ〜、今日こそ市に行こうよ〜」
道風の言葉に、色葉は珍しく即答した。
「いいよ。そもそも、俺は最初からそのつもり──」
「──駄目です!」
がしゃんと音を立てて、氷波が立ち上がった。張り上げられた声に、色葉と道風は氷波の方を見やる。その表情からは笑みが消え、代わりに怒気のようなものが感じられた。目も完全に据わっている。
「そんな人混みに、色葉は行かせられません!」
突然の氷波の怒りに、道風は目を白黒させている。それに対し、色葉は氷波をなだめるように、彼女と視線を合わせながら落ち着いた声で言った。
「氷波、俺は大丈夫だから」
「でも……!」
「……少しは、慣れていかないと。それに…………何でもない」
顔を伏せた色葉は、そのまま食堂を出て行った。彼は戸を抜ける時に立ち止まって、「外で待ってる」と言い残し、準備のため部屋に向かっていった。
「色葉……」
「あの〜、色葉に何かあったの……?」
恐る恐る尋ねた道風に、氷波は深く息を吐いた。再び席に座りなおす。
「ごめんなさい、柄にもなく取り乱してしまいました」
そう言いながらぺこりと頭を下げて、氷波は苦笑いを浮かべた。
「何も、聞かされていないんですね……」
道風が頷くと、色葉と幼馴染のその少女は、ゆっくりと口を開いた。
「──色葉は、人の『過去』が視えるんです」
「……へ?」
その言葉の意味を理解できず、道風は掠れた声を残して固まってしまった。
「色葉が言っていないのなら、私も深くは言いませんが──」
そう前置きして、氷波は「過去が視える」という事について説明し始めた。
「生島さんも、魔力という言葉は知ってますよね。魔法を使うのに必要な力の事です。これが多いほど、強力な魔法を連続して使えたり、複雑で高度な魔法が使えたりします。……ここまでは大丈夫ですか?」
徐々に衝撃から立ち直ってきた道風は、ぎこちなく頷いた。その彼を見て氷波は説明を続ける。
「魔力の多さや強さは個人差が激しいんですが、藤神家の人達は桁違いの多さを誇っていました。そんな藤神一族の中でも、特に強大な魔力を持って生まれたのが色葉です。藤神家の人達──とりわけご両親や赤松様は、本当にそれを喜びました。でも、その代償なのかどうかは分かりませんが、余りにも強すぎる魔力のせいで、色葉には他人の過去の記憶が流れ込むようになってしまったんです。辛い記憶も、全部……」
そこまで言い切って、氷波は息を吐いた。
「長々と話しすぎましたね、ごめんなさい」
「……そう、なんだ……」
「色葉自身が行くと言うのなら、私には止められません。ですから生島さん、人混みに行くのなら、色葉には細心の注意を払ってください。お願いします」
道風は、その真剣な言葉に今度はしっかりと頷いて見せた。
「もちろんだよ! 色葉は僕達の大切な友達だからね〜」
「友達……? そうですか。頼もしいです、生島さん」
ようやく氷波の顔に笑顔が戻った。
「う〜ん、やっぱり女の子は笑ってるほうがいいよ〜。……あっ、僕もう行かなきゃ〜」
色葉が待っている事を思い出したのか、道風は慌しく席を立って食堂を出て行った。足音が遠ざかっていく。
そして食堂には、氷波が一人残された。
「…………色葉……」
その呟きには、心から彼を思う気持ちが含まれていた。それを象徴するかのように、少女の瞳から一粒の涙が溢れ出た。だが、彼女の真の思いは、果たして。




