第二十話
ついに、瑞穂と従者の魔力が消失した。彼女らの存在を証明するものは、雪に突き刺さって残された従者の刀だけとなった。沈黙する世界に、吹雪だけがうるさく鳴いている。
「僕ならまだ魔力の残滓を辿れる! だからっ……!」
言葉が続かない。蛍は何かを言いたげに口を開閉していたが、やがて唇を震わせると、それきり視線を伏せた。
つい先ほど、従者がその全魔力――魔導士が生命活動を維持するために必要な魔力でさえも――を放出して闇の中に姿を消した。すると、それとほぼ同時に、今度は白髪の少女が光の中から姿を現した。光の中で呆然と立ち尽くしていた蛍は、紅い瞳を揺らし、吐息と共になんでと疑問を漏らした。何でも瑞穂は、蛍が彼女を打ち倒して帰ってきた事にしてほしいと言い、壊れゆく闇の世界に一人残ったらしいのだ。
魔力で創り出した空間が崩壊すると、自らの力で現世に戻る事はほぼ不可能だ。無限に広がる闇の中から、手さぐりで魔力の尽きた魔導士を見つけ出すしか方法は無い。つまりそれは、死と同義。いや、おいそれと死ぬ事も叶わず、空間の狭間で生を続けるのはさらに酷だろう。それでも瑞穂は、自らその道を選んだのだ。そうまでして瑞穂が守りたかったものが何なのかは言うまでもない。
唇を引き結んだ蛍は、決意をその瞳に宿し、眼前に立つ色葉を真っ直ぐに見やった。
「ごめん。もう、落ち着いた」
その言葉を聞いて僅かに微笑みを浮かべた色葉は、何も言わないまま踵を返した。時が経てば過去になる。そうなれば、彼女に何があったのか、色葉に分からない訳はないのだ。
その時ふと、雪の中に突き刺さっている銀の輝きに目がいった。とても綺麗だと、色葉は思った。まるで穢れを知らない綺麗な輝き。どれだけ持ち主が業を背負おうとも、決してその輝きが失われる事はないのだろう。
「……感傷に浸ってる時間は無い。行くよ」
誰にともなく言い聞かせるように言い、吹きすさぶ雪の中、色葉は残る四人の先頭を歩いた。
やがて、白く霞んでいた社がはっきりと見えるようになった。
木と金属で組まれた橋の欄干に、一定の間隔で配置された灯火。うらうらと揺らめくそれらが、凪いだ海を淡く染めていた。驚くべき事に、鳥居を境にこちら側は依然として大雪が舞っているのだが、向こう側はまるで世界が違うかのように静かだった。境内に一歩足を踏み入れた途端、凍てつくような風が止み、空気が重く滞留しているのが感じられた。荘厳さとはまた違う、冷たく沈鬱な雰囲気だ。
「何だか、怖い」
そう呟いたのは、色葉のすぐ隣を歩いていた氷波だった。彼女の言う通り、力強くも刺々しい魔力が渦巻いている。恐れを抱くのも無理はない。
「魔導師じゃなくても分かるぐらい強いんだ、これ」
「えっ? ああ、そうだね」
その瞬間、氷波の顔に浮かんだ戸惑いを帯びた表情に、色葉は僅かに違和感を覚えたが、彼女の場合、どうあがいても瞳の奥を覗き見る事ができないので、それ以上詮索する事はできなかった。
周囲を見渡して、そこかしこに散りばめられた意匠に目を凝らす。海の上に建つこの社は、いくつかの社殿が橋で結ばれており、複雑に織られた廊が海と上手く合わさって見事な風景を編み出していた。湾の外の暗い海は依然荒れていたが、内側はやはり凪いでいる。同じ場所にある別世界としか考えられない。そういえば、西国の安芸にもここと似た社殿があるらしい。どちらが先に出来たのかは知らないが、平穏時にでも見比べてみたいものだ。
色葉達は一つ目の橋を渡りきり、舞台を横目に見ながら、右へと延びる二つ目の橋へと一歩を踏み出した。
「危ないっ!」
刹那、色葉は傍らの氷波に押し倒された。間一髪、頭上を青白い雷が過ぎ去る。床板に腰をしたたか打ち付け、傷口が激痛を伴ってその存在を強調する。
「うっ……」
しかし、呻き声は色葉のものではない。彼の上に折り重なるようにして倒れた氷波のものだった。その瞬間、色葉は確かに、彼女の肩口から鎖骨の辺りまでに広がる裂傷を、そして、それを覆うようにして広がった氷のようなものを視認した。だが瞬きした次の瞬間には、その氷が霧のように消え去り、白く綺麗な薄肌だけが後に残っていた。
眼を瞠り息を呑んだ色葉だったが、続く攻撃が迫っている事に気付き、いち早く氷波と共に身を起こす。
ああ、今日はよく眠れそうだ。
