第八話
――十一月。
霜月という言葉が表すように、辺りは冷たい白に覆われていた。うっすらと積もった霜は、夜も明けきらない暁の平原の静けさを、より印象的なものに彩っている。そしてもう間もなく東の山から太陽が顔を出し、その光を輝かせるのだろう。
「…………」
黒を基調とした衣に身を包んだ色葉は、その平原の真ん中に立ち、無言のまま東の空を見つめていた。彼の髪が、澄み渡る風に遊ばれる。
相変わらず髪を丁寧に切り揃えるという事をしない色葉の黒髪は、細く美しい髪質を持ちながらも、残念ながらその見栄えを少々悪くしている。だがそれでも、男子としてはかなり綺麗な方で、むしろ白花や水望のそれに負けるとも劣らない代物だ、と氷波は言っていた。しかし色葉は、色が美しいのは蛍で、最も手入れが行き届いているのが氷波なのだと言い張り、自分のは比べられないと全く取り合わなかった。
ちなみに、彼の髪を何とかして整えようと、水望、氷波、蛍の三人が画策しているという事は、色葉はまだ知らない。
藍色だった空が、徐々に明るくなっていく。赤や黄に染まった山の際が、一日の始まりを告げる光に照らされていく。
そしてようやく、太陽が姿を現した。
「……やっぱりここでも、変わらないね」
それも当然か、と心の中で呟き、色葉は小さく笑みを浮かべる。
その時。
「あ~……さむい~」
背後から霜を踏む音が近づいてきた。この気だるげな声の主は一人しかいない。
「早いね、道風」
「ん、おはよ~色葉」
寝ぼけたような表情を浮かべながら、こちらへと歩いてくる姿があった。彼は大抵気の抜けたような顔をしてるのだが、今日はそれが輪をかけてひどかった。
「緊張、してるんだ」
そんな道風の表情とはかけ離れた感想をこぼす色葉。
「え? 僕緊張なんてしてないよぉ~?」
そう笑って、道風は満面の笑顔を浮かべた。癖のある髪の毛が、風に煽られてぴょんぴょんと跳ねている。
そして色葉の隣に並んだ道風は、半分ほど顔を出した太陽に向かって、
「今日も楽に生きられますように」
と言葉を紡いだ。両手を合わせ、静かに目を閉じる。
普段ならば、ここでもう少し真面目に仕事をしろなどと言うべきなのだろうが、この時ばかりは、色葉もその言葉に同意した。
「今日も楽に……か。それは難しいかもね」
「分かってるよ~。だからお天道様にお願いしたんじゃないか~」
それもそうか。
希望的観測を述べる事は、決して悪い事ではない。たとえそれが、勝ち目があるのか不透明な、大きな戦の前であろうと。
色葉の口元に浮かんでいた微笑が、不意に消え去った。ただでさえ表情に乏しい少年の顔つきは、まるで儚げな美少女のそれのようだが、全く違う。そこにあったのは、荘厳な気配を纏った武士の、そして、何百何千の命を預かる将の顔だった。
その凛々しくも可憐な一人の将は、厳かに口を開いた。
「……昨日はよく善戦した。その勢いを失わないよう、今日こそは前線を押し進めるよ」
「はっ」
暁の平原に、色葉と道風の、主従の二人の声が響いた。
そう、ここは大和。
山城国の南側に位置し、伊勢に向かうための交通の要所。松永家が治める肥沃な土地。
そして、藤神家と松永家がその覇権を賭けて争う――
戦場だ。
平原に突き刺さるいくつもの矢。
そこで戦闘があった事を物語るそれらを回収する者などおらず、平和であっただろうこの場所は、異様な雰囲気に包まれていた。その中央を流れる川、木津川。東から流れてきたその川が、ここで真北へと進路を変えている。以上がこの戦場のおよその形だ。
一昨日、木津川の東側を遡るようにして南下した藤神軍は、折れ曲がった川の内側に本陣を置いた。対する松永軍は、藤神軍を取り囲むようにして布陣した。その本陣は、分厚い兵士の壁の向こうに置かれている。
そして始まった、一回目の戦闘。比較的水深の浅い川の中で、両軍は刃を交えた。開戦直後は戦況が拮抗していたが、徐々に藤神軍が押され始め、日が暮れる頃には撤退せざるをえなくなった。やはり戦力の差が表れたのだろう。
藤神軍、三万八千。松永軍――九万。
その差は、倍以上。
圧倒的な兵力差は、密偵からの情報により開戦前からすでに把握していた。だがそれは、言ってしまえばただの数字に過ぎない。数が多いか少ないか、それだけだ。
ただそれだけの事のはずなのに、どうしてこんなにも苦戦を強いられるのか。
答えは一つ。
