第九話
「っ!?」
突如響き渡った甲高い音に、陸はすかさず抜刀した。刀一つでどうこうできる代物ではないが、それでも警戒していて損はないだろう。何事も気の持ちようだ。
平原にこだまするその音が消えるよりも先に、二回目の音が響いた。
銃声だ。
その後も何度となく同じ音が響き渡る。陸は、速くなっていく鼓動を抑えるように、大きく息を吐いて目を閉じた。感覚を研ぎ澄まし、耳を澄ませる。
今の音が聞こえた方向、ここより南西に少し離れた場所。その付近がやけに騒がしい。
(敵の鉄砲隊はごく少数だ。なら……)
目を開くと同時に、陸は地面を蹴った。
「始まったか……」
騒然とする本陣に、総大将の呟きが落ちた。その深い声音で、全員の表情に冷静さが戻る。
ただ一人を除いては。
「じゃあっ」
机に手をついて立ち上がった水望。
「今すぐにでも反撃しま――」
「全軍待機。銃撃を受けた部隊は射程外まで後退。早急に伝令を出せ」
入口付近の兵に眉ひとつ動かさず指示した赤松に、水望は慌てて言葉を返した。
「で、ですが赤松様! まさに攻撃を受けている今、反撃しない訳にはっ」
「落ち着いて、水望」
そう彼女を宥めたのは、先ほどから唯一微動だにしなかった色葉だった。
静かな声、いつもの無表情。こんな状況にあっても普段と変わらない様子の色葉だったが、水望の目には、何かが違うように映った。なんというか、雰囲気が違うとでもいうのだろうか。
遠くから響いてくる銃声は、いまだ妙な間を空けて続いている。空を貫くようなその音が、かえって陣内の静けさを強調させているようにも思えた。
風が吹き抜ける。
「――舐めた真似してくれるね」
その声を聞いた瞬間、水望の背筋を、冷たいものが撫でた。胸の奥から、ぞわぞわとした感触が駆け上がってくる。
最初に響いた銃声の前に聞こえた氷波の呟き、今現在攻撃を受けているという事実、それに対する総大将の指示。それら全てがどうでもよくなった。空っぽになった脳裏を埋め尽くしていくのは、ただただ純粋な恐怖だけ。
水望は、色葉の気迫に完全に呑まれたのだ。そのたった一言で。
「お、お兄ちゃん……?」
彼のすぐそばに立っていた白花も、額にうっすらと冷や汗を浮かべている。水望よりずっと長い間一緒にいる彼女でさえこうなのだ。やはりよほどの事なのだろう。
これまでも、何度か色葉の激しい感情を見てきた水望だが、ここまでの恐怖を感じるようなものは初めてだった。あの二人にでさえ、こんな怒りは向けていない。
生唾を飲み込むしかできない水望をよそに、色葉は口を開いた。
「おじい様、ここは水望の言う通り反撃しましょう」
「それはできぬ。わしの兵をむざむざ死なせるわけにはいかんのでな」
その瞬間、色葉は薄い笑みを浮かべた。
「誰が『部隊』で反撃すると言いました?」
再び静寂が本陣を包み込む。
「それって……」
その言葉の意味を理解し、息を呑んだ道風は、呆然とした表情で色葉を見やった。だが色葉は、彼を一瞥しただけですぐさま目の前の赤松に視線を戻す。
「どうやら向こうは、我らを少し甘く見過ぎているようですので。壊滅までは至らなくとも、痛い目に遭わせるくらいならできます」
そして道風の予想通り、「俺一人でも」と続いた。
「……どうせ行くなと言っても行くのじゃろ、お前さんは」
溜め息交じりの赤松に、色葉は沈黙を返した。沈黙はすなわち肯定。こうなっては何を言っても聞かないだろう。
「今後に支障をきたすような事態にはなるな。これは命令じゃ」
「はっ」
一礼した色葉は、最後に白花を一瞬だけ見て――そして確実に微笑んだ――陣の外へ駆けて行った。
「素直に「怪我だけはするな」って言えないのですか」
「はて? わしはいつでも素直じゃぞ?」
呆れた様子の氷波に、赤松は食えない笑みを広げた。
「はぁ……そうおっしゃるだろうとは思いましたけど」
半分諦めたように言った氷波は、懐から桜色の組紐を取り出した。長い黒髪を器用にまとめ、邪魔にならないようにその組紐で留める。
「でも、私は素直じゃありませんから。赤松様のお言葉を伝えて参ります」
つまり、色葉の許へ行きたいという事。心配だからという理由ではない。力にはほとんどなれないだろうけど、ただそばに――
無言のまま立ち上がり、氷波も本陣から出て行った。
残された水望、白花、そして道風は、それぞれに行くかどうか逡巡する表情を浮かべた。
真っ先に決意した道風は、肩をすくめて水望の隣へ座り、机に突っ伏した。次いで白花もここに残る事を決めたようで、道風の向かい側に座り、彼の頭を平手で叩いた。
そして水望は。
「……私も、追いかけていいですか」
俯き加減に、赤松へと問いかける。
「なぜわしに聞くんじゃ? もう心は決まっておろうに」
一瞬の沈黙。俯いた水望の前髪が垂れる。
もちろん水望は分かっていた。今が戦の最中であるという事を。私情など挟んではいけない、戦であるという事を。この戦にはたくさんの命も、藤神家の未来も、色葉の未来も、数えきれないほど色んなものが懸かっている。そこに個人の意思など存在せず、ただ総大将の意向に従うまで。それが戦というものだ。誰に言われるまでもなく理解している。
だがそれでも、水望は動きたかった。色葉の後を追いかけたかった。
唇を噛みしめ、立ち上がる。
「……行ってきます!」
「うむ。気をつけてな」
水望を見送ったのは、緊迫した状況下にあるとは思えないほど、穏やかな微笑みだった。
水面を這うように、何度も銃声が響いてくる。それも妙な間を空けて。
(こっちがそんな手に乗るとでも思ってるのか?)