伊勢に来てからというもの、多くの出来事が一度に押し寄せてきた。それに加えて今起こった未知の事象に、挙げ句脳が思考を放棄しようとした。それでも、身体に染み着いた一連の流れは思考の外で腕を動かしてくれる。背負った鞘から伸びる柄に左手が添えられ、それを握り込んで一気に引き抜く。自分の身の丈ほどもある刀は、そのまま上から下へと振り下ろす軌跡を描いて、迫る雷光を叩き切った。真っ二つになった雷光の片方は海の中に、もう片方は後方の舞台へと直撃して火花を散らす。
「社殿を壊す気か?」
自らの刀が指す方向を睨みながら、色葉はそう呟いた。刀の先、橋の向こうに立つのは、泣き腫らした目をした一人の少女と、ぼさぼさの黒髪を伸ばした一人の青年。青年の手は、幼子をあやすかのように少女の頭の上を滑っている。二人が身に纏う白装束は、遠景の雪に溶け込んで今にも消えてしまいそうだった。
男は笑う。
「ようやく来たか。待ちくたびれたなあ、若いの」
「……綿貫早織、いきます」
それは静かな声音だったが、確かに色葉の耳に届いた。自らの名を名乗るのは綿貫の慣習なのか、それとも単に彼女が姉を模倣しているのか。どちらにせよ、その時に感じられる覚悟は長女のそれと変わらない。
「はっはっ、聞いちゃいないか」
男の手が早織から離れる。それと同時に、早織は目を閉じて意識を集中させた。
矢継ぎ早に紡がれる言の葉は、彼女の周囲にいくつもの魔法陣を展開させる。マナを活性化させるもの。自身の魔力を増幅させるもの。被魔法攻撃を無効化させるもの。それら全てが一時的なものだとは言え、綿貫の末の子は、さも涼しい顔で三つの高度な魔法を同時展開させていた。
「ねえお姉ちゃん、そっちは暗くて寂しいでしょ? かわいそうだから、早織がすぐに行ってあげる」
社殿全体が、早織の魔力を恐れるかのように震える。事実、冴え冴えとした雰囲気が辺りに充満していた。
「でもね、最後に一つだけやらなきゃいけない事ができちゃったから、もう少しだけ待っててね、お姉ちゃん」
ゆっくりと開かれた彼女の眼には、まるでその相手が映っているようだった。
一瞬の沈黙。張り詰めた空気が重く感じられる。色葉は手にした刀を握り締め、二人の挙動に全神経を集中させた。
だから色葉は気付けなかったのかもしれない。その時、まるで小石でも投げ込まれたかのように、凪いでいたはずの海に同心円状の波が立っていた事を。しかし、それが本当に小石ならよかったものの、その実投げ込まれたのはそんなものではなかった。
突如として地鳴りが全身を突き上げる。
「何だっ!?」
続く爆音が陸の声をかき消した。次の瞬間、潮の匂いが全身に降り注ぐ。
見上げれば、海から紺碧の龍が立ち昇っていた。灯りに照らされた表面は光を不規則に反射させ、まるで鱗のように光沢を放っている。広い社殿の上空を旋回するそれは、何度も色葉達の頭上を通り過ぎては反対側の海へと飛び込む。その度に水飛沫が海上の社を濡らしていた。
この耳を劈く爆音は、さながら龍の鳴き声といったところか。身を震わせるその音に混じって、男の嘲笑が耳朶を掠めた。
「そうだそうだ、いいぞ綿貫の末子! お前の姉を亡き者にしたこやつらに、同じ責め苦を与えてやろうぞ!」
「言われなくてもっ!」
早織は掲げた腕を大きく振るう。その動きに呼応するようにして龍が身をくねらせた。
見てくれは確かに凶暴な龍そのものだが、その実はただの海水のはずだ。ならば、何も恐れる事は無いと、色葉は刃の背に指を滑らせて防御の構えを取った。そんな彼を嘲るかのように、今一度天高く舞い上がった龍は金切り声を上げた。早織が腕を振り下ろすと共に袂が空を切る。
刹那、火花が散るような音と、青白い閃光が龍の身体に走ったのを捉えた。瞬時に直感が危機を感じとり、脳裏でけたたましい警鐘を鳴らす。これはただの海水ではない。やはり綿貫の血が織り成す、強大な魔法だ。瞬く間に大きくなっていく龍に、色葉は完全に呑まれた。
まずい、このままでは。せめて、せめて氷波達だけでも。
色葉は大きく息を吸い込んだ。
「下がって!」
だが色葉が叫ぶよりも先に声が響いた。それと時を同じくして、色葉の眼前を眩い光が埋め尽くす。咄嗟に瞑った瞼を開くと、そこには龍の咢が刀に触れるか触れないかのところまで迫っていた。
