第十八話
目が醒めると、視界の真ん中に桜色の髪留めが飛び込んできた。そして、鼻腔をくすぐる微かな甘い匂い。誰かに背負われているのだと気づいたのは、その後だった。
「ん……い、っ」
意識が浮上すると同時に、左の脇腹を鈍い痛みが走った。無意識に漏れた呻き声を聞きつけたのか、眼前の髪留めが揺れる。
「起きた?」
氷波の問いに、色葉は彼女の肩口に額を押し付けて答えた。
「……下ろせって言っても、聞かないよね」
「当たり前でしょ。その怪我でまともに歩ける訳ない」
その言い草に眉根を寄せた色葉だったが、それも事実なので何も言い返さなかった。だが、ただ口をつぐむだけというのも癪なので、冷え切った右手をすうっと首筋に当ててやった。落とすよ、と凄まれてしまったが、お互い様だと勝手に割り切る。
それにしても傷が痛む。いや、あれ程の怪我を負ったはずなのに、たったこれだけの痛みで済んでいるのも不思議な事だが。とにかく、どうにかしてこの痛みを和らげたい。
「待てよ、これって治癒魔法で何とかなるんじゃ」
「無駄だよ」
即答。
「無駄って……何でそう言い切れるのさ」
「やってみたら分かると思うけど、あれはただの傷じゃない。一種の呪いみたいなものかな。相手が妖怪ってのもあるだろうけど、たぶんあいつが何かしたんだと思うよ」
顔を隠した子供の姿が脳裏に浮かび上がる。生を操る魔法が得意だとか言っていたあの子供なら、このような芸当も容易いというのか。全くもって腹立たしい。
色葉は仕方ないかと溜め息を吐いた。
「でもまあ、ありがとう、氷波」
「いいよそんな。色葉軽いし、私でも楽に運べるから」
「そうじゃなくて、さっき助けてくれたお礼を……あれ? でもそういえばあの時、俺の魔剣が反応して……」
一瞬だけ、魔力を纏った白い軌跡が見えた気がしたのだが、気のせいだろうか。
「蛍ちゃん!?」
しかしそんな思考も、氷波の叫び声でかき消された。突然駆け出した氷波に揺さぶられて傷が少し痛んだが、彼女の視線の先に横たわる人影を見れば、そうも言っていられなかった。
荒れた雪の上に、白髪の少女が仰向けに倒れている。
「ひどい……」
〈癒しの力よ、ファーストエイド〉
氷波の背から降りた色葉は、蛍の傍らに腰を下ろして、その雪のように白い肌に両手をかざした。薄緑の光が彼女の身体を包み、裂傷を癒していく。
「この魔力の残滓、瑞穂か? あとは蛍と、別の二人。何かあったんだな、ここで」
ちらと氷波の顔を窺うと、何やら神妙な面持ちで蛍の顔を見つめていた。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
その時、蛍の唇の隙間から微かな声が漏れた。ゆっくりと瞼が開かれ、真紅の瞳がその姿を覗かせる。濡れたその色が色葉の視線と交錯した。
「色葉……ごめん、なさい。あの二人、逃がした」
「あの二人っていうのは、瑞穂とあの従者の事か?」
その問いに、蛍は小さく頷く。大方、祖父から直接命を受けたのだろう。
「そうか。いや、蛍はよく頑張ったよ。その二人がどこに行ったか分かる?」
「多分、あっち」
そう言って指差した方向を見ると、水平線にぼんやりと浮かんでいる島があった。闇の中なので詳しい事は分からないが、あれは恐らく神宮の奥宮だ。そしてきっと、白花と水望もあそこにいるのだろう。松永と組織だけでなく、綿貫もこの騒動に関係しているとなると、二人があの島に幽閉されている可能性は高い。
悠然と佇む孤島を睨んでいると、背後から雪を踏む音が近づいてきた。
「あ~! 色葉っ!」
「お二方、どうしてここに?」
道風と陸だ。こちらに気付いて駆け寄ってくる二人だったが、蛍の様子を見た途端、その顔から血の気が引いていった。強大な魔力同士がぶつかり合ったという事実を感じ取れない非魔導師でさえ、ここで何があったのかは足を踏み入れただけで分かるだろう。
「これは……!」
唖然とする陸に状況を説明する。すると、いつの間にか蛍と言葉を交わしていた道風が、彼女の髪に積もった雪を払いながら小さく微笑んだ。
「僕らも突然襲われてね~、驚いちゃったよ。これも綿貫さん達の仕業かな?」
「どういう事?」
氷波の問いに、道風は立ち上がって島の方向を見た。
