第十六話
まさに火の海と化していた。
赤々と燃え盛る炎は火花を散らし、風に煽られまるで生きているかのように渦巻いていた。徐々に強く降り始めた雪でさえ、その勢いを止める事はできない。
口が渇く。露出した肌が痛い。吹きすさぶ熱風が眼を焼いている。だがそれでも、身を竦ませている時間は無い。その中に誰がいるのかを思えば。
「白花っ……!」
真っ先に妹の顔が思い浮かんだ。火の粉を全身に浴びながらも炎の中に飛び込む。不思議と迷いは無かった。
藤神の屋敷よりも少し小さい庭を横切り、今にも崩れ落ちそうな玄関を潜り抜ける。そこは、つい数刻前の景色とはその様相を異としていた。比喩ではなく火の海となりつつある廊下を最奥まで突っ切り、そこにある階段を一段飛ばしで上ってから二つ目の分岐を右へ、そして一番奥の部屋の前まで炎を避けながら駆け抜けて戸を蹴破った。
果たしてそこには、防御魔法を展開した妹の姿があった。
「お兄ちゃん!?」
突然の乱入に驚いたような、もちろん魔力によって色葉が来る事は分かっていただろうが、そんな表情を見せた白花を色葉はまじまじと見つめた。多少服が汚れてはいるが、怪我はどこにも見受けられない。
「よかった。無事みたいだ、な……?」
安堵の息を吐くのも束の間、色葉はその場に膝から崩れ落ちた。息が詰まるような感覚に襲われた途端、胸を掴んで激しく咳き込む。予想以上に煙を吸い込んでしまったようだ。割れるように痛む頭が、相当の無理をしていた事を告げている。
〈癒しの力よ、ファーストエイド!〉
その時、白花の声に誘われるように視界を薄緑の光が埋め尽くした。全身を駆け巡っていた苦痛が和らぐ。
「……ありがとう、白花」
呼吸が十分に落ち着くのを待ってから、色葉は白花の様子を窺いつつ礼を言った。刹那、盛大な頭突きが肩口を強襲した。勢い余って背中を床に打ち付ける。
「ばかっ、無茶しないでよ! この大ばかものっ!」
どうやら今のは頭突きではなかったらしい。所々が焦げた服を掴み、色葉の胸に顔を押し当てて必死に嗚咽を堪えている。その体温は周囲の温度とは対照的だった。
「…………ばか……」
恐らくそれどころではなくなっているであろう白花の代わりに防御魔法を展開し、三度目の感謝の言葉を吐いた妹の頭をそっと撫でてやる。
だが残念ながら、白花が平静を取り戻すのを待っている時間は無かった。
「なぁ白花、いったい何があった? 他のみんなは? なんで逃げなかった?」
白花を抱えたまま上体を起こし、矢継ぎ早に問を重ねる。
「……何があったのかは分かんない。みんなは……水望ちゃんとは一緒にお風呂入ってたんだけど、私より先に上がってどこかに行っちゃった。そのちょっと後に私も上がったら、部屋の前に道風のやつと陸さんがいて、でも私を見つけたら二人も宿を出てって。蛍ちゃんはおじいちゃんのところにいるし。氷波は、知らない」
一言一言思い出すように、ゆっくりと白花はそう答えた。
「じゃあみんなは無事なんだな。……よかった」
水望は先程まで行動を共にしていたし、氷波は自分もその所在を端から知らないのでここにはいなかったのだろう。蛍も祖父と一緒なら大丈夫だ。道風と陸の挙動には少し引っかかりを感じたが、それでも大事ないなら良かった。
「で、なんで逃げなかったんだ? その気になったら魔法で何とかなっただろ?」
「お兄ちゃんもやってみてよ」
促されるまま、色葉は空間転移魔法の呪文を詠唱する。
が、何も起きない。
「魔力が跳ね返される……?」
いくら宿の外に出口を繋ごうとしても、その途中で壁のようなものに阻まれてしまう。例えるならば、何かに封じ込められているような。
「結界かっ!」
そう気付いた時にはすでに遅かった。
「――ご名答」
ごうと音を立てる炎をかい潜って届いたその声は、妙に凪いでいた。
「お前は確か……」
白花を庇いつつ背後を振り返る。そこに立っていたのは、狩衣に腰まで届く黒髪の男。この出で立ち、この魔力には覚えがある。松永家との戦の時にいた魔導士部隊の隊長だ。あの時と同じく、彼の瞳はまるで何も映していないかのように昏かった。
「君も私の傑作を看破できなかったみたいだねぇ。やっぱり一方通行の結界は見破れないのかな? いやー愉快愉快」
言葉だけを聞いていれば、道風のそれを彷彿とさせるような快活な口調。だが彼と違うのは、この男の発する声には全く感情がこもっていないという事だ。
「なぜお前がここにいる」
低く問う。
「なぜって、ここ伊勢は我が松永家が事実上支配している地だよ? そこに私のような者がいてもなんら不思議じゃないさ」
「何が目的だ」
「それは私へ聞いているのかな? 松永へか? それとも……」
