第五話
白花の光属性の魔法により、取り囲むようにして広がっていた魔物達が一斉に飛び退いた。白く染まった視界が徐々に色を取り戻していく。数箇所から上がるマナの渦を見ると、何体かは今の魔法で仕留める事ができたようだ。
〈我が身を守れ、プロテクト!〉
瞬間的に魔物がいなくなった白花の周りに、一瞬で透明な防御壁が築き上げられた。半球を描くそれは、白花だけでなく、侍女や文官、護衛の武官達をも包み込む。
「だ、大丈夫ですかっ!」
拍手を打ち、防御壁を完全なものにした白花は、すぐ近くに倒れていた車の御者に駆け寄った。彼の右大腿は鋭利な爪のようなもので抉られており、大量の血が流れ出している。すぐに手当てをしないと、かなり危険な状況だ。
「今すぐ助けます!」
そう叫んだ白花は治癒魔法の呪文を唱えようとして、はっと我に返った。今治癒魔法を行使してしまうと、同時に展開している防御魔法が強制的に解除されてしまう。同時に二つ以上の魔法を行使する事は、残念ながら白花の実力では不可能に等しいのだ。あの小柄な兄ならば、あるいは可能かもしれないが。
ふと脳裏を過ぎったその姿を、白花は頭を振って追い払う。自分はもう、彼に頼る事は許されないのだ。自分の力だけで切り抜けなければ。
おもむろに立ち上がった白花は、何の躊躇いもなく自らの衣の袖を引き裂いた。
「白花様っ? いったい何をっ」
真っ青な顔をした侍女の声を完全に無視し、破いた衣を彼の大腿へと巻きつける。純白のその布が見る見るうちに赤く染まっていく。手早く巻き終え、両端をきつく縛った。
「何ぼさっとしてるの! あなた達も早く!」
横倒しになった車の陰で震えている侍女達に檄を飛ばす。足利家から来た彼女達とは昨日会ったばかりだが、白花は早速頼りなさを感じていた。藤神家の僅かにいる女官達と違い、こういった有事の際に何もできないのだろうか。無論それが普通なのかもしれないが。
白花の可憐な顔からは想像もつかない鋭い視線を受け、彼女達はしぶしぶ行動を始めた。
(とにかく、状況の把握を……!)
御者への手当てを終えた白花は、再び防御壁に集中しながら辺りを見回した。その瞬間、白花は言葉を失った。
自分達を取り囲むようにいくつも広がる、色とりどりの影。動物のようなものから植物のようなもの、果ては謎の球体まで、そのほとんどが見た事も無いような姿形だ。それら全てが、今もなお透明な壁を破ろうと、物理攻撃や魔法攻撃を加えてきている。これは、とても自分一人の力で撃退できる数ではない。防御壁ぎりぎりまで迫っている魔物の向こうには、さらに大小様々な魔物達がうようよと蠢いていた。
「……そんな……嘘、だよね?」
まさしく絶望的な状況だった。とうの前に藤神領と足利領の境界線は越えており、どちらの本拠からもかなり離れている。助けなど来てくれそうにもない。つまり、自分達の力だけで、この窮地を脱さねばならないという事だ。
(あの侍女さん達は武官さんに任せるとして……魔物を追い払うのは……)
白花は唇を引き結んだ。
「…………よし!」
自らを奮い立たせた白花は、意を決して声を張り上げる。
「皆さん! 私が合図したら走ってください!」
藤神家から出向してきた武官達が、すぐさま手にした槍を掲げて応じてくれた。これで余計な心配は必要なくなった。残るは、この包囲をかいくぐる活路を見出せるかどうか。それは。
白花は両手に視線を落とした。
(私の、この手に懸かってるんだ……!)
ぎりりと両手を握り締め、白花は目を瞑った。息を整え、心を落ち着かせる。そして、はっきりとした声音で呪文を紡ぎ始めた。
〈大地に眠る星の脈動よ、我が身に宿り、全てを焼き尽くす渦となれ! グランドフレイム!〉
火属性の上級魔法が完成すると同時に、半球状の透明な壁が消滅する。刹那、周囲の魔物達が一斉に飛び掛ってきた。その中の一体が白花に肉薄する。鋭く尖った爪が、目の前へと迫る。
「……残念だったね」
だがそれは、無防備な白花に届く事は無かった。魔物の爪は彼女を取り巻くように出現した炎の渦に阻まれ、嫌な臭いをまき散らす。灼熱の炎に触れるか触れないかのところで、一瞬にして魔物は消え去った。
「それじゃあ、えいっ!」
その口元に無邪気な笑みを浮かべ、白花は掲げた両手を掛け声と共に振り下ろした。その腕の方向に、炎が一直線に伸びていく。
「今だよ! 走って!」
叫ぶと同時に、白花は魔物達の間に切り開かれた道に向かって駆け出した。がむしゃらに、振り向く事もせず。侍女達も付いてきてくれていると信じて。
無我夢中で足を動かし続けた白花は、目の前にあった森の茂みへとすぐさま飛び込んだ。細い枝に頬や腕を引っ掛かれたが、それでも足は止めない。立ち並ぶ木々の隙間を縫うように駆け抜ける。
「とにかく森の奥へ!」
耳を澄ませば、自らの荒い息の他に足音がいくつか聞こえた。しっかり付いてきてくれているみたいだ。白花は心の中で安堵の息を漏らした。
その瞬間。
「っ、たぁっ!」
突如世界が反転した。視界がぐるぐると回り、地面に打ち付けた全身に激しい痛みが駆け巡る。やがて背中から木にぶつかってようやく止まった。
