第八話
突然、口の中に何かが入ってきた。
「んんっ……!?」
視界がふさがれ、息もできない。
舌で押し返そうにも、柔らかな熱を持ったそれは逆に舌に絡みつき、歯をなぞり、口の中を侵していった。
何が起きているのか分からず、しばらくの間されるがままになっていた。手足をばたつかせてもがいてみても、動けば動くほど頭がくらくらするだけで、それは離れてはくれなかった。
やがて口内を蹂躙していたものが引き抜かれ、呼吸が戻った。それと同時に視界が開かれる。
ぼやけた輪郭に焦点が合うと、紅白の色彩が目に飛び込んできた。炎の如く燃える紅い瞳と、雪の如く透き通る白い髪。その特徴に合致する人物を、俺は一人しか知らなかった。
「ほたる……?」
俺の顔を覗き込んでいた少女は、自分の名を呼ばれてかすかに微笑んだ。
「気分は、どう?」
「あー……いやその、悪くはない、のだけれど……えっと、どういう状況か説明していただいても……?」
妙な言葉遣いになってしまった。
目の前の少女がこてんと首を傾げると、白い髪がさらりと流れた。
「お屋敷の中で、色葉の気配して、見に行ったら、倒れてた。それで、この川原まで運んだけど、色葉、魔力ほとんど無かったから、粘膜接触で、魔力の供給、した」
「粘膜って……」
「多分、僕の髪とか、血、飲ませる方が早かった。でも、意識のない人にすると、窒息するし、それに……痛いのは、嫌だったから……その、ごめんなさい……」
心底申し訳なさそうな顔をする彼女になんと答えればいいのか、真っ白になった頭では何も考え付かなかった。というかふわふわした頭は現在進行形で思考力を奪われているのだが、このふわふわしたものは、十中八九彼女の膝で、さっきのあれは、九割九分、彼女の。
全身にぴりぴりと痺れたような感覚があるのは、急激に膨大な魔力を注ぎ込まれたからだろう。そういうことにしておきたい。
なんとか上体を起こし、一つ大きな深呼吸をした。
「謝らなくていい、助かったのは事実だから。ありがとう。でも少し驚いたから、できれば起こしてからしてほし……いや、起きた状態であれを……? それはそれで大丈夫か?」
実際のところ、衛生面はともかくとして、魔力面で最も効率の良い魔力の供与方法は血液の経口摂取と言われている。そして、それに次ぐ効率的方法が、粘膜接触面における魔力平衡の作用。簡単に言うと、水が高いところから低いところへ流れるように、魔力も多いところから少ないところへ移動するという原理だ。
もちろん、外から無理やり力を加えれば水も坂の上に押し上げることができるように、魔力も魔法によって自在に分け与えることができるのだが、それがかなり高度な魔法になる上に、この状況下――方や魔力切れで意識不明、方や日の本一の魔力の器の持ち主――では直接動かす方が確実に早い。だからあれは最善の方法だったのだ。そうではあるのだが。
悶々としていると、草を踏む足音が聞こえた。
「井戸水汲んできたよ〜」
道風の声だ。声の方向に目を向けると、暗闇の中に松明を持った彼の顔がぼんやりと浮かんでいた。無事だったのか、よかった。
ここでようやく周りを見渡す余裕ができた。辺りにはすでに夜の帳が下りており、蛍の周囲に浮かぶ鬼火がぼんやりと自分たちを照らしているだけで、それ以外は夜闇に包まれていた。どうやらここは屋敷の裏手の川辺のようで、地面に生える草達は、雨水を含んで少し冷たかった。雨は今は止んでいたが、濃密な湿気の匂いが、またすぐに降り始めることを教えてくれていた。
足音が近くまでやってくると、周囲を漂っていた鬼火が二、三道風を誘導するように彼の足元へ向かった。彼の全身が浮かび上がる。
「道風……!」
その姿を見た途端、息を呑んだ。彼の服が、全身血に染まっていたのだ。慌てて治癒魔法をかけようと手を伸ばすが、優しい笑みを浮かべた道風に片手で遮られる。
「これね、さっき蛍ちゃんにも言ったけどぜ〜んぶ返り血だから。心配しないで、ね?」
口元にはいつもの軽薄な笑みが浮かんでいたが、目だけは普段とは違う、強い意志のようなものを持ってこちらを真っ直ぐ射抜いていた。
彼がそう言うなら、そうなのだろう。
そうか、とだけ呟いて彼が汲んできた井戸水を受け取った。桶に入った冷たい水を呷ると、たちまち全身に染み渡った。
