第十七話
限界まで高められた魔力が、周囲の雪を一瞬にして揮発させた。魔力の中心点にほど近かった氷波は、その衝撃をもろにくらって吹き飛ばされ、柔らかい雪の上を転がった。
「うっ……いろは、っ?」
呻き声を上げながらも、状況を確認しようと薄目を開ける。白い水蒸気に煙る視界に映ったのは、夜闇の中でさえ凶悪に光る、紅い瞳。
だがその光が見えたのも刹那の間。紅い眼をした彼は、一瞬にして蒸気の向こうへと消えた。氷波が視認できたのは、彼が背中の刀を抜き去ったところまでだ。
高らかに響く金属音。見れば、氷波と同じように吹き飛ばされた夕の眉間を目掛けて、彼の刀が振り下ろされていた。だがそれは、すんでのところで夕の短剣に阻まれている。
「紅葉っ!」
彼に迫る影を見た氷波は、名を叫ばずにはいられなかった。
お互いの視線が交錯した。ちらりと歯を覗かせた夕に、俺は咄嗟に背後へと跳ぶ。
その判断は正しかった。背後からの甲高い叫び声が耳朶に突き刺さると同時に、眼前を鋭い輝きが通過する。髪が数本断ち切られて宙を舞う。
「ちっ……妖怪風情が」
舌打ちを漏らしながら紅葉は距離を取った。
吹雪を巻き起こしながら着地した獣は、獲物を仕留め損ねた事がよっぽど気に入らないのか、眼光に込めた憎悪をいっそう強めた。それを真っ向から受け止めた紅葉は、どこか物悲しげな憂いを見せる。
「お前も災難だな。操られた上に、わざわざこんな国にまで連れてこられて」
鎌鼬は元々、北の妖怪のはずだ。越後や信濃ならあり得なくもなかろうが、伊勢に現れたという話は聞いたことが無い。
すると、いつの間にか体勢を立て直していた夕がさも得意気に言った。
「連れてきたのは間違いじゃないけど、操っているわけじゃないよ? こいつが陸奥の山奥で息絶えてたのを見つけて、それをこっちで生き返らせたんだよ。伊勢の地のマナを使ってね。僕が生き返らせたんだから、僕は親も同然なのさ。だからこいつは僕の言う通りに動く。それだけの事だよ、分かる?」
紅葉は眼を瞠った。
「生き返らせた……?」
「うん。僕は生を操る魔法が得意なんだ」
生を操る。その言葉の重みに、紅葉は息を呑み込んだ。
「……だったら、お前は操れるのか? 人間の命でさえも」
そう問われた夕は、しばしの沈黙の後、いかにも子供然とした笑い声を上げた。
「ふふっ、あっははは! ほんと、みんなおんなじ事言うんだね。そんなに人の命が気になるのかなあ? 答えは、もちろんできるよ」
ただし、と言葉を続ける。
「それ相応の代償は必要だけどね」
「相応の代償って……っ!」
さらに問を重ねようとした紅葉だったが、鎌鼬が巻き起こした旋風によって中断を余儀なくされる。
「長話してる時間は無いってか!」
空いている左手で顔を庇い、凶器と化した雪の結晶の中を突っ切る。そして右手に握った刀を薙ぎ払った。硬い感触。重い衝撃と共に腕が痺れる。どうやら爪に当たったようだ。強固な爪に弾かれた反動を利用して刀をその場で一瞬だけ手離し、自身を一回転させて再び手中に収める。さらにもう一撃。しかし、それも爪に阻まれた。それを確認するや否や、今度は反対側から振り下ろす。敵も黙っている訳ではない。もう一方の爪でその攻撃をいとも容易く弾いた。逆に、鋭く伸びた両方の爪を駆使し、上から横から絶え間なく斬撃を降り注がせる。
一撃、また一撃と攻撃がぶつかり合う度に、降り積もった雪が悲鳴を上げて舞い上がる。それらは視界を埋め尽くし、紅葉の露出した皮膚を凍り付かせていった。
(くそっ、こいつ手強いな……だが俺は負けねえ!)