青白く爆ぜる水。ただの水であっても、計り知れない程の圧力を加える事で、そんな魔法のような現象――実際、それを起こすには魔法が必要だが――を引き起こせるというのを聞いた事がある。今目の前で火花を散らしているのは、まさにそれだった。掠りでもすれば、裂傷だけでは済まないだろう。
しかし、その火花が色葉の許に達する事は無かった。確かに色葉の刀に圧は届いているが、龍本体はまるで見えない壁に阻まれているかのように動きを止めている。いや、事実としてその通りだった。早織の魔法に対抗し得るだけの防御魔法が、色葉達を取り囲んで龍から守っているのだ。その術者は蛍でも、もちろん魔力の尽きかけている色葉でもない。
「……どうして、お姉ちゃん」
早織の呟く声が聞こえた。
「妹の過ちを正すのが、姉の仕事、でしょ?」
そう言葉を紡ぎながら、防御魔法を展開させた少女は色葉達の後方からふらりと姿を現した。途切れ途切れに混じる喘鳴から、彼女がすでに満身創痍であるという事が感じられる。橙の光に照らされてもなおその顔は青く、頬に走る傷が何とも痛々しかった。
「綿貫伊織……やはり確実に始末しておくべきだったか」
「残念でしたね、松永のおじさん。私だって、こう見えても、その子の、姉なんです、よ」
確かな足取りではなかったが、何とか色葉の傍らまで歩を進めた伊織は、刀を握る手にそっと自らのそれを重ねた。
「時間を、稼いでください」
「……信じていいのか?」
そう問いかけた色葉は、無言で見つめてくる伊織の瞳に浮かぶ色を見て、何も言わずただ溜め息を吐いた。
「ありがとう、ございます」
伊織の口元に笑みが浮かぶ。
「だめだよ色葉! 離れなさい、今すぐ!」
その様子を見ていた氷波の口から、怒声にも似た声が飛んだ。
「そうだ! そんな敵に構ってないで、早く水望のところに!」
いつになく鬼気迫る形相の陸も続く。二人は完全に冷静さを失っているように見えた。綿貫伊織という少女はもう敵ではない。氷波達がそんな事を言っている間も、絶え間ない龍の突撃を防いでいたのは彼女の防御魔法だ。
「二人とも落ち着いて。本当の敵が誰かを見誤らないで」
重ねられた手を反対の手で軽く叩く。彼女の眼を、いや、彼女の眼の奥を見てしまった以上、協力しない訳にはいかないだろう。彼女は、この騒動の真実に気付いていたのだ。そして、彼女らが騙されていたという事まで色葉は読み取った。
「でもっ……!」
色葉と視線をかち合わせた氷波は一瞬目を伏せ、分かったと呟いて不服そうな表情を顔に張り付けたまま陸の腕を引いた。
「俺は今すぐにでも水望にっ!」
「大丈夫、すぐに終わらせるから。でしょ?」
なおも噛み付く陸に、色葉は口の端を僅かに吊り上げた。問われた伊織はただ、くすりと笑ってみせた。
虚勢かもしれない。だが、そうでもして笑っていないと、自分で自分に負けてしまう。それだけは絶対に嫌だった。この先に白花と水望がいるのはもう確かなのだ。撤退はありえない。
「覚悟は決まったか? ならば、こちらも本気を出すとしようか」
すると松永は口の中で呪術を唱え、幾重もの狐火を浮かび上がらせた。その一つ一つが、実体を得ては人型に化ける。だがそれは人の影に過ぎない。俗にいう妖術だ。魔法の一種だが、魔力消費が少なく、制御が難しい事を除けばかなり強力なものとなる。
「氷波と道風と陸はそいつらを頼む。蛍は伊織の援助を。俺は……」
そこで言葉を切り、長く深い息を吐く。刀を構え、同じように正対する痩躯の男を睨みつけた。火の爆ぜるぱちぱちという音が、やけに近くで響いた気がした。
「はあああっ!」
伊織が詠唱を始めたと同時に色葉は大きく前へと跳んだ。地面を蹴り、瞬く間に松永との距離を縮める。彼のその憎たらしい表情が氷のように冷たい印象へと変わった。
金属音は龍の咆哮にかき消され、音もなく両者の間を火花が散った。互いの力が拮抗し、両者の真っ直ぐな視線が交錯する。
その時、色葉の視線は男の肌蹴た胸元へと吸い寄せられた。白い装束の隙間から覗く肌に、黒々と刻まれている印。松永家の家紋である蔦をあしらったそれが、確かに蠢いた。刹那、力が全身から抜けるような錯覚に陥る。そう感じた次の瞬間には、色葉の脇腹に男の鋭い蹴りが入っていた。
(魔力が吸い取られたっ?)
