第六話
「お喋りはここまでみたいだな」
もはや魔物の気配を探るまでもない。周りを見渡せば、百は下らないであろう魔物達の影が見えた。今の遠吠えは、他の仲間に場所を伝えるものだったのかもしれない。紅葉はすぐさま口の中で呪文を詠唱し、自分達を取り囲む防御魔法を展開させた。
「ねえ紅葉……私達はどうしたら……」
「さぁな。森ごと燃やせば何とかなるだろうが……お前が怒りそうだから止めとくぜ」
白花の鋭い視線を受け、紅葉は肩をすくませた。それに、と言葉を続ける。
「そんな事したら、俺たちまで一貫の終わりだからな」
「冗談はいい加減にしてよ」
「だったら、魔法で一網打尽にするか、一体ずつ息の根を止めるかのどっちかだ。前者はそれだけの威力の魔法を詠唱するための時間稼ぎが必要だし、後者は時間がかかり過ぎる。どちらにせよ、無事にこの状況を切り抜けられるかどうか……」
紅葉は早口の途中で言葉を切り、ちらと背後を顧みた。その視線の先には、大量の血を浴びた侍女を慰めている武官や御者、怯えて震えている女官達の姿があった。その煙たがるような視線に白花は眉を吊り上げる。
「もちろん、誰一人として見捨てたりなんかしない!」
「あの魔物の群れを相手にしてもか?」
癇に障るきれい事を言われ、紅葉は顎をしゃくった。木々の隙間からは、大勢の魔物達がにじり寄ってきている。これだけの魔物の量、自分一人だけなら何とかなるが、こうも足手まといがいれば、果たして。
その時、いつの間にか傍らに立っていた白花が、一歩前へと出た。
「それでも、やるしかない……! 結果なんて、やってみなきゃ分からないでしょ!」
「……ほんと前向きだな、お前」
呆れた表情の紅葉を、白花は肩越しに振り返る。
「そんなに嫌なら、紅葉だけでも一人で逃げればいいじゃん。でも、お兄ちゃんの可愛い顔に傷なんかつけたら、私、絶対に許さないから」
「おいちょっと待て。途中から話が変わってるじゃねえか」
「真面目な話してるんだから黙ってて!」
どこが真面目な話なのか。盛大な溜め息を吐いた紅葉は、勝手にしろと手にした刀を持ち上げた。
「別に俺だけ逃げるつもりはねぇよ。それに俺は、必ずお前を――」
刹那。
『ギャァァァアアアッッ!』
紅葉の言葉を遮るように、劈くような咆哮が轟いた。それまでとは何かが違う。その迫力も、発生場所も。
「し、白花様っ……あれを!」
武官の視線の先にある空を、名を呼ばれた白花は見上げた。その漆黒の瞳に映ったのは、大きな翼を広げた虎の姿。そう、先ほどのあの魔物だ。
「飛ん、でる?」
呆然と言葉を漏らした白花に、紅葉は意地の悪い笑みを見せた。
「今更何言ってんだよ、翼は端から付いてたじゃねえか。そんな事より……」
言葉を切り、地面を蹴った。
「もう猶予はねぇ!」
自らが展開した防御壁をすり抜け、迫り来る魔物達の眼前に躍り出る。そして背後の防御魔法を瞬時に再構築しつつ、紅葉は左手を掲げた。その瞬間、呪文を詠唱していないにも関わらず、彼の頭上に炎の龍が出現した。
火と風の複合魔法。そんな上級魔法を、紅葉は本来必要なはずの詠唱抜きで行使したのだ。
「行けっ!」
本物の龍のように身をくねらせながら、紅蓮の炎は空飛ぶ魔物へと向かった。対する魔物も、青い魔法陣を展開させて対抗する。青が象徴するのは水、水属性の魔法だ。火と水。比べると明らかに火の方が属性的に不利だが、紅葉はそれを気にも留めなかった。それどころか、その口元には薄い笑みすら浮かんでいる。
対照的な二つの龍が、真っ向から激突した。大地を震わせるような衝撃が伝わってくる。大方の予想通り水の龍が炎の龍を飲み込もうとした。が、瞬く間に形勢は逆転。一瞬の内に炎の龍が水に打ち勝った。魔物が驚愕に――あの魔物にそのような感情があるかどうかは分からないが、少なくとも白花にはそう見えた――目を見開いたのがはっきりと分かった。
『グォッ、グゥァァッ!』
魔物の体に炎の龍が巻き付き拘束する。苦悶の呻き声を上げながら、魔物は大きな羽をばたつかせて、拘束を解こうと必死にもがいた。
「何やってんだ! とっとと行け!」
その様子をただ眺めていた白花の耳朶に、紅葉の叱責が突き刺さった。その額には、うっすらと汗が滲んでいる。やはり今の魔法で相当の無理をしたのだろう。いくら恐ろしいまでに強い紅葉といえども、そんな彼を一人置いていくわけにはいかない。
