第六話
「……ん……」
うっすらと意識が浮上してきた。ぼんやりとした感覚が次第に鮮明になっていく。残念な事に、はじめに痛覚が戻ってしまった。ずきんと痛んだ右手には、どうやら包帯が巻かれているようだった。処置をしてくれた人に感謝する。
〈……癒しの力よ、ファーストエイド……〉
かすかな吐息と共に、自らに治癒魔法を施す。布団の中で青白い光が右手を包み込んだ。包帯は後で取り外そう。
僅かに左手を動かすと、柔らかな衣擦れの音が聞こえた。少し厚めの布団が、体温を逃さず保ってくれている。
「……あったかい」
単純にそう思った。二月の下旬に入って多少は暖かくなってきたとはいえ、まだ冬真っ盛りだ。外気は氷のように冷たく澄んでいる。空気を吸い込むごとに、全身が洗い清められるような感じがする。だから、冬は嫌いじゃない。
だが、そんな色葉の清々しい目覚めは、突然耳朶に響いた声のおかげで崩れ落ちた。
「──だよね〜。すっごくあったかいよ〜」
「うわぁっ?」
素っ頓狂な声をあげて、色葉は上半身を跳ね起こした。布団がめくれ上がり冷気が入り込んでくる。剥き出しの素足を空気が撫でて、背中を寒気が這い上がった。
すぐ隣、なんと同じ布団の中から発せられたその暢気な声は、眠ってしまう直前まで戦っていた相手のものだった。彼の体勢から考えると、ほぼ寄り添うような形で寝ていたらしいが、全く気配が感じられなかった。
「あぁっ、寒いってば〜」
布団を首元まで引っ張りあげて、その侵入者はまた眠ろうとした。そんな彼に色葉は冷たい視線を向けた。
「……いや、それ俺の布団」
この少年と対峙した時、色葉──あの時は紅葉だったが──は一目で相手が何者か分かった。
いくらなんでも、戦場に子供がいるという事は基本的にありえないことだ。その事から考えられるのは一つ。色葉達と同じように、戦に関係しているという事だ。藤神家にあんな子供はいないので、生島家唯一の跡取り、今年で十一歳の生島道風だと推測した。
まあ、それ以前にすでに分かっていたのだが。なぜかは…………またいつか、みんなにも説明しないといけないだろうけど。
「では改めて……」
このふざけた少年を布団から引っ張り出して、部屋の中央で膝を付き合わせた。すると妙に真剣な表情をして、彼は丁寧に挨拶を始めた。
「はじめまして、生島家第三代当主、生島道風と申します」
「知ってる」
「ちょっ、最後まで言わせてよ〜……」
それでもやはり、ゆっくりとした話し方は変わらない。穏やかな物腰、とでもいうのだろうか。常に浮かべている笑みと相まって、やんわりとした優しげな印象を持たせている。
「大殿より、色葉様に仕えるようおおせつかりました。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「それは良かった」
相変わらず無愛想が過ぎる色葉の反応に、道風は困り果てたような顔をした。本当に表情がころころとよく変わる少年だ。
「もしかして、怒ってる……?」
「当たり前でしょ。なんでお前と一緒に寝なきゃいけないんだよ」
「いや〜、だって色葉、気持ちよさそうに寝てたし〜。それに、あったかかったからいいじゃん?」
「そういう問題じゃない!」
道風の言うとおり、確かに布団の中はかなり暖かかった。だが、それとこれとは別の話だ。そもそも他人と同じ布団で寝るという事自体、色葉にとって全く受け付けられない。
それになんで男同士で同じ布団なんだよ。おかしいだろ。そう口にすると、
「え? 色葉って男の子だったの?」
「ふーん。そんなにもう一度夢の国に行きたいんだ」
左手を握り締めて眼前に突き出す。その拳を見た瞬間、道風は「冗談だよ!」と素晴らしい笑顔で否定した。
段々どうでもよくなってきた色葉は、ばったりと床の上に寝転がった。
「はぁ……馬鹿みたい」
「馬鹿といえばさ〜、鹿肉って美味しいよね〜。馬肉はくさいけど」
……こいつは天然なのか?それとも真性の馬鹿なのか?