声にならない呻きが漏れる。回転する視界と共に脳髄が揺れる。受け身はとったものの勢いを殺しきれず、欄干に激突してようやく止まる。傷口の反対側でよかった。幸い傷は開いていない。しかし色葉の脳裏は、魔力を吸い取られたという驚愕に埋め尽くされていた。
男は襟元を正しながら、愉悦に歪む口元から吐息を漏らす。
「これは失礼。お見苦しいものを見せてしまったかな」
空気を求め、喘ぐように喉を鳴らす色葉を見下し、彼は刻印のある左胸をそっと撫でた。
「強く、荒々しい魔力だ。それでいて繊細で、どこか儚い。その容姿に相応しい代物ではあるな。どこぞの馬の骨とも知らぬ魔導士よりも、実に美味である」
その言葉が聴覚に届いた途端、背中を氷塊が滑った。魔力を吸い取るだけでなく、それを美味と形容したのだ。あまりのおぞましさに顔を顰める。それを鋭敏に感じ取ったのか、松永の口から一瞬にして笑みが消えた。次いで首筋に触れる冷たい感触。押し当てられる凶刃に漆黒の瞳が映り込む。
「もっとも、満足するにはいささか中身が足りないようだが」
色葉は歯を食いしばった。
見抜かれている。
時は稼がなければならない。しかし、時を掛けるわけにはいかない。背後では今も伊織の詠唱が響き、その間を三人分の声が割って入る。助けは求められない。一人でやるしかない。それ以外に道はない。
その時、危機的状況であるにも関わらず、ふと柔らかな温もりが全身を包んだ気がした。
思慕の笑みを湛えた白花の顔が脳裏に浮かぶ。最後に叩きつけられた水望の声が耳朶に蘇る。あの笑顔のそばに寄り添っていたい。あの言葉の真意を聞きたい。だったら、腹を括れ藤神色葉。
覚悟が決まったその瞬間、ふと小さな笑みがこぼれた。
「……満足させてやろうじゃないか。心ゆくまで」
こぼれる微笑は虚勢ではない。低い呟きは威圧ではない。
倒れた態勢のまま刀を振り上げて相手を仰け反らせる。その刹那生まれた一瞬の隙を突き、跳ね起きて背後の欄干へと飛び乗る。曲げた膝を反動と共に伸ばして今度は床へと転がり込んだ。
「ちっ……! まだ動けるのか」
松永の刀が直前まで色葉がいた欄干を叩き切る。忌まわしげな舌打ちが発せられた。
色葉は大きく一歩踏み込み、刀を斜め下から振り上げる。それが弾かれると再び蹴りが飛んできたが、少し後ろへと下がって難なく避ける。続けざまに襲い来る斬撃も右へ左へと避け、刀を合わせてそれらを防ぐ。そして相手の攻撃を受け流して生まれた隙に、一瞬で攻守を交代させ、今度は体勢を低くして前へ前へと急所を狙い続ける。
感覚が失われていた、という方が正しいかもしれない。不思議と痛みや疲れは感じなかった。
次第に松永の顔に焦りの色が現れ始める。その瞬間、切っ先が僅かに浮いたのを色葉は見逃さなかった。
響く金属音。宙を飛んだのは松永の刀だ。松明の灯りを受けながら海へと着水。闇色の海中へと沈んでいった。
ついに勝敗が決した。
「……貴様のような童に、貴様のような……」
松永の呆然とした震える声。色葉に押し倒される形となった彼は、驚きと恥辱を満面に広げてただ小さくわなないた。色葉は男の喉元に刀を添わせ、左胸の刻印を反対の手で掴むように抑え込んでいる。
「ほら、吸えよ。満足するまで」
さらりと流れる髪に隠れた瞳の奥に、紅い炎がちらと揺らめく。その灼熱の煌めきを見た松永は、その顔から一切の表情を消し、言葉にありったけの呪詛を込めて呟いた。
「……やはり鬼子は人の子に非ず」
色葉は顔色一つ変えずに、その言葉を聞いていた。