「で、でもっ!」
「あははっ! 俺の心配でもしてるのか? お前如きに心配されてるようじゃ、俺もまだまだだな!」
その完全に他人を馬鹿にしきった態度に、白花は心を決めた。
「私が心配してるのは紅葉じゃない! お兄ちゃんの身体だけだよっ、ばーか!」
そう叫んで、白花は唯一魔物のいなかった右後方から、侍女達と共に防御魔法の効果範囲を抜け出した。
「…………やっと行ったか」
その方向を横目で見ながら、紅葉は左手を横へ払った。瞬間、木々の隙間から様子を窺っていた魔物達が、一斉に動き始めた。いや違う。一斉にその束縛から解き放たれたのだ。
飛びかかってきた三体の魔物を、紅葉は真一文字に叩き切った。
その笑みは、消えない。
さすがに、これだけの魔物の動きを止めておくのは骨が折れた。そう内心笑いながら。
「さぁて。始めるかぁっ!」
紅葉の姿は、一陣の風となって、消えた。
白花は再び森の中を駆けていた。
一つ、また一つと木の根を跳び越え、その都度左手に填めた瑪瑙の腕飾りが、からんと音を立てる。その音を聞くたびに、白花の胸は段々と締め付けられていった。
どこに向かっているのかも、いつ魔物に襲われるかもしれないこの状況下で、どうしてもあの頼もしい背中が見えてしまう。離れ離れになると分かっていても、どうしても。
婚約は前々から決まっていた事であり、自分もそれに納得して決心したはずだ。もう何もかも踏ん切りをつけたはずなのに。
(それでもお兄ちゃんは、助けに来てくれた……!)
実際の距離も、心の距離も、遠く遠く離れていたにもかかわらず。彼はまた、命の危機を救ってくれた。そう、五年前のあの時のように。
もしかすると、心の距離だけはまだ近かったのかもしれない。それが兄妹の絆だという事も、そのせいで余計に胸が締め付けられるのだろうという事も、白花は薄々感づいていた。
近しければ近しいほど、その人と離れ離れになった時に、失うものが大きいから。だから、胸がこんなにも締め付けられるし、悲しくもなる。
その悲しみは、すでに知っていたはずだ。両親を失ってしまった時に、すでに。
(ほんとに学習しないな、私)
飲み込みは昔から悪い方だった。それをよく兄と比べられ、その都度、兄との違いをまざまざと見せつけられた。私はそれが、自分の非を露呈されているようで嫌だった。でも同時に、兄のすごさが目に見えて分かって、とても嬉しかった。武術に秀でていて、学問も修めている。少し背は低めだが、その容姿と相まってそれはむしろ長所となるのではないだろうか。私は、そんな非の打ちどころがない兄を、心の底から慕っていた。
――からん。
正直、もしもここで命を落とすのなら、それでもいいと思っている。それが私の運命なのだろうし、何よりも、兄がいない生活を送るくらいなら、死んだ方がましとさえ思う。
――からん。
ではなぜ、こうして必死に逃げようとしているのか。
『桜を、また一緒に見よう』
それが、答えだ。
私はまだ、死ぬわけにはいかないのだ。来年も、再来年も、その先も。私は大好きな兄と一緒に、美しい桜の花を見るのだ。そう約束したから、私はまだ、死ぬわけにはいかない。
――からん。
土を蹴る音も風の音も呼吸の音も鼓動の音も、白花の耳からは完全に消え去っていた。脳裏に響くのは、左手首から発せられる乾いた音だけ。
だがその時、その乾いた音が、何かが切れるような音を最後に突如途切れた。左手首にあった感触がなくなり、代わりに脳裏に別の音が響き渡る。
それが侍女の自分を呼ぶ声だと気づいた時には、すでに目の前を鋭い牙が埋め尽くしていた。
視界に映る鈍い輝きが、襲い来る魔物の牙だと分かる程度には、私は冷静だった。
(ああ、やっぱり死んじゃうんだ、私)
死にたくはなかったけれど、どうやら運命には抗えなかったみたいだ。明確な死を目前にして、その時は無限に引き延ばされていった。
最後に一言だけ、言いたかった言葉がある。兄に向けてか、祖父に向けてか、他の誰かに向けてかは分からない。ただ一言だけ。
白花の口が、僅かに動いた。
ありがとう。
儚き夢の如く。私の最期は、まさにその言葉がぴったりだった。不思議と痛みはなく、温かい感覚が全身を包み込んでいる。まるで、夢を見ているかのようだ。では、私を抱くこの温もりは、もしかすると。
(……おかあ、さん……?)