「蛍、俺はもう大丈夫だから、辺りの確認がてらもう一杯汲んできてくれないか」
空になった桶を差し出すと、蛍はこくんと頷いて井戸のある方へと駆けて行った。
蛍に伴った鬼火が消えると、月明かりの無い夜は完全な闇に包まれる。屋敷の方は未だ鎮火していないのか橙に染まっているが、今いる場所はそれなりに離れているようで、その明かりが届くことはない。
〈癒しの力よ、ファーストエイド〉
淡い緑の光が、一瞬だけ闇夜に浮かぶ。
「ははっ、やっぱり色葉には隠し通せないかぁ」
「座ったらどうだ」
「……遠慮するよ。今座ったら、多分立てなくなる」
気力で立っているのだろう。それ程までに、彼の血は流れ過ぎていた。
「何があったんだ?」
「……分からない」
「そんな大怪我しておいて、分からないはずないだろう!」
「分からないんだよ、本当に。彼に何があったのか。僕は、何も分かっちゃいない。そりゃ、彼だって思うところはあるだろうし、実のところ、僕もその壁を崩し去ることはまだできてない。でも、僕は、僕達は、上手くやれてると思ってたんだ」
要領を得ない回答を続ける彼はそこで言葉を切り、一歩こちらへと足を進める。
「道風……?」
「ねぇ、色葉。君は、僕達非魔導師のことを、憎んでいるかい?」
そんな突然の問いに対する答えは、喉の奥に引っかかって出てこなかった。
憎んでない、とは言えない。幼い頃、彼らに蔑まれた記憶が、石を投げられた記憶が、胸の奥でちりちりと疼く。どうして魔導師に生まれただけで、と魔法自体を恨めしく思ったことも、それと同時に、魔法を使う術を持たない者達にも同様の感情を抱いたことは確かにある。
魔導師とそれ以外の者達との隔たりは、個人の間だけではなく、有史以来常に人間社会において存在し続けた。それは紛れもない事実だ。
だが、今もまだ彼らに対して怨恨の念を抱いているかと問われれば、容易に答えは出せない。
言い淀んでいると、道風がくすりと笑った。
「質問を変えようか。僕は、君達魔導師のことを、恨んでいるのかな?」
瞬間、風を切る音がした。
暗闇でも分かる。目の前に、刃が突き付けられている。
「今朝からずっと、頭の中で声がするんだ。魔導師が憎い、奴らを殺せって。これは、僕の心の声なのか?」
ああ、そういうことか。
平時の彼から向けられるとは露程も思わない強い殺気が、ぴりぴりと剣先から伝わってくる。
よくよく考えれば、これが当たり前なのだ。つい最近まで敵同士だった身。こうして敵意を剥き出しにするのが、自分達の常だったのだ。
そんな内面をひた隠しにして、本当に自分達は、上手くやっていたと思う。
だが、それももう、これで終わりだ。
抜刀し、眼前の刀を弾き飛ばす。勢いに押された彼がよろめいた隙をつき、一気に距離を詰める。
そして、彼の細い首筋を薙ぎ払った。
長い沈黙が落ちる。
湿った風が、二人の間を静かに吹き抜け、川原の草を揺らす。自分の呼吸と鼓動の音が、やけにうるさく響いた。
やがて硬直していた道風が、がくりと膝から崩れ落ちた。前のめりに倒れそうになった彼を抱きとめ、その場に座り込む。
そして──
「びっっっくりしたぁぁぁぁぁーーーっ!!」
素っ頓狂な声を上げた道風に押し倒された。
「ちょっ、馬鹿! 重い! 離れろ!」
「無理ぃ……立てない腰抜けたもん……いやだって絶対死んだと思ったもん今ぁ!」
「生島の当主がもんもんうるさい!」
「今それ関係ないでしょぉぉぉっ!」
年下の同性に抱きついて半泣きになる武士。そんな奴はおそらくこの国でこいつだけだろう。
魔法で吹き飛ばせなくもないが、あまりにも酷かと思い直し、一つため息を吐いて赤子をあやすように背中を撫でてやった。全く妙な気分だ。
「声はまだ聞こえているか?」
「いや……今はもう聞こえないけど……僕に何をしたの?」
これで全て合点がいった。
「お前にかけられていた魔法を切った。お前は、いや、お前達は操られていたんだ」
屋敷を取り囲んでいたのは山村の兵だった。おそらく彼らの主、山村陸も魔法で操られているのだろう。
なるほど、夕が言っていた通り「奴ら」が絡んでいるらしい。
「魔法で操られてたってこと……? でも、そんな感じしなかったけどなぁ」