「他に言い残した事は」
すると松永は静かに瞼を閉じた。
全ての魔導師に、幸あれ。
そう言って、彼は色葉の刀を自ら掴み、自ら喉元を切り裂いた。血潮が飛び散り、いくらかが色葉にも降りかかる。頬に付いたそれを拭いながら色葉は立ち上がった。
松永家の家紋である蔦。蔦は他の植物に絡みつき、一方的な依存関係を構築する。依存が過ぎれば、言うまでもなく他の植物は枯れてしまう。蔦の強い生命力の裏側には、他を圧倒するという意味もあるのかもしれない。他人の魔力を己のものにする能力を持った彼は、まさにその紋の意味する通りの人物だったのだ。
松永家は魔導士を集めているという話を聞いた事がある。何でも、魔導士差別のない国を作ろうとしていたようだ。他では考えられないような厚遇で、それまで差別されてきた魔導師達を募り、一切の情報を秘匿にする代わりに一生を「人」として終える事ができる。魔導士にとってそれは夢のような話だ。しかし、彼のような魔導士の存在のせいで、その夢も幸せなものであったかどうかは分からない。
とにかく、ゆくゆくは魔導士の為になろうとも、今この瞬間を生きる魔導師を苦しめるというのは、絶対に許しはしない。たとえそれが魔導師であってもだ。
気が付けば、辺りを包んでいたのは静寂だった。術者が潰えた事で妖術は消え、伊織と早織の詠唱だけが淡々と響いている。
早織が生み出した龍の攻撃を、伊織の傍らに立つ蛍が防ぐ。そして二人の姉妹は、ただひたすらに静かに、まるで対話をしているかのように言葉を紡いでいく。その二人の周囲には色とりどりの魔法陣が光っては消え、マナを変換させつつその役割を終えていっていた。
「……きれいだ」
こんな状況下に、いや、こんな状況だからこそ、色葉はその光景に美しさを感じた。それは氷波や陸も同じなようで、あれほど焦燥していたにもかかわらず、眼前の光景を注視していた。
「つかんだ!」
伊織が声を上げる。それは二人の間に決着がついたという合図だった。頭上の龍が硬直し、次の瞬間、断末魔のような破裂音を轟かせながら霧散した。大量の海水が大粒の雨となって元の海へと帰っていく。
「へへ……初めて早織に勝ったね、伊織お姉ちゃん」
「だって、あなたには迷いがあった。本当に『あの人』たちの言うことを聞いていれば、全部うまくいくのかっていう迷いがね」
ふらりと足を一歩前へ踏み出した伊織は、そのまま橋を渡り始めた。
「それに、私は早織のお姉ちゃんだよ? 負けるわけないじゃない」
「うそばっかり」
小さな、だが子供らしい笑い声が漏れる。
「うそじゃないよ。今まで負けてあげてたのは、私の優しさなんだから」
伊織が腕を伸ばした瞬間、早織の体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、年のさほど離れていない姉の胸の中へと倒れ込んだ。同時に伊織も床に膝をつく。
「これで分かった? 私も早織も、お姉ちゃんも、あとお姉ちゃんの付き人さんも、離れ離れになんかならない。私が、させないんだから」
伊織が早織の頬をそっと撫でてやると、彼女は気持ちよさそうな笑みを浮かべて、眠るように瞼を閉じた。妹の身体を抱き寄せ、伊織も同じように目を閉じる。
「またみんなで、一緒に、同じ毎日……を…………」
二人の体は、ゆっくりと傾いでいった。
完全な沈黙が訪れる。
「急ぐよ」
色葉の一言で、氷波達はようやく我に返った。何も言わずに奥へ奥へと歩を進める色葉を追いかける。
穏やかな風が、静かに流れた。