不気味に笑う。
「いや、今はやめておこう。そんな事よりも、君は君自身と彼女の事を考えたほうがいいよ」
その瞬間、何かが崩れ落ちる音がすぐ近くから聞こえてきた。材木が炎に耐えきれなくなって建物が崩壊し始めたのだ。だが彼はそんな事を歯牙にもかけずに、言葉を続けた。
「親父は君達に死んでほしいらしいけれど、私はむしろ助けたいと思っているんだ。君のような価値ある人間は特にね」
「価値……?」
無意識に言葉を繰り返した色葉は、怪訝そうに眉根を寄せる。
「残念だけど、こんな所で長話する気はないんでね。私は君達が無事にここから出られることを期待しているよ。それじゃあ」
しかし彼は性急に会話を打ち切り、煙のように消えていった。
「おい待て! ……くそっ」
男の姿が完全に消えてしまい、色葉はただ悪態を吐き捨てた。すぐさま不安げに震える白花に向き直る。
「お兄ちゃん……」
「大丈夫。俺が何とかするから」
色葉はそう言って無理矢理に微笑を浮かべた。部屋の隅に立て掛けてあった愛刀を取り背負い込む。
さあ、どうやって脱出したものか。あの男は、結界は一方通行だと言っていた。つまり外からは入れるが、中から出る事はできないという事だろう。白花の安否にばかり気がいってしまい気付けなかったのが歯がゆい。もしその時に気付いてさえいれば、もう少し状況は好転していたかもしれない。
そんな自責の念を並べている間も、崩壊の足音は徐々に迫ってきていた。防御魔法もこの部屋自体が崩れ落ちてしまえば意味を成さない。
いっその事、魔力を最大限に高めて結界を内から破ってしまおうか。結界は外からの衝撃には強いが内からの力には弱い。やってみるだけやってみよう。そんな考えが脳裏を過る。
一際大きな不快音がすぐ頭上から響いた。
時間が無い。やるしかない。
「掴まって!」
白花に手を伸ばし、彼女の細身を抱き締める。
その瞬間、色葉と白花の身体がふわりと宙に浮いた。
結界は破られる事なく、二人がいた宿は完全に崩れ落ちた。
「ちょっと! 待ってってば!」
水望は遠ざかっていく少女の背中に向かって叫んだ。だがその声は、壁に虚しく反響して小さくなっていくだけだった。
「詳しい事は早織、その子に聞いてください」
少女は振り返る事なく答え、そして再び歩を進め始めた。何とかして呼び止めようと言葉を探しているうちに、その背中は完全に闇の中へと消え去った。
「何なの、もう……」
諦めたように頭を振った水望は、ひんやりとした壁に背を預け、そのままずるずると腰を地面につけた。
自らの息遣いと鼓動の音だけが耳朶に伝わってくる。いや、よくよく耳を澄ませば僅かに波の音が混じっているのが分かる。海、だろうか。そもそもここはいったいどこなのだろう。そして何より、彼は今どこにいるのだろう。きっと突然逃げ出した私の事を探してくれているに違いない。なぜなら彼は。
「優しいんだねぇ」
「へあっ?」
まるで心の内を読まれたかのような声が水望のすぐ傍らから聞こえてきた。
そうだ、ここにはこの子もいたんだ。すっかり忘れていた。
「ど、どうしたの変な声出して。……いやね、伊織がしゃべるなんて珍しく優しい時もあるんだなあって思ってさ。伊織は知らない人とほとんどしゃべらないんだよ」
膝を抱えて座っている彼女は、いつも早織かお姉ちゃんの後ろに隠れるんだよ、と続けて笑った。ふうんとだけ返した水望は、屈託なく笑う彼女を警戒心に満ちた顔で見やる。
「あなたは、私の見張り?」
「そうなのかな? 伊織が早織にそう言ってたから、そうなのかも」
「随分と適当なんだね……」
「えへへ」
どうやら悪い人間ではなさそうだ。しかし、彼女らが敵か味方か分からない以上、迂闊に警戒を解く訳にはいかなかった。
その時、何かを思い出したように早織が手を叩いた。
「そういえば早織、あなたの名前を聞いてなかった。名前は?」
「……三条水望。水に望むって書いて水望」
一瞬素直に言うかどうか迷ったが、彼女の純粋な瞳に負けた。
「水望、いい名前だね!」
だが、それが間違いだったのだ。
「じゃあ水望、お願いだから『この部屋から出ないで』ね。早織が怒られちゃうから」
そう笑う彼女の顔は、先程までと何ら変わりはなかった。
けれどもどこか少しだけ、冷たかった。
火の爆ぜる音で目が醒めた。
霞む視界に揺れる炎。だがそれは、先程まで自分が対面していたものとは明らかに違い、優しく包み込んでくれているような気がした。それもそのはず。集められた薪に灯された火は、誰かが暖を取るために点けたものだ。おかげで身体も冷え切ってはいない。そんな炎が、仄暗い洞窟の壁を照らしていた。
(洞窟……?)
なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。そして、何よりも大切なものを忘れている気がする。
次第に意識が覚醒する。じめじめとした黄土の感触が、衣を通して皮膚に伝わってくる。あまり気持ちの良いものではないそれから逃れるように腰を浮かせた途端、背中でかちゃりと金属音がした。この重みは、常日頃から愛用している自分の刀だ。
そうだ。あの宿から逃げ出すためにこの刀を背負って、結界を破ろうとして、それから。
色葉は自らの手に視線を落とした。
「白花っ!?」
両腕にあるはずの温もりが無い。辺りを見回すが影すらも見当たらなかった。全身からさっと血の気が引く。だがそんな事を気に留める間もなく、自分がいた袋小路とは反対の方向に走り出していた。
外に出れば、あの妹は自分を待っていてくれている。いつもそうだったじゃないか。だから。
脳裏に浮かんだ情景を揉み消す。あの輝くような笑顔が、深い深い闇の中に消えていくその情景を。
外は雪が降っていた。頬を打つ結晶が先程よりも大きくなっている。真っ白な雪の上に長く伸びた自分の影が、背後で揺れる炎と共にゆらゆらと踊っていた。
しかし、妹の姿はどこにもなかった。
急に両足から力が抜け、その場にへたり込んでしまいそうになる。まだ状況がうまく呑み込めない。
その時、新雪を踏む音が風に乗って色葉の耳に届いた。
「あ、色葉。目が醒めた――」
「氷波! 白花がっ!」
なぜ彼女がここに、という疑問よりも先に声が出た。色葉の叫びを聞き、薄明かりに照らされた氷波の顔がほんの一瞬時を忘れたかのようになった。だがそれも束の間。すぐに合点がいったのか血相を変えて色葉の隣をすり抜ける。
「嘘……私はちゃんと二人ともここへ……」
呆然としたその呟きに微かなひっかかりを覚えたが、今その事を悠長に尋ねている暇はなかった。
「早く探さないと!」
このような状況下、妹が一人でどこかへ行ってしまうはずがない。しかも雪の夜にだ。それが意味するのは、考えたくもない事だが、たった一つだけ。
両手をきつく握り込む。立ち尽くす氷波の腕を掴み、どことも知れない山の中を駆け出そうとした、その時。
「ねえ、そんなに急いでどこへ行くの?」
色葉は自らの耳を疑った。
無邪気と言えば聞こえは良い。だがその実、相手を小馬鹿にしたような声音。つい先日邂逅したばかりあの姿が、その声を耳にした途端ありありと脳裏に浮かび上がった。
もしかすると、耳を疑ったというのは間違いかもしれない。どこか意識の外側で、彼らの関与を予見していたかもしれないのだから。白花がいなくなったたった一つの要因を成し得るのは、彼らしかいないのだ。
危ない。
そう直感が告げるのと時を同じくして、色葉は氷波の腕を引いたまま大きく前へ跳んだ。刹那、衝撃音と共に背後で雪が巻き上がった。地鳴りのような音が轟く。
「あー、惜しいっ」
雪に埋まった地面まで抉り取った鎌鼬の向こう側に、その子供は音もなく降り立った。
鎌鼬とは、この国に古来より伝わる妖怪であり、魔法に起因した生き物と言われている魔物とは比べ物にならない力を持っている。そんな鎌鼬を従えられる魔力の持ち主など、色葉は数える程しか知らない。
「さすが神の国、妖怪も強いねぇ。扱いが大変だよ」
夜闇に溶け込む出で立ちのこの子供こそ、その内の一人なのである。
「死なない程度に痛めつけろなんてさ、そんな難題僕には荷が重すぎるよね? まあ、あの人に言われたから仕方ないけど」
僅かに覗く口元が、いとも楽しげに曲線を描いた。
「僕は今度こそやり合いたいなっ! 鬼の子!」
まるで遊びに誘っているかのような、無論本当にそうかもしれないが、そんな調子で子供は「殺り合いたい」と言った。
「俺には、お前と遊んでいる時間なんて無い」
立ち上がった色葉は、腰に両手を当てて屹立している子供を睨みつける。だが色葉の眼光をものともせず、子供は一つ大きく頷いた。
「そっか。君は探しているんだね、最愛の存在である妹を。それじゃあいいこと教えてあげる」
ふと、小さな影が闇に紛れた。否、目にもとまらぬ速さで色葉の眼前へと迫り来たのだ。
そして低く囁く。
「早くしないとあの子……死ぬよ」
ようやく確信が持てた。
ああ、こんな奴らが妹を。
奪い去ったのか。
なるほどな。
そう色葉の口が動いた。
紅い双眸が暗い夜の下に光ったのは、それからほんの僅か後の事であった。