再び雪に覆われた地面を蹴った。今度は間合いに入る手前で大きく跳ぶ。紅葉の人間離れした身体能力と絶大な魔力によって成せる業だ。鎌鼬よりも高い場所まで到達し、頭蓋を視界の中心に捉える。それに正中を据えたまま、紅葉は刀を水平に突き出した。
「はぁぁぁっ!」
落下しながら気合を発する。鋭い爪が落下軌道上で黒く光った。互いがぶつかり、またしても火花が散る。刹那、紅葉は体を捩って空中で半回転した。頭を下にして鎌鼬の直上へと出る。頭蓋を中心に捉えながら。
「もらったぁぁ!」
両腕に伝わる柔らかな、だが確かな感触。皮を裂き、肉を抉り、骨を絶つ音。眼前に迫る白の中に多量の赤が混じった。生臭さが鼻を突く。
鎌鼬の鮮血に染まった雪の上に転がりながら着地し、紅葉はすかさず背後の妖怪を顧みた。
その瞬間視界に映ったのは、憎悪と憤怒に満ちた眼と、鋭い爪に反射した赤い瞳。その二つが重なっている様であった。
「っ……!?」
声を上げる暇すら無かった。脳で考えるよりも先に刀を跳ね上げる。鎌鼬の渾身の一撃は、切先の部分に当たって僅かに軌道を外れた。が。
「っ、ぐぁぁあああっ!」
左の脇腹がかっと熱くなる。一瞬遅れて、壮絶な痛みが全身を駆け巡った。視線を落とすと、鎌のように太く鋭い爪が、深々と腰骨の上に突き刺さって薄い腹を貫いていた。赤黒い染みが急速にその範囲を広めている。
視界が霞む。意識が遠のく。こんなにも寒いのは、雪の上に倒れているからだろうか。右手に握っていたはずの刀も、すでに感触はそこに無い。
ばらばらになりそうな思考を手繰り寄せて分かったのは、もうすぐそこに死が迫っているという事だ。風が渦巻き、二本目の爪が今度こそこの心の臓を貫くのだろう。死を意識した途端、時の流れがやけに遅く感じられた。舞い落ちる雪の結晶の一つ一つですら、今なら数えられそうだ。その六花の中を、旋風を巻き起こす爪が迫ってきている。そこに、女みたいな自分の顔が、いや、この身体の持ち主の顔が映り込んでいる。
ごめんな。
そう呟き、紅葉は眼を閉じた。
「――色葉ぁぁっ!」
その時、自分の名を叫ぶ声が聞こえた。
深淵の闇の奥底へと誘われていた意識が、ふっと重みを失って表面へと表れる。瞼をこじ開け、何とかその声の主である少女を視界に収めようとした。
だがそれは叶う事なく、色葉はついに意識を失って首を折った。
見覚えのある、まさしく刃のような、白い軌跡を残して。
二つの魔法陣が同時展開される。それぞれが赤、青の光を放ち、周囲のマナを動かした。
「陸! そっち行ったよ!」
氷塊が形成されるのを見た道風は、それが狙う方向にいる陸に声を投げた。それと同時に、自らに向かってきた炎の渦を後ろへ跳んでかわす。その炎が当たった場所の雪が一瞬にして消え去った。
「こわぁ……」
離れていても感じる熱気に、もしあれが直撃していたらと冷や汗が噴き出す。
「ぼさっとするな!」
檄と共に矢が飛来する。道風の首筋を掠めたそれは、たった今魔法を放った魔導士の左胸に突き刺さった。
「ちょっと陸! 今当たりそうだったよっ?」
危ないじゃんかと不満の声を漏らしながら、道風はその魔導士を切り捨てる。取って返す刀で隣の魔導師の首を刎ねた。立て続けに吹き上がる血飛沫が純白の雪を赤く染める。
二つの音が雪の中へ沈むと、たった今の戦闘が嘘であったかのように、伊勢の町は再び静穏を取り戻した。
心の中で彼らに両手を合わせた道風は、頬に付いた返り血を手の甲で拭い、弓を背中に担ぎ直している陸を振り返った。
「で、これからどうするのさ?」
「決まってるだろ。色葉か大殿に状況を」
「違う違うそうじゃなくて」
真剣な顔で陸の言葉を遮ると、彼は得心したのか苦い表情を満面に浮かべた。
「ああ、さっきの話か……」
明後日の方向を見やる。
「…………考えておく。とだけ言っておこうか」
「それは肯定的な意味で、かな?」
さあなとでも言いたげに、陸は両肩を竦めた。