「全部推測だけど、そう考えればつじつまが合うんだよねえ。僕らが町に入る時に兵と離れさせたのも、僕らを襲いやすくするため。わざわざ赤松様との会談場所から遠い宿を用意したのも、僕らの戦力を分散させるため。それから宿と屋敷を同時に襲って、この町の魔導師に僕らを消すように命令したんじゃない? いくら実効支配しているのが松永家とはいっても、彼女はこの町の長なんだからこれくらいどうって事ないよ」
肩をすくめて溜め息を吐く。
「でもさ、蛍ちゃんの目の前であの島に転移するなんて、罠に誘い込んでるとしか思えないよね。いくら何でもそんな見え透いた手には乗らないよ」
「行く」
「そうそう、行かないのが良策……って、うぇえ?」
虚を突かれた道風は、潰れた蛙のような声を上げた。
「なな、なんでさ! 今は早くこの町からでなきゃ!」
「白花と水望が、あそこにいる」
その静かな言葉に、道風は色を失って押し黙った。沈黙が周囲を包み込む。
沈黙を最初に破ったのは、陸だった。
「行きましょう。……水望がそこにいるのなら、例え罠だろうと俺は行く」
いつも以上に真剣な表情を浮かべ、陸は両手を強く握り締めた。
「私も陸と同意見だよ」
「僕も行きたい」
氷波と蛍が彼に続く。だが、道風だけが頑なに首を縦に振ろうとしない。
「ちょっとみんなっ? せめて赤松様の到着を待つとか、本当に白花ちゃん達があそこにいるのか確認するとか……!」
「白花が危険な目に遭ってるとしても、そんな悠長な事が言っていられるか?」
「そ、それは……」
こう言ってしまえば、道風は何も言い返せない事を知っている。長考の末、分かったよ、と小さく呟いた彼の肩を、色葉は軽く叩いた。
「でも、気を付けてよ? 今までは大丈夫だったけど、今回ばかりは、誰かが……。そんな気がするんだ」
彼にしては珍しく沈鬱な声と表情。それとは対照的な笑みを、色葉は浮かべた。
「分かってる。大丈夫、俺がいるだろ」
揺れる道風の瞳を、彼を安心させるように見つめる。
自分は嘘を吐いた。いつもこんな事を言ってはいるが、自分がいるから大丈夫だなんて保証はどこにも無い。自分はまだまだ弱いのだから。だが、今は嘘を吐くしかなかったのだ。
それでも、誰も死なせやしないという決意だけは、嘘ではない。
皆の同意を得た所で、氷波が口を開いた。
「問題はどうやってあそこまで行くかだよね」
「それは、僕に任せて。僕があいつらの魔力を辿る」
控えめに手を上げた蛍の眼に一瞬だけ、静かな怒りの炎が渦巻いた気がした。瑞穂達との間に何かあったのだろうか。彼女がここまで怒りをあらわにするのは珍しい。だがそれも一時的なもので、すぐに何を考えているのか分からない表情に戻った。
「分かった、俺も手伝う」
島に行く手段はこれで大丈夫だ。
これで準備は整ったはずだ。伊勢に行けば分かると言われた真実。白花と水望がいなくなった理由。綿貫の正体。それらが一気に分かるだろう。しかし、道風の言う通り、とてつもなく嫌な予感もする。皆に身の危険が及ばないよう、自分が誰よりも気を張らなければ。
「大丈夫。白花と水望を見つけ出して、みんなで無事に帰る。簡単な事だ。そうだろう?」
皆に言い聞かせるように、そして誰よりも、自分に言い聞かせるように色葉は言葉を紡いだ。
だがそうは言ったものの、色葉は未だ、胸の内にわだかまる不安を消せないでいた。これらが全て綿貫の仕業なら、なぜ夕が姿を現したのか。夕がこの町にいるのなら、その側近的立場にいるみすじもいないはずがない。これは、ひょっとするとひょっとするかもしれない。
最悪の予測を抱えながらも、色葉は蛍の手を取った。
「よし。行くぞ、みんな」
全員の顔を見渡し、各々が頷いたのを確認すると、色葉は蛍の魔力に感覚を委ねた。
次の瞬間、五人は雪の中へと姿を消した。
波の音だけが牢に響いている。底冷えする壁や床に体温が奪われ、すでに寒さなど感じなくなった。いったいどれだけの間ここにいるのだろうか。
水望はちらと、すぐ近くに控えている早織という少女を一瞥した。
「おなか空いたの?」
こちらに気付いた早織は、そう屈託なく笑う。水望を閉じ込めている鉄格子の向こうから。水望にこの部屋から出るなと言い渡してから、彼女は何度か水望の前から姿を消していたのだが、いつの間にかまた戻ってきて壁に背を預けていたのだ。
水望が無言を貫いていると、違うか、と笑みに苦みを含めてまた俯いた。肩まで伸びた髪がはらりと顔を隠す。
「眠たいなら寝れば」
「えへへ、そうじゃなくて。ちょっと退屈だなあって」