という考えが脳裏を席巻した。
視界の隅に映る能天気な顔が此度の戦を終わらせたのだと思うと、少し、いやかなり腹が立つ。
「……くさい? どっちも美味しいと思うけど」
まあ、今回は素直に褒めてやっても──
「でも〜、やっぱり鮎だよね!」
やっぱりやめた。
僅かに時間を遡る。色葉と道風の一騎打ちが終わり、両者共にぐっすり眠っていた時の話だ。
少し離れた場所ではまだ戦闘が続いている。だが今、水望の目の前には、とても戦の最中とは思えないようなのどかな光景が広がっていた。西の空に傾きだした太陽が、二人の寝顔を明るく照らしている。
「……でも本当に誰なんだろ。この子」
抱きとめていた色葉を謎の少年の隣に寝かせて、水望は同じように寝転がった。
水望が駆けつけた時には、もうこの少年は気を失っていた。何があったのかは分からないけど、色葉と戦っていたという事はおそらく敵なのだろう。色葉にもこの少年にも聞きたい事は山ほどあるが、こう気持ち良さそうに寝られると、どうも起こしづらい。
それにしても。
「…………かっこよかったよ、色葉」
華麗な空中回し蹴りから相手のお腹に左手を叩き込んだ様は、まるで舞踊のようだった。色葉の剣術が桁外れに強いのは知っていたけれど、それに加えて体術も使いこなせるとは。武術の天才とはまさに彼の事だろう。憧れどころの話ではない。
自分の無力さに打ちひしがれた水望は、ひとつ溜め息を吐いて色葉の寝顔から視線を外した。
「……でも、これからどうしよ……」
この二人を水望一人で運ぶ事は無理だ。かといって放っておく訳にもいかない。いつまでもこのままにしておく訳にも……。
「あー、もうっ!」
水望が頭を抱えようとした、その時。
遠くから馬の足音が聞こえてきた。どうやらそれは二頭いるようで、軽快な蹄の音が二つ重なって聞こえる。敵に見つかってしまったのかと水望は身を硬くした。
「──水望ちゃーん!」
だが、その声で水望はすっと力を抜いた。その声の方向を見て、大きく息を吐きながら立ち上がった。
その一頭には、こちらに向かって大きく手を振っている少女が乗っていた。水望も立ち上がって大きく手を振り返す。もう一方の馬には、総大将である赤松が乗っていた。手を下ろした水望はぺこりと頭を下げて、何とも言えない表情を浮かべた。
二頭の馬が、水望のすぐ近くで止まった。先に降りた赤松に続き、白花も馬を降りる。
水望は再び頭を下げた。
「…………申し訳ありません。命令に背いてしまって……」
「いや、そんな事はいいんじゃが……これは?」
水望の後ろで倒れている二人の少年を見て、赤松は戸惑いをあらわにした。水望も振り返って、その顔に苦笑いを浮かべた。
「えっと、これはですね──」
「とにかく、こっちの子だけでも手当てを……
〈癒しの力よ、ファーストエイド〉
水望は、彼女が知りうるだけの状況を説明した。その後、やはり本人に事情を聞こうと、白花が見知らぬ少年に治癒魔法を施した。
すると、その少年はゆっくりと目を開き始めた。
「……んぅ、あと少し……」
そうもごもごと言いながら、彼は寝返りを打った。本当に気持ちよく寝てたんだな、と改めて水望は思った。
またしても眠ろうとする少年の顔を、三人はまじまじと見つめた。
「……へ? うわっ!」
自らを覗き込んでいる三つの顔に、少年は驚き飛び起きた。癖のある髪を揺らしながら、その三人の顔をきょろきょろと見回す。
「あのー、大丈夫ですか? どこか痛むところとか……」
動揺した様子の少年に、真っ先に声をかけたのは白花だった。その声に、彼はその動きを止めた。そして一言。
「……かわいい……」
何の脈絡も無いその発言に、白花は珍しく取り乱した。
「かわいいって……と、突然なに言い出すんですかっ?」
「あわわっ、ごめんなさいっ。つい本音が〜」
随分暢気な話し方をする少年の言葉に、白花はかあっと頬を赤く染めた。
そういえば、白花ちゃんはそっち方向には不慣れなんだった。まあ、周りに男がいないから仕方ないか。いや、そういえば一人だけいた気がするんだけど、あれは白花ちゃんのお姉ちゃんだから違うか。……怒られるね。
そんな思考をぐるぐると巡らせた水望は苦笑いを浮かべるしかない。
そんな中、赤松はごほんと咳払いをした。それに気が付いた少年は、穏やかそうな笑みから一転、真剣な表情に変わった。
「……あなたは……もしかして、あの赤松様ですか?」
「いかにも。わしがあの赤松じゃ」
どの赤松ですか、と水望が突っ込もうと口を開こうとした。だがその瞬間、少年は一瞬にして居住まいを正し、座礼の形を取った。軽口を叩けないような空気が辺りに流れる。