川岸を駆ける色葉は、その妙な間に隠された敵の真意を見抜き、内心毒づいた。
敵は、確実に反撃を誘っている。こちらがいつでも反撃できるように、発砲の間隔を空けているのが何よりの証拠だ。
もちろん、味方の諜報兵が掴んだ情報通りの――つまり百そこそこの鉄砲隊なのだとすれば、この状況に納得できない訳でもない。だが、九万もの兵力を誇る松永軍が、それしきの数で攻撃を加えてくるなど考えられなかった。三万八千の藤神軍でさえ、二千の鉄砲隊がいるのだ。中途半端な攻撃では逆に損害がでる。それは自明の理だ。
それらが意味するのは、敵が真の戦力を隠ぺいしているという事実。つまり、罠。
あからさまに仕掛けられた罠にみすみす引っかかるほど、自分達は馬鹿ではないと、色葉はそう思っていた。
――鉄砲隊、打てぇーっ!
「……っ!?」
遠くから、その号令が聞こえるまでは。
(あの馬鹿っ!)
視界の真ん中。川のこちら側に並んだいくつもの細い筒が、号令の瞬間一斉に火を噴いた。甲高い音と共に吐き出された鉛の球は、水面を滑るように飛んでいき、対岸の敵陣目掛けて降り注ぐ。
かのように見えた。
刹那。
時が止まった。
もちろんそれは比喩に過ぎず、止まったのはたった数百の弾丸だけ。そう、味方鉄砲隊の放った全ての弾丸が、無理矢理に動きを止められただけだった。
「なっ……」
悪い予感を抱いていた色葉でさえ、その光景に驚きを隠せない。だが、手をこまねいている訳にはいかないのだ。この予感が正しければ、この後――
色葉は足を止め、大きく息を吸い込んだ。
〈荒れ狂う流れよ! スプラッシュ!〉
川の水を利用し、水の壁を作り出す。
〈極寒の氷よ、地上の全てを凍てつかせろ! アブソリュート!〉
それを一瞬にして氷壁に転じさせる。
連続で呪文の詠唱を済ませ、味方鉄砲隊の眼前に巨大な物理防御壁を築き上げた。
――たった今彼らが放った、数百の弾丸から守るために。
その時、叩きつけるような音が立て続けに響いた。再び走り始めた色葉の耳朶を叩くその音は、次第にその大きさを増していく。
(お願い、間に合って……!)