水望の険のある物言いに対しても、早織は平然と快活に返す。
「ねえ水望。私と一緒に遊ばない?」
「嫌よ」
「そう言わずにさ」
その時、腰を冷たい何かが這った。驚きに身を竦ませていると、それは脇腹、肩と薄衣の上から皮膚をなぞり、ひいては露出した首筋にまで達した。その冷たさ故か、忘れていた寒さを体が再認識して、四肢が震え始める。
「ね?」
そんな水望の様子を見た早織はさも楽しげに笑う。垂れた髪の隙間から覗く濡羽色の眼は、黒よりも暗い色をしていた。
「う……あなた…………何を、っ……」
見れば、早織の指がこちらを向いて小さく動いている。その動きにつられるように、首筋を這う冷たさは髪先を撫で、皮膚を引っ掻く。
「あそびましょ?」
その声は言外に、抵抗すると傷つけると言っているようだった。事実、これを使えば鉄格子の向こう側からでも、一介の少女など簡単に絞め殺せるだろう。
水望はただ、得体の知れない恐怖を呑み込もうと、必死に声を殺して責め苦に耐えていた。
その時だった。
「早織っ! 大変だよ!」
「あ、伊織お姉ちゃん!」
早織のさらに向こうから、叫びにも似た声がした。早織の興味が、一瞬にして水望からその声の主に移る。伊織と呼ばれた少女が闇の中から姿を現した。
「やっぱりお姉ちゃんが襲われた! おいで!」
「お姉ちゃんがっ? 分かった!」
伊織が早織の手を取ると、二人は慌ただしく闇の向こうへと駆けて行った。お姉ちゃんとは瑞穂の事だろう。伊勢の町の長であり、伊勢神宮の祭祀でもある彼女を襲うなんて、襲った方もなかなかの強者だと思う。
足音が離れていく。一人残された水望は、安堵の息を漏らしながら、灯篭がぶら下がっているだけの天井を仰いだ。
「色葉……」
うわごとのように呟く。別れ際にああ言った手前、彼に会うのは少し気まずいけれど、この際仕方ないだろう。早く会いたい。この牢から抜け出して、早く、彼の許に。
水望はふらりと立ち上がり、自身を閉じ込めている鉄格子に手を掛けた。その瞬間、錆びた金属が奏でる耳障りな音が響いて、掴んだ鉄格子があっけなく開いた。
「えっ……? なんで?」
唖然とする水望をよそに、外れた格子が地面に倒れた。
最初から鍵など閉まってなどいなかったのだ。早織の部屋から出ないでという言葉に縛られて、閉じ込められているものと勝手に勘違いしていたのだ。人は極度の緊張に陥ると、他人の言う事に素直に、かつ無意識に従ってしまう事がある。それに、早織は幼いながらもれっきとした魔導士なのだ。言霊を操る事だってできるだろう。全く迂闊だった。
状況に思考が追いつくと、心の臓が一際大きく脈打った。全身に火が点いたかのように体が熱くなる。
逃げろ。
自分の声が、頭の中でそう告げた。
水望は一切の思考を捨て、闇の中へと飛び込んだ。一瞬にして、牢を照らしていた灯篭の薄明かりは届かなくなる。完全な闇。だが、見えない訳ではない。大気中に漂う火属性のマナを集め、前方に小さな火の玉を形成して浮遊させれば、ぼんやりとだが道が見えるようになる。白い吐息が背後へと流れる。
そうしてしばらく走っていると階段に突き当たった。踏み外さないよう足元に気を付けながらも、一段飛ばしで駆け上がる。
外へ出た。降り積もった雪が僅かな光を反射させて光る。
「ここ、どこ?」
荒い息を継ぎながら水望は辺りを見渡した。あるのは葉の無い木々ばかりで、建物などは見当たらなかった。後ろを振り返ると、枯れ枝の隙間から波が立っている様子が僅かに窺える。星さえ見えたら方角も分かるだろうが、曇天の下ではそれも叶わない。魔力を使って現在位置を特定しようとも思ったが、どうやらこの地は特殊な場所のようで、魔力が搔き乱されてままらなかった。
とにかく動くしかない。このままここにいれば、いずれ早織らが帰ってきて再び捕らえられてしまう。そうなってしまえば、今度こそどうなるか。それは言うまでもなく、あの早織の目が物語っていたではないか。
「……まだ、死ぬわけにはいかないんだ!」
両手を握り締めた水望は、降り続ける雪の中を走り出した。
それから間もなくの事だった。転移魔法で瑞穂と従者を助け、再び地下牢の入り口に戻ってきた早織と伊織は、そこから点々と伸びている足跡を見つけて顔を見合わせた。
「伊織お姉ちゃん、これ」
「大丈夫。この島からは簡単に逃げられないようにしてあるから」