「申し遅れました。私は生島道風と申します。藤神家の御当主にお伝えしたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」
依然として話し方はゆっくりとしているが、その言葉からは暢気さが全く感じられなくなっていた。そんな彼からは不思議と、色葉や赤松と同じような雰囲気を感じられる。
赤松が頷くと、道風と名乗った少年は、真剣な表情のまま微笑を浮かべた。そして一瞬の沈黙の後、彼は静かに口を開いた。
「──只今をもって、生島家は、藤神家に降伏いたします」
道風の降伏宣言と色葉の多大な活躍によって、藤神軍に大きな被害を出さず戦を終決させる事ができた。そして色葉にも大きな怪我が無くて本当によかった。今頃、道風と一緒に部屋で休んでいるだろう。
そんなこんなで無事屋敷にたどり着いた水望は、そのまま赤松の部屋に足を向けた。その足音は、心なしか大きく響いている気がする。
これから赤松に、色葉の豹変について、そして紅葉という名前について説明してもらうのだ。
なぜかは分からないけど、色葉の事をもっと知らなければならない気がする。そのためには、赤松が知っている事を聞き出さなくてはならない。
そうこうしている内に、赤松の部屋の前に着いてしまった。小さく深呼吸をして、戸の向こう側に声をかけた。
「……失礼します」
戸を叩き、返事も待たずに部屋に押し入った。瞬間、甘い良い香りが鼻腔に広がった。
「うわぁ、なんですか? この香り」
「ふぉっふぉ、誰かと思えば水望か。なかなか良いじゃろう? 大陸から取り寄せた香じゃ」
突然の水望の来訪にも、赤松は気を悪くした様子は無い。さすがは藤神家の長だ、堂々とした振る舞いを崩さない。朗らかな笑みを浮かべながら、赤松は言葉を続けた。
「色葉には合わなかったようじゃがのう。残念じゃ」
「えー? こんなにいい香りなのに」
そう言いながら、水望は赤松のすぐ前に座った。すっと表情を引き締め、赤松の顔をじっと見つめる。その視線に、水望が何を聞きたいのかを赤松は理解したようだ。
「…………紅葉か」
「はい、まずはその事です。紅葉とは誰なんですか? 教えて下さい」
水望のややきつめの問いかけに、赤松は目を閉じた。じっくりと思案するように、手にしている扇を閉じたまま口元に持っていった。
「誰、か……どう言えばいいのじゃろうな。……実を言うと、わしらにもよく分からんのじゃ」
「分からない?」
「眼が紅くなるから紅葉。その呼び名もそんな安直なものじゃ。それ以外では、気性が荒くなって好戦的になる事しか知らん」
「……あれは、色葉の別人格なんですか?」
「まあ、そうとも言えるのう。……色葉には、沢山つらい思いをさせてしまったしな……」
「つらい思い?」
「すまぬ。今はまだ、なにも……」
「そうですか」
水望の矢継ぎ早な質問に、赤松は表情を変えないまま答えた。扇を口から離し、まっすぐに水望を見る。
「とにかく、今は何も聞かず、色葉を支えてやってはくれんか? お前さんになら、わしも安心して頼めるでのう」
「もちろんそのつもりです。色葉のためだったら、私……」
そこまで言って、自分の発言に恥ずかしくなった水望は頬を赤らめた。と、その時点で水望は自らの失敗を悟った。案の定、その様子を見た赤松は飄々とした笑みを広げて、何かを期待しているかのように瞳を輝かせていた。
「ほう。これは楽しみじゃのう」
「な、何がですかっ?」
「分からんか? 色葉もあんなどっちか分からん顔をしておるが、一応男じゃぞ?」
紅葉の話を聞きに来ただけなのに、まさかこんな話になるとは思わなかった。肝心の答えは濁されて思うような成果は無かったのに、これでは何をしに来たのか分からない。
「ううー……」
しばらく考えて、苦しい言い逃れをするよりも、素直に言ったほうが良いという結論に至った。なぜか少し潤んだ目で、水望は赤松のその慈愛に満ちた笑みを睨んだ。
「そうですよ! 私は色葉の事がっ……!」
そこまでは何とか言えたものの、その先はのどが詰まって声が出なくなった。段々と気恥ずかしさが勝ってきて、水望は勢いよく立ち上がった。
「やっぱり何でもないです!」
そして水望は、慌しく部屋を出て行った。
どたどたという足音が遠ざかっていく。
「ふう、お前さんも色葉か……大変じゃぞ? のう、氷波」
今ここにいない少女の名前を赤松は呼んだ。もちろん返事が帰ってくるはずもなく、ただ自らの口から溜め息が漏れただけだった。
「それにしても、本当にお前さんは鋭い子じゃな。…………いつかは真実を話せる時が来ると、わしは信じておるぞ」
そう呟いた赤松は、ふっと部屋の明かりを吹き消した。
数時間後。