「そんな事よりも今は、現状をどうにかするべきじゃないのか。いったい何があったんだ。町の様子もおかしいし」
「それは僕も思ったよ~? 妙に静かというかなんというか」
いつもの呑気そうな態度に戻った道風は、首を傾げて辺りを見渡してから、手にしている血に濡れた刀に視線を落とした。
「これだけ騒ぎになってるのにね」
陸は同意するように、残る矢の少なくなった矢筒を肩越しに見やった。
少し前にとある理由で宿を抜け出した道風と陸は、雪の降る中、突然魔法攻撃に晒された。最初は松永の襲撃かとも思ったが、どうやらそうでもないらしかった。松永家の家紋である蔦の紋様がどこにも見られなかった事に加え、敵の連携が全く取れていなかったのだ。
降りかかる沈黙に陸は頭を振った。
「詮索は後だ。早く宿に戻らなければ」
「いや、宿よりも赤松様がいる館に行こう。そっちの方がここからなら近いはずだし」
現在二人がいるのは、伊勢の町の外縁部に当たる場所で、元いた宿は海岸線に近い場所にあった。ならば町のほぼ中心にあるという館に赴いた方が手っ取り早い。
「分かった。ではそうし……っ?」
押し黙った陸を訝しんだ道風は、彼の視線の先を見て同じように息を呑んだ。顔を見合わせた二人は大きく頷き、橙色に染まった空の下へと駆け出した。
充満した煙の中から、つんのめるようにして二人の男女が転がり出てきた。地味な衣を着た男の方が、白の正装を身に纏う女の手を引き、にわかに騒がしくなった雪道を波の音がするの方角へと走り出した。
「瑞穂様! お怪我はありませんか!」
「は、はいっ。大丈夫です!」
盲目の瑞穂を先導する従者は、その返答を聞いて胸を撫で下ろした。いくら予定されていた事とはいえ、こうもやり口が大雑把だと、視界の無い彼女には相当の危険が降りかかる。
「……ここまでしたのだから、松永は確実に仕留めてくれるのだろうな」
続く標的の名を、従者は憎しみの篭もった声音で呟いた。
「藤神赤松を」
その時、従者の背中に小さな吐息が届いた。
「それはむしろ、私達の方に懸かっているのではないかしら? 私達がどれだけあの子供達と渡り合えるかにね。久しぶりに本気を出さなければならないようですし」
「瑞穂様……少し楽しそうですね」
「楽しいもんですか。私の命だけならまだしも、可愛い妹の命まで天秤に掛けられているのですよ?」
少し怒ったような顔は、後ろを振り返らずとも想像できる。従者の手を握る力が、ほんの僅かに強められた。
その時。
「どこ、行くの?」
小さな、だがはっきりとした声が、従者の耳朶から脳裏へと入り込んだ。雪とは違う白い色が視界を掠める。足を止めた従者は瑞穂を抱き留めるようにして勢いを殺し、その声の方向を窺った。
そこには、純白の長髪を湛えた少女が屹立していた。
「お前は……!」
従者は息を呑み、瑞穂を自らの背後に押しやった。
彼女は藤神の人間、すなわち敵だ。だが、そんな事よりも従者の身を強張らせたのは、彼女がつい先ほどまで、藤神の長と共にあの館にいたという事実だ。謀略に長けた松永が引き起こした混乱の中、魔法に秀でた瑞穂が二人の姿を隠し、町の地理に明るい従者自身が選択した路地を、余所者であるこの少女は寸分違わずに先回りして見せたのだ。
「ここは僕が通さないよ」
その宝石のように深く紅い瞳からは、確かな信念が見て取れた。
「残念だが、瑞穂様はお忙しい身なのだ。可及的速やかに立ち退いてもらいたいのだが」
「……か、きゅー? ごめん、何言ってるか分からない」
戸惑いの表情を浮かべて首を傾げた少女に拍子抜けした従者は、先回りされたのもただの偶然であると、密かに勝利を確信した。少女に感づかれないよう懐に手を差し入れ、そこに忍ばせてある刀の柄を捉える。右足を半歩後ろへと下げ、いつでも踏み込めるように雪を踏みしめる。そして、立ちはだかる少女の顔を見据えた。