目を瞑った色葉は、力の限り叫んだ。
「後退! 今すぐに後退せよっ!!」
果たしてこの声は届いただろうか。だがそれを確認している暇はない。
魔法は何も、単純な攻撃や防御だけではない。そこにマナが存在し、それらを反応させるに十分な魔力を有した人間が適当な呪文を当てはめてやりさえすれば、理論上は何でもできるのだ。
さらに言うと、呪文とはいわゆる鍵のようなものであり、本来日本語とは異なる特有の形をしている。普段唱えている呪文の日本語部分は、言ってしまえば魔法の性能を高めるための付属品であり、それが無くても魔法自体は完成する。
要するに、魔力と知識さえあれば、不可能な事など存在しないのだ。
色葉は目を見開いた。
長い睫毛に縁どられた瞳が、今にも崩れてしまいそうな氷壁に向けられる。いたるところに亀裂が走り、その破片を凍り付いた川に降らせている。何百もの弾丸をものの数秒の間に叩きつけられているのだ。たかが氷の塊が耐えられるはずがない。
それでも、時間稼ぎはできた。
それだけで十分だ。
色葉は叫ぶ。
〈排除!〉
瞬間、巨大な氷壁もろとも、全ての弾丸が消え去った。いや、それらだけではない。空間ごとこの場から排除されたのだ。無と化した空間に風が吹き込み、猛烈な突風が巻き上がる。それに吸い寄せられるようにして、川の水も渦を巻いて荒れ狂う。
飛沫を全身に受けながら、色葉はその足を緩めた。
「色葉、様っ!」
声が聞こえた。そこには、吹きすさぶ風の中、服を煽られながら立つ少年がいた。彼の目の前で立ち止まり、波打つ川に顔を向ける。
「これはいったい……!」
「説明は後。今は部隊をまとめて下がって」
「しかし――」
「下がって」
反論の余地を残さない色葉の言葉に、陸は僅かに顔を歪めて一礼した。
(ごめんね、陸)
今は時間がないのだ。半端な幕開けとはいえ、戦端はすでに開かれている。ぐずぐずしていると、いつ本格的な攻撃が始まるか分からない。
それに。
(早くしないと、敵に打撃を与える機会を逃す、から)
そう心の中でつぶやいた色葉の顔には、うっすらと不敵な笑みが浮かんでた。
だがやはり、漆黒の炎が揺らめくその眼だけは、少しも笑ってなどいなかった。
「敵味方共に損害なし。敵は鉄砲隊射程外に後退、味方は待機。以上です」
「はーい、報告ご苦労さん」
甲冑に身を固めた兵に、男はひらひらと手を振って答えた。金属同士が擦れる音を鳴らしながら立ち去る兵とは対照的に、真っ白な衣のみの男は音もなく立ち上がる。
少々汚れの目立つ単衣。首の後ろで括られた、無造作に伸びた黒髪。それらが不恰好になびく中、男はただ微笑みを浮かべて、目の前で荒れ狂う水の竜巻を眺めていた。
「敵さんもなかなかやるねぇ……」
松永家が誇る魔導師部隊は精鋭揃いだ。二十四人単位で隊を成し、魔法の詠唱を行う事で、強力な魔法展開を可能にすると共に、一人あたりの魔力消費量を減少させられる。この、同一術式並列展開と呼ばれる方法を用いるには、発動者全員の呼吸を一致させる事が重要だ。その高度な方法をとれるからこそ、松永家の魔導師部隊は優秀なのだ。
そんな彼らが展開させた魔法により、先ほどはうまく敵の反撃を誘えた。だがそれは、残念ながら無駄に終わってしまった。
敵の魔力反応は、たった一つだった。そのたった一つに、二十四名が力を合わせた魔法を跳ね返されたのだ。
「さてと、それがどんな奴なのか……しかと見させてもらおうかな?」
にぃっと口の片側を吊り上げ、男は不気味に、そしてどこか楽しそうに笑う。
盛大に巻き上がっていた水飛沫が徐々に消えていく。白く濁っていた視界が鮮明になっていき、川の向こう側が見えて――
飛来してきたものの軌道を変えるのが精一杯だった。
一瞬何が起こったのか理解できなかった。まさしく己の勘のみで防御壁を築いたが、それでも完全に止める事はできなかったようだ。後方で響いた破裂音を聞き、男の顔は固まった。
「……はは、あはははっ。おもしろい、おもしろいぞ藤神!」
だがすぐに、その表情は凶悪に歪んだ。
血色の悪い顔に穿たれた二つの眼。殺気のようなものを含みながら、その眼は彼方を睨みつけるように細められた。
その視線の先に映るのは、一人の幼い少年だった。
少年の口元が僅かに動く。刹那、再び数個の氷塊が飛来してきた。目にも止まらない速さで迫ってくる。しかし。
「二度目はない!」
その一声と共に、氷塊は破裂音を響かせながら砕け散った。男は両手に展開させた小さな魔法陣を解き、左右に分かれて並んでいる、二列横隊の二十四名の兵士に号令を飛ばす。
「我が精鋭の『奴隷』らよ! 命令ぞ。あの子供を殺せぇっ!!」
応じる声はない。ただ、寸分違わずに発せられる詠唱だけが響く。
これでいい。
「……お前みたいな子供が、たった一人でどこまでこれるんだろうねぇ」
本当は一人で対峙してやりたいところだが、残念ながらこれは戦だ。勝利のためには、武士道など石ころ一つ分の価値もない。
男の顔に浮かんだ僅かな寂寥の色は、すぐに嘲るような笑みに塗りつぶされた。
刹那。
二十四の魔法陣が、回転しながら一つの大きな魔法陣へと転じた。複雑な文様を描いたそれは、仄白い閃光を放ち、そして。
〈ジャッジメント〉
男の囁くような一言で、完成した。