圧倒的兵力差の前に、個々の能力は十分に発揮されない、という『思い込み』があるからだ。無論、将兵から一兵卒に至るまで、不敗を誇ってきた藤神家の勝利を変わらず信じているだろう。しかし、その信頼を無意識下にまで浸透させるには、この戦はあまりに兵力差が大きかった。
敵の総大将、松永久秀は、知謀に優れた智将。戦術と謀略の限りを尽くし、松永家をこの大和一国を収める大名にまで成長させたのだ。藤神家は、その彼が治める家を相手に、半数以下の兵力で挑む。
無謀という言葉が、将兵達の脳裏に駆け巡ったのは、無理もない。
それでも少年は言ったのだ。
「所詮は数の差。いくらでも取り返せる」
と。
表情の乏しいその顔に、薄い笑みを浮かべて。
だが彼の眼は、決して笑ってなどいなかった。
甲冑に身を固めた兵士達が、がちゃがちゃと音を立てながら走り回っている。
武器や兵糧の確認。戦術の伝達。諜報に偵察など、しなければならない事は山ほどある。一昨日は戦闘らしい戦闘を行っていない――道中の諸家がなぜか会敵した途端に撤退したのだ――ものの、松永軍の主力と対峙した昨日は疲労も溜まっただろう。その疲れを戦に影響させないために、分隊ごとに役割を決めさせ、交代で休息をとるように命じた。
それが功を奏したのか、まだ召集命令をかけていないにも関わらず、兵のほとんどが配置についていた。走り回っているのはまだ仕事の残っている一部の兵だけだ。
「そういや、色葉って昨日寝てないよね~? みんなが寝てからどこかに行ってたみたいだし」
本陣へと戻るさなか、半歩後ろを追従する道風。
「……何か問題でもある?」
「い~や、そういう訳じゃないけどさぁ。色葉が大丈夫なんだったら、それでいいよぉ」
否定しない色葉に、道風も深くは追及しない。そう言う彼自身も、色葉が寝ていないのを知っているという事は、昨晩ずっと起きていたのだろう。
「道風は俺に構わずちゃんと寝て」
「えぇ~、何その僕がいつも色葉に構ってるみたいな言い方~」
「間違ってない。昨日も勝手に他人の寝床に入り込んできておいて」
「だってぇ、昨日はすっごく寒かったんだもんっ」
どういうつもりなのかやけに可愛い子ぶる道風を、色葉は「気持ち悪い近寄らないで」という一言で切り捨てた。だがそんな冷淡な反応を意にも介さず、道風は両手を広げて力説する。
「考えてもごらんよ! 水望ちゃんは怖いし氷波ちゃんはなんか色々とまずいし白花ちゃんは色葉に殺されるし陸は論外だし! 色葉しかいないじゃんか!」
「安心しろ。俺を選んでも間違いなく俺に殺される。安心しろ」
「えっへへ~、二回も言われても全然安心できなかったな~」
そうこうしている内に、本陣に戻ってきた。白い陣幕が風に揺れている。
不意に足を止めた色葉は、視線を遠くに向けた。
川を挟んだ反対側。大量の水属性のマナにより、朝霞がかかった川岸に、うっすらと敵陣の影が見える。その影を、色葉は無言のまま睨みつけた。
「どうしたの~?」
「……何でもない」
視線を伏せ、道風を置いて本陣に入る。
火の灯っていない灯台の間を通ると、すぐそばにいた兵が頭を下げてきた。その二人にご苦労様と声をかけ、追いついた道風と共に本陣の中を歩く。
三方を白い陣幕に覆われ、木材で組まれた簡易的な柵がその両側に建てられている。奥には二つの棚があり、大量の槍や木材が整然と置かれている。入口付近に兵士が二人いる以外は、中に兵卒はいない。すでに全員が外に出ているのだ。
そして、中央に置かれた机の周りに、色葉と道風を除いた人影が五つあった。入ってきた二人に、一斉に五人分の視線が向けられる。
「ただいま戻りました」
「うむ」
頷いたのは、最奥に座する総大将。その両側に、水望、氷波、陸の三人が座っていた。軍議中だったのか、彼らの顔には一様に緊張が表れていた。
「あれぇ? 愛しの白花ちゃんはどこに――ぐほっ」
「白花は俺と同じ用事。今はいない」
色葉が拳を収めながら答える。愛しのという部分になぜか体が反応してしまった。
「あいたたぁ……って、色葉と同じって?」
うっすらと目に涙を浮かべる道風。
「早速ですが、おじい様」
だが彼の疑問を完全に無かった事にして、色葉は祖父へと視線を向けた。
「情報が改ざんされていて、諜報による情報はどれも確証がありません。確かめたところ、いくつか敵の内情に食い違いがありました。それと例の件ですが、敵方もやはりそれなりの人材を揃えているようです。おそらく、こちら側の倍はいるものかと……これも定かではありませんが」
「ふむ、そうか。報告ご苦労」