「道風は術の効果が薄かったんだと思う。その魔法は、心の奥底にある感情を増幅させて理性を失わせるもので、特に今回は魔導師に対する負の感情が狙われたみたいだ。お前が完全に操られなかったのは、さほど魔導師に対する殺意を抱いていなかったからか、術に対抗し得るだけの理性を持っていたからかだな」
そう説明すると、彼はふうんと呟き、ゆっくりと立ち上がった。
「つまり、蛍ちゃんや水望ちゃんへの愛の力が打ち勝ったというわけだね!」
おどけたように笑った彼は、それにしても、と何処か遠くを睨んで続ける。
「この僕に策を弄するなんて、身の程を弁えぬ輩もいたものだ」
静かな川辺に、その凛とした声音はよく響いた。
「……さっきの問いの答えだが、確かに俺は、お前達非魔導師の事を憎んで……というより、恐れているのかもしれない。今でも、理解されないんじゃないかって、少し怖い。それと同じで、お前の頭の中で聞こえていた声も、お前自身の声であることに間違いはない、と思う」
「そっか……じゃあ僕達、案外似た者同士なんだね。僕も魔導師がすごく怖い。理解しようとしないくせに、理解されない事を恐れて、誤解を憎む。それじゃ駄目だってどこかで分かってるはずなのに。人間って、なかなか変われないね」
「だが、変わろうとしなければ、変われない」
内面を隠した上辺だけの仲良しごっこは、もうやめよう。お互いの理解が足りない事を自覚し、心から歩み寄らなければ、いつまで経っても両者の溝は埋まらない。それは、とても悲しい事だと思う。
「それもそうだね!」
見上げると、道風が手を差し伸べていた。その手を取ろうと手を伸ばす。
しかし、その手を取る前に一つだけ、確認しなければいけない事があるのを思い出した。
「……道風」
手を下ろして小さく名を呼ぶと、闇にぼんやりと浮かぶ人影は首を傾げた。
「なに?」
「……俺達の間には相互理解が欠如しているという事を念頭に置いて、正直に言ってほしい。道風は『その時』が来たらどちらにつく? 魔導師(俺)か、非魔導師(陸)か」
あれ程の殺気を放っていながら、道風にはおそらくほとんど魔法の効果が出ていなかったのだ。陸にどれほどの効果が出ているかは、屋敷の惨状を見れば想像するに容易い。時が来れば、操られているとはいえ、陸との対峙は免れないだろう。
「僕は、僕のためにしか行動しない。いつだって僕は、自分の生き残れる可能性が高い行動を取ってきた。生島の血を絶やさないことが、僕の生きる意味だから。今回もそうする。だから、多分……魔導師の味方にはなれない。これから先ずっと魔導師の味方であり続けられる自信はないからね」
「それは、つまり……?」
「ふふっ、そんなに心配そうな声出さないでよ。なんで僕がこんなにぼろぼろになってると思う? 彼を止めようとしたからじゃないか」
そう言って、再び手を差し出す。
「さっき色葉が言ってくれたんだよ? 変わろうとしなければ変われないって。確かに、今すぐ魔導師の味方にはなれないかもしれない。でも、いつかの未来、僕らが手を取り合えるようになればいいと、僕も思ってる。そのためにも、一度はちゃんと腹を割って話し合わないとね。あんな風に操られてる陸を、僕は絶対に止めてみせるよ」
差し伸べられた手を取ろうとしなければ、両者が触れ合うことは絶対にない。この手を掴もうが、振り払おうが、一度はお互いに触れ合わなければならない。
「僕は色葉の事、仲間だと思ってるから。もちろん陸もね」
その言葉に、偽りは一切感じなかった。
「……分かった」
手を伸ばし、掴む。こんなにも簡単なことが、なかなかどうしてできないものだ。
「…………ありがとう」
「う〜ん、前から思ってたけど、色葉ってやっぱり可愛いね!」
「は、はぁ!? 何だ突然! どこがだ言ってみろ!」
「そういうところ全部なんだけど……まあいいや。それにしても、蛍ちゃん遅くない?」
「話を逸らすな聞き捨てならないんだぞこの歳になってもこっちがどれだけ気にしてるか──」
その時、眩い光が視界を覆った。咄嗟に目を庇い、腰を低くして刀の柄に手を添える。
そこにあったのは、蛍の鬼火だった。周囲を三回ほど回った後、一直線に屋敷の方角へと飛んでいく。
「蛍ちゃんに何かあったんだ!」
頷き、地面を蹴る。
『その時』が、既にそこまで迫っていた。