それに、足跡が続く先には、今頃あの人達がいる。どのみち彼女が藤神の許に戻る事は無い。
「それより早織、あなた鍵は閉めなかったの?」
「そ、それは……えへ」
舌を出して笑う早織の頭を軽く小突く。
「後で瑞穂様に叱ってもらうからね」
伊織はそう溜め息を吐いて、自分と同じくらい小さな手を引き、再び転移魔法でその場を後にした。
どれだけ走っただろう。いつまで経っても枯れた木々が途切れる事は無く、殺風景な景色ばかりが流れていく。不安と寂寥が交互に押し寄せ、次第に胸の内を恐怖が染め上げていく。本当にこのまま走っていれば、色葉の許に辿り着けるのだろうか。敵の懐に飛び込んでやいないだろうか。
その瞬間、視界の隅を人影が掠めた。
「っ……!?」
息を詰めた水望は咄嗟に体勢を低くし、近場の木の陰に身を隠す。大きく深呼吸をして、相手に聞こえてしまうのではないかと思うほど、無駄に大きな音を立てる鼓動を抑え込む。先の不安が現実のものになってしまった。あれは探し求めている人影ではない。藤神でも綿貫でも松永でもない。あの長身痩躯に、闇に溶け込む服装。あの姿は紛れもなく、あの人だ。
「みすじ……? なんでここに」
「教えてほしいかい?」
刹那、耳元で声がしたのと同時に、喉元に冷たい何かが押し付けられた。驚きのあまり身体が跳ねてしまい、押し付けられたそれに薄皮を裂かれる。
「おっとと、動かないで。君にはやるべき事がたくさんあるんだから、こんなところで命を終えてもらっちゃ困るよ」
この明朗な声には聞き覚えがある。喉元の刃に意識を向けながら、ゆっくりと首と共に視線を後ろへと巡らせる。そしてその顔を見た途端、水望は眼を瞠った。
いつも首の後ろから鼻筋までを覆っていたあの布が外され、背中へと流れている。水望の視線は、ただひたすらにその素顔へと注がれた。どう形容したらいいのだろう。この子には会った事が無いはずなのに、なぜか懐かしいような、見覚えのあるような、どこか近しい存在のようだと、そのあらわになった素顔を見て思えた。
相変わらず楽しそうに口元は笑みを形作ってはいた。しかし、その両眼に宿る光からは、深い闇しか感じる事ができなかった。
「だから、悪く思わないでねっ」
小さな手が目の前に広げられると同時に、水望の意識は掻き消えた。
風が吹き、雪が舞い上がる。
彼女の首が倒れて、それきり動かなくなったのを確認した夕は、哨戒の為に立っているみすじに声をかけた。
「首尾はどう?」
「……その小娘の侵入に気付けなかった事以外、全て順調です。奴らは間もなくこの島に渡ってくるかと」
「そ。なら、そのまま頼むよ。僕は彼女を社に連れていくから」
そう言って夕は水望の身体を持ち上げた。
「夕様」
みすじに背を向け、島の奥地にある社へと歩を進めようとしたその時、いつもに増して静かな語気で呼び止められた。
「私に一つ良い考えがあります。かの光を消すだけでなく、奴らの間に溝を穿つ考えが」
夕が傾聴の意を示すと、みすじはその考えを滔々と語り始めた。
彼女の紡ぐ言葉を聞いている内に、夕は次第に表情を曇らせていった。だが、みすじに背を向けているので、その様子は彼女には伝わらない。
話し終えたみすじは、いかがでしょうかと、さも当然のように聞いてきた。
「……それでいいよ。僕もその通りに動こう」
でも、と続ける。
「君は本当にいいのかい? 仮にもこの子は、みすじの……」
そこまで言ってから、夕は続く言葉を呑み込んだ。
「そんなわけないか」
「夕様が何をお思いになられたのかは分かりませんが、私の考えに賛同していただけて光栄です」
こうも感情に起伏がないと、彼女が本当に血の通った人間なのかを疑いたくなる。
夕は乾いた笑みを浮かべ、腕の中で気を失っている少女に視線を落とした。激しい動きを阻害しないために短く切られた黒髪が、緩やかな曲線を描いて風になびいている。血色の良い肌も、うっすらと積もった雪に映えている。その艶やかな毛の一本一本からも、仄かに色づいた輪郭からも、みすじには無い、いかにも人間らしい温もりが感じられた。
「……もしもの話だよ。もし、みすじに娘がいたら、この子くらいの年になるんだろうね」
そう言い残し、夕は水望を抱きかかえて社へと歩み始めた。みすじが何かを言いたげにしていたが完全に無視する。
「家族は大切にするんだよ」
そう呟き、夕は音もなく姿を消した。