そう言って、赤松はしばらく思案する素振りを見せた。そしておもむろに手元にあった料紙を手に取り。
破いた。
操作されたおそれのある情報を、全て破棄したのだ。はらはらと紙片が地面に落ちる。
「……信頼できるものもあったのでは?」
皆が押し黙る中、陸が破かれた紙片を睨みながら声を上げた。その目からは、ほんの僅かに責めるような色が見て取れる。真面目な顔に滲む険は、彼がそれらの情報を集める苦労を知る人間だからこそ、表情に表れたものだ。兵士の訓練などを任された陸には、諜報の活動も見えていたのだろう。
そんな疑念を向けられた赤松が口を開くよりも先に。
「疑わしきは滅する。ただそれだけ」
色葉が答えた。いつも以上に平坦な声。自分の言葉に一切の疑いを持っていない、そんな声だ。
すると陸が珍しく、いや初めてかもしれない、主に向けて声を荒げた。
「敵地を潜り抜けてきた兵の、努力を踏みにじってでもですかっ!」
だが色葉は、無言をもって彼に返した。
視線が交差し、不可視の火花が散る。
「……少し、席を外します」
うってかわって静かに首を振った陸は、そう言って立ち上がった。毅然と立つ色葉の横を通り抜け、本陣の外へと早足に歩いて行く。
その時、太陽の光が陣幕の中に差し込んできた。それだけの時間がいつの間にか経っていたらしい。白く輝くその光が、口を真一文字に引き結んだ色葉の顔を照らし出した。
(みんなに見えたものは、俺にも見えるんだってば)
陸に睨まれた瞬間に、大量の過去が脳髄に流れ込んできた。気が狂いそうなほど見てきた他人の記憶の中に、彼が体験してきた事全てが入り混じる。
だがそれでも、色葉は陸から眼を離さなかった。
そうする事で、変われるような気がしたから。この大嫌いな能力を持っていても、笑って生きられるように。ほんの少しだけでも、そう変われるような気がしたのだ。
だが、やはり気持ちのいいものではない。色葉は黙り込んだ。
顔を伏せた色葉の隣で立ち尽くす道風。机を挟んだ反対側の赤松は、黙したまま目を瞑っている。その左隣の水望と氷波は、二人して固い表情を貫いている。
静まり返った本陣。
そんな、風の音だけが響く場所に、陸と入れ違いに入ってきた足音があった。その軽快な足音に、誰よりも先に道風が反応する。
「あっ! おかえり~!」
そのまま飛びつきそうな勢いで駆け寄った道風を、色葉が目にもとまらぬ速さで羽交い絞めにした。
「た、ただいま……二人とも何してるの?」
「いや、別に何も。おかえり白花」
「うがぁ~っ!」
暴れる道風を押さえる色葉の顔には、すでに先ほどまでの暗さは無かった。それどころか、よく見ると微笑さえ浮かんでいる気がする。
わわ、分かった分かったもうしないから離してくださいお願いしますぅ~、という道風の懇願によやく腕を離した色葉は、無垢な瞳で首を傾げる妹に歩み寄った。優しく微笑みかけ、その眼を見やる。その、いくら見つめても過去の視えない眼を。
「……うん。やっぱり安心するよ」
唐突な兄の言葉に、しかし白花も満面の笑みを広げる。
「えへへ、どういたしまして、かな?」
笑いあう二人の周囲に、色とりどりの花が咲き乱れた――ように見えたのは水望の錯覚だったが、そう表現しても過言ではないほど場が和んだのもまた事実だ。ほうと息を吐き、無意識に凝っていた肩から力を抜く。
水望は、色葉が来た時から、彼の放つ刃のような魔力に完全に萎縮してしまっていた。どうしてそこまで冴え冴えとした雰囲気だったのか、水望には理解できなかったが、きっと隣に座る氷波も同じ感覚を――
「…………え?」
その刹那、水望は一つの疑問にたどり着いた。
氷波はなぜ水望と同じように固まっていたのか。
(いや、そんなはずは……ない)
なぜなら彼女は、魔力など感じ取れるわけがないのだ。魔導士ではない、ただの人間なのだから。
水望は、彼女の勘の良さがそうさせたのだと、自分に言い聞かせた。そうでなければ説明がつかない。
「どうしたの? 水望」
「えっ? いや、その……やっぱりあの二人、仲良いなぁって思ってさ」
突然その少女に声をかけられ、思わず取り乱してしまった。
「そう、だね。何というか……私達、蚊帳の外って感じだね」
だが、運よく氷波もそれを気にしていたようだ。おかげで話が逸れた。
「……もっと、私に……」
その時聞こえたか細い呟きを、水望の耳朶は何とか捉えた。
だがそれを聞き返そうとした瞬間。
空を貫くような鉄砲の音が響き渡った。