強大な魔力によって変色した髪と瞳。見る者を恐怖の底へと陥れるだろうその色は、なぜか妙に懐かしさを覚えさせた。なぜか、いや、理由は分かっている。背後へ意識を向けると、その理由である彼女が息を呑んでいるのが感じられた。
「瑞穂様、お下がりください。ここはあなたの出る幕ではありません」
あの風貌は昔の主を思い起こさせる。きっとこの主も同じ事を思い出しているだろう。
決して美しいものではなかったあの日々の事を。
従者は刀を抜き払った。その様子を見た少女が、頬筋一つ動かさずに右手を掲げる。
「あと半刻もすればみんな集まる。それまでは、僕が一人で頑張るよ」
紅い眼がすっと細められた。まるでそれが合図だったかのように、雪上に緑の魔法陣が展開された。その瞬間、従者の周りに旋風が立ち昇り、舞い上げられた雪が視界を覆う。だが、従者は怯んだ様子を微塵も見せずに刀を一閃した。その軌跡をなぞるように旋風が凪いでいく。そして、雪の結晶が頬を裂くのもいとわず、地面を蹴って少女へと肉薄した。手にした刀が、白く細い首筋へと迫る。少女は瞳を煌めかせながらそれを難なく避けた。
〈切り刻め、ウィンドカッター!〉
避けられるのを予見していた従者は、振り返りざまに呪文を詠唱し、生じさせた風で空気を裂いたと共に再び地面を蹴った。半瞬で息を吸って魔法を連続で展開する。
〈分かつ炎よ、彼我を隔てよ! ファイアウォール!〉
炎の壁が立ち昇った刹那、初手の魔法がそれを裂く。炎の刃となって少女へと襲い掛かるそれを追うように、従者は再び刀を構えて踏み込んだ。
「うっ……!」
少女は何とか身を捩っていくつも迫るそれらを回避したが、従者の刀に数本の髪を攫われた。咄嗟に魔力を放出して距離を取る。
赤い雫が、瞠目する少女のこめかみを伝う。風に揺れる前髪の一部が雪の中へと消えていた。
「惜しかったか」
低く呟いた従者は、再度得物を握り直して一気に距離を詰めた。
「避けなさいっ!」
その瞬間、瑞穂の叫び声が耳朶を震わせた。だが従者はすでに間合いに入っており、気づいた時には、少女の血のように紅い瞳に射抜かれていた。底知れぬ怒気を孕んだその瞳に。
「っ……?」
光の槍に貫かれた従者は、何が起こったかを理解できないまま、呻き声すら上げられずに刀を落とした。銀の輝きは音もなく雪に沈む。
「…………髪……あの人が、好きって言ってくれた、僕の髪……」
控えめだった少女の声音が、先程までとうってかわって怒りに震えている。
「伸ばしてた僕も悪いかな……ごめんね、あかね」
少女は謝罪の意を口にし、手にした光の槍を消失させる。そして、湿った音を響かせて地面に落下した従者の許に、うっすらと涙を滲ませながら歩み寄った。横たわったまま動かない彼の前で両手を掲げ、光属性のマナを収束させて神槍を出現させようと、小さく口の中で詠唱を始める。
瑞穂は息を呑んだ。
「あれは、まさか」
幾重にも重なる魔法陣。大小様々な紋様を描くそれらが、複雑かつ規則的に並び始める。マナに与える命令式が膨大であればあるほど、魔法陣も複雑になる。つまり、この少女が展開しようとしている魔法は、かなり上位の光魔法だという事だ。
魔法陣が放つ白い光が、いっそうその輝きを強めた。
「っ、駄目!」
考えるよりも先に体が動いていた。地を蹴った瑞穂は、今まさに完成しようとしている神槍を手にした少女を突き飛ばした。一緒になって雪の上を転がる。
「邪魔、しないで!」
少女は鋭い視線を差し向けるが、盲目である瑞穂には意味を成さない。
「彼を傷つけるのは、私が許しません。絶対に……!」
刹那、瑞穂の背中から陽炎のようなものが立ち昇った。衣を翻し、髪を遊ばせる。
「私は非力です。それでも私は、この伊勢を治める魔導師なのです! 侮らないでください!」
焦点の定まらない瞳が、その少女を捉えた、その瞬間。
「お姉ちゃんっ!」
少女の紅い眼に映ったのは、標的の二人が連れ去られる様と、彼女自身へと迫る巨大な氷塊だった。