それは、とうの昔に失ってしまった、あの温もりに似ている気がした。
死んでしまった母に会えるなんて、なんて幸せな夢だろう。なんて幸せで、美しくて、優しい夢なのだろう。
いや、やっぱり優しくない。むしろ痛かった。全身を包み込む力が徐々に強くなっていく。痛い痛い痛い。そろそろいい加減にしてほしい。本当に痛い。
ああもう。
「痛いって言ってるでしょ! 怒るよ!」
ついに夢の中で叫んでしまった。いくら夢とはいえ、そんなに強く抱き締められると――
「…………え?」
そう、私は抱き締められていた。母や夢の住人などではなく、くしゃくしゃに顔を歪ませた、ある少女に。
「まっ、間に合ってよかったぁ。白花ちゃん、っ」
嗚咽混じりの声は、いつも明るく元気な水望のものだった。その彼女の腕の中に、白花の体は横たえられていた。水望の向こうには、刀を手にした氷波。弓を構えている陸。そして、神妙な面持ちでこちらを見ている、祖父の姿があった。
(夢じゃ……ない?)
状況がよく掴めていない白花は、痛いほどに自分を抱きしめてくれていた水望の手を借り、ゆっくりと立ち上がった。その瞳に困惑と安堵が混じった色を浮かべながら、周りを見渡した。
「みんな……どうして?」
「氷波ちゃんがね、白花ちゃんが大変だって教えてくれたんだ。それで……」
「わしが転移魔法を使ってここまで来たんじゃよ。かわいい孫の窮地に駆けつけない訳がないからのう」
「たまたまみんな一緒にいたので、こうして全員で助けに来られたんです」
「それで、あなたが魔物に襲われているところに出くわして。すぐに陸が弓を放って、水望がその矢に魔法で火属性を付加したんだ」
刀を収めながら、氷波が水望達の言葉を引き継いだ。ふと視線を傍らに向けると、彼女の言葉通り、焼け焦げた一本の弓矢が落ちていたのが見えた。ただの弓矢では、魔物を一発で仕留める事はできなかったのだろう。
その時、白花はある事に気が付いた。
「あれ、他の皆さんは? 私と一緒にいた……」
「それなら、わしがしかと屋敷まで送り届けたわい」
朗らかな笑みを浮かべている祖父が、胸を張って答えた。さすがは当代随一の魔導士だ。あれだけの人数なのに、難なく転移魔法を行使して見せたのだ。その無尽蔵の魔力は、やはり兄のそれをも軽々と上回ると思う。
「そうだ、お兄ちゃんはっ?」
最も重要な事にようやく気付いた白花は、慌てて周りを見回した。
「心配するでない。ちゃんと、ほれ」
すると、祖父の落ち着いた声が届いた。彼の深い瞳が見つめる先に、白花は視線を向ける。背後の森。その木々の隙間から出てくる、二人の姿があった。
その人影が見えた途端、胸の底から、熱い何かが込み上げてきた。
「よぉ。なんだお前、死んでなかったのか」
その軽口は、まだ兄ではなく紅葉だという事の証しだろう。それでも、兄の体が無事だっただけで視界が滲む。彼の隣を歩く道風が、やれやれといった風に苦笑いを浮かべた。
「そんな事言ってさ~、白花ちゃんのためにこんなにふらふらになって」
肩を小突く道風に、紅葉はうるせぇと言葉を投げる。気丈に振る舞ってはいるが、道風の言う通り一人ではまともに歩けないようで、彼に肩を借りながらこちらへと歩いてきていた。
白花の目の前まで歩いた紅葉は、立ち止まると懐から何かを取り出した。
「もう、落とすんじゃねぇぞ」
押し付けるようにして手渡されたそれは、ついさっき失くした、瑪瑙の腕飾りだった。背けられた顔を、白花はそっと見やる。
「あ、ありがと……」
照れたような笑みを浮かべ、白花はそれを受け取った。
「ははっ、勘違いすんじゃねぇぞ。俺はただ、一度言った事は違えたくない。それだけだ」
「紅葉、何か私に言った?」
様々な罵詈雑言は吐かれた気がするが、そんなちょっといい言葉は言われた記憶がない。白花が尋ねると途端に、紅葉は不敵な笑みを湛えた。
「言ったろ? 俺は必ず、お前を兄貴に会わせてやる、って……」
そこまで言った瞬間、紅葉の体がぐらりと傾ぎ、前のめりに倒れた。慌ててその体を支える。
水望が魔力を補給させている間、彼を静かに地面へと寝かせた白花は、達成感に満ち溢れたようなその顔をじっと眺めていた。
(なーんだ。そういう事か)
その言葉、本当は聞こえていた。でも、あまりに馬鹿馬鹿しくて、あの時は聞き流してしまっていた。
(そんな事、気にしなくてもいいのに)
例え、考え方や気持ち、記憶が全く違うのだとしても、白花にとっては、色葉も紅葉も大切な、兄なのだから。唯一心を開いた、同じ血を受け継ぐ人間なのだから。
「……意地っ張りなんだから」
いつもの、まるで少女のような寝顔に戻った兄の頬を、白花はそっと撫でる。こんな顔をしていても、あれだけの魔物相手にたった一人で対等に渡り合えるのだから、人は見かけによらないとはよく言ったものだ。
その時。
「白花や、少し話があるのじゃが……」
背後から草を踏む音が近づいてきた。西に傾き始めた太陽のせいで、その祖父の表情は見えない。それでも、大事な話なのだという事は分かった。
そして、その話を聞いた白花の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。