すっかり日も暮れ、星が一つ、二つと空を彩り始めた。
「わあ〜、みてみて〜色葉。星がきれいだよ〜」
庭先で空を見上げていた道風が、その星達を指差しながら楽しげな声を上げた。にこやかな笑みを湛えながらこちらを振り向く。その顔をよくよく見れば、道風もそれなりに中性的な顔立ちをしていることに気付いた。よかった、ここに仲間がいた。
「あっ、流れ星〜」
星空を見たことが無いのかと思うぐらい道風はしゃいでいる。そんな無邪気な少年を色葉は完全に無視しながら、隣に座っている少女に視線を移した。
「ねぇ三条、さっきの事だけど…………って、何?」
水望に声をかけた途端、怒ったような目つきで睨まれた。何かまずい事でも言ってしまったのだろうか。いや、まだ何も言ってないはずだ。
そう思考を巡らせて考え込んでしまった色葉に、水望は深い溜め息を吐いた。つい先程赤松に言われた言葉が、脳裏で何度も響く。そのせいでうっかり色葉を睨んでしまった。ごめん、と心の中で頭を下げる。
「何でもないよ」
そして水望は、俯き加減でぽそりと呟いた。
「…………約束」
「え……?」
眉根を寄せて小首を傾げた色葉に、水望はさらに小さな声で「今朝の」と付け加えた。それでようやく合点がいった色葉は星空を見上げて、水望が欲しがっているであろう言葉を発した。
「無事に帰ってこれたね、水望」
「うん。色葉のおかげだよ」
優しい色葉の声に、予想通り水望は顔を輝かせた。
そういえば、今朝方こんな約束をした気がする。わざわざ下の名前で呼ぶ事に意味はあるのだろうか。ふとそんな疑問が浮かんだ。
「なんで名前で呼ぶの?」
「そ、それは、えーっと…………そう、信頼の証だよ! 色葉にも私を信じて欲しい、みたいな?」
「へえ、そうなんだ」
それは知らなかった。なら、水望を名前で呼ぶ事になんら違和感は無い。これでも、水望の事は十分信頼している。
「じゃあ、生島の事も、道風って呼んだ方がいいのかな」
いまだ飽きずに星空を眺め続けている背中に、色葉は漆黒の双眸を向けた。
先の一件から冷たく当たっているが、別に彼の事を信頼していない訳ではない。信頼していなければ、自分の寝床に入られた瞬間に有無を言わさず叩き切っていた。
「そうだね。そうしたほうがいいよ、絶対。私達、友達なんだからさ」
「違う」
水望の言葉が終わらない内に、色葉は即刻否定した。突然言い切られた水望は、ただ唖然とするしかない。そんな水望を視界に捉えながら、色葉は言葉を続ける。
「水望も道風も、俺の大事な家臣だ」
「あ……そういう意味……」
安心したようで、少し残念な気もする。微妙な感情を胸に抱いた水望は、ふと色葉の横顔に視線を戻した。
「そういえば、さっき何か言いかけてたよね?」
問われた色葉は、約一分前の記憶を掘り返す。
「ああ、あれは単純にお礼を言いたかっただけ。水望が来てくれなかったら、今頃どうなっていたか……」
そう言って、もう一度道風の背中に視線を向けた。先程よりも少し険しい顔で。
「…………うわ、もう少しであいつに……」
殺されるところだった。とは、さすがに口には出さなかった。だが、その沈黙に水望も何かを感じたのだろう。同じ背中を見つめる。
「あれが、生島家の当主ねえ。前当主もよくあんなのに相続させる気になったね」
「……うん」
そうか、平和的に権力が移譲された事になっているのか。というより、道風自身がそう説明したのだろう。その気持ちは分からなくもない。
「──おーい、お兄ちゃん達ー!」
その時、そんな声が聞こえた。その声は、夕餉の支度が出来た事を知らせに来てくれた白花のものだ。それを聞いた途端、道風は瞬く間に庭から上がってきた。
「白花ちゃんが呼んでる〜!」
そう何気なしに言った道風の頬は、ほんの僅かに紅潮していた。彼はそのまま、食堂の方へ走っていった。その早足に、二人はお互いの顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。
「さ、私達も行こ! すっかりお腹空いちゃったー」
「ちょっと、引っ張らないでよ……!」
色葉も半ば水望に引きずられるようにして、道風の後を追った。引かれている腕から、水望の温もりが伝わってくる。
「……友達、か……」
その温もりを感じながら、色葉は最近考えた事も無いその言葉を口にした。
でも、そんな他人が少しくらいいても、いいかな。
そして色葉は、その顔に微笑を広げた。そんな「少しの他人」に含まれる背中に向かって。
友達の存在が必要か不必要か。去年までの色葉なら、確実に後者を選んだ。しかし今の色葉では、到底判断する事ができない。
これが前進なのか後退なのか。その答えは、誰にも分からなかった。