「白花様ぁ!」
芯が揺れている頭に頼りなさそうな女性の声が響く。うっすらと目を開けると、いつの間にか衣の裾を大胆に破いていた侍女達がいた。その隣には、その衣と同じ白い布を巻きつけた武官達。所々に広がる赤いまだら模様は、おそらく彼女達を守った証なのだろう。
「だ、大丈夫、行こう!」
そう言って白花は立ち上がろうとした。しかし、右足に走った激痛に再び倒れ込んでしまう。今しがた根に躓いたときに痛めてしまったのか。
〈癒しの力よ、ファーストエイド〉
早口に治癒魔法を唱え、患部の痛みを抑える。ごめん、と一声かけた白花は、差し伸べられた手を借りながら立ち上がった。その手にぐるぐると巻かれた布は、血に染まったのかそれが元々の色なのか、真っ赤に染まっていた。
「とんでもございません! さあ、参りましょう!」
手を貸してくれた武官が、そのまま腕を引っ張った。つられるように走り出す。
「あ、あのっ」
白花の声に、彼は振り返った。
「ありがとうござ——」
刹那。
視界が赤く染まった。全身に生暖かいものが降り注ぎ、鉄の匂いが鼻腔を貫く。
「えっ……?」
手を引いていた力が無くなり、前を走っていた武官はどさりと倒れた。全員の足が一斉に止まる。降ってきたものが人間の血だと分かった瞬間、傍らから甲高い絶叫が上がった。対する白花は、呆然と足元に転がってきたものを見やる。それは、たった今向けられた、優しい笑顔。
「……っ!?」
心臓が張り裂けるかと思った。息が詰まり、叫び声すら出ない。まるで足が石にでもなってしまったかのように、瞬く間に赤く染まっていく地面から一歩も動けなかった。
ぽたり。
その時、赤い水溜りに、何か別の液体が滴り落ちた。どろどろとした、半透明なもの。僅かな粘度を持ったそれは、異臭を放ちながら、再びぽたりと音を立てる。そして、生暖かい風が白花の頬を撫でた。
何かがいる。白花の体を包み込んだ大きな影が、如実にその現実を表していた。とてつもない恐怖を感じながら、白花は恐る恐る顔を上げた。
そこには、血にまみれた魔物の咢があった。大きく開いた口の中に、真っ赤に染まった布が見える。あれは、さっきの。
――助けて。
頼ってはいけない、頼る事は許されないと分かっていても、心の中で叫ばずにはいられなかった。例えその声が届かなくとも、どうしても、その背中に縋りたかった。
――助けて。
世界で一番頼りになる、その人だから。
――助けて、お兄ちゃん!
刹那。
ぎゅっと目を瞑ったその瞼の裏に、金属音と、
「白花っ!」
少年の声が聞こえた。
魔物の牙と自らの刀がぶつかり、青白い火花が散る。
「はぁぁぁぁぁ!」
上がる息を気合と共に吐き出し、両腕にありったけの力を込める。両者の力は均衡、いや、僅かに向こうが優勢だ。だがそれでも、白く輝く刀身に意識を集中させ、その牙を受け止める。
一瞬のこう着。その時、獣特有の臭いに混じった血生臭さに、色葉は戦慄を覚えた。
(人を、喰ったのか……っ?)
人間を襲う魔物は数知れず存在するが、捕食までする個体は初めてだ。噂は何度か耳にしていたが、まさか本当にいるとは思わなかった。
「下がって!」
背後にいるであろう白花と、その隣で腰を抜かしていた女性に向かって声を飛ばす。だが、彼女達がすぐに動く気配はなかった。人を喰った魔物を前にして無理もないか。しかし、これでは受け流して体制を整える事ができない。かといって、このままでは確実に刀がへし折られる。ではどうすれば。
色葉の逡巡は一秒にも満たなかった。
「ったく。
〈火よ集え、ファイヤーボール!〉
色葉は火傷覚悟で、密接状態にある魔物へと巨大な火の玉を放った。灼熱の炎が魔物の大きな口の中を焼く。
『グルァオオオォォッ!』
地獄から這い上がってきたようなその声が、魔物に確かな攻撃を与えられた事を知らせてくれた。どす黒い血を流しながら、魔物は後ろへと跳ぶ。
色葉は刀を握り直しながら魔物を注視した。両手両足に備わった三本の爪。鋭く尖る二対の牙。黒と黄色の縞模様。それは虎のようにも見える様相だったが、背中から生えた大きな翼が、全く別の生き物である事を主張していた。
(なんだこいつ……見た事ない)
空想の生き物のような姿をした魔物に、色葉は全く見覚えが無かった。だが、項に伝わってくる凶悪な魔力は、確実にこの近辺に出没する魔物のそれよりも強力だった。
その時、目の前に透明な壁が築かれた。おそらく白花の防御魔法だろう。牙の隙間から涎を垂らして唸る魔物から視線を外し、色葉は背後の少女の元へと駆け寄った。
「だじょう、ぶ……か?」
色葉は息を呑んだ。髪は乱れ、衣は裂かれ、何よりも全身血まみれのその姿に、そんな言葉をかける意味は無かった。ただ漆黒の眼を見開き、口を僅かに動かす。
「…………待ってろ」
低く呟いた色葉は、その場で後ろを振り返り、唇を噛み締めた。
こいつか。こいつがやったのか。
そう思うと、胸の底から熱いものが湧き上がってきた。大きく息を吐き、静かに目を閉じる。
刹那、色葉の持つ魔力が変化した。おもむろに刀を右手へと持ち替え、胸の前で構える。左手をそっと柄に添え、口元に薄い笑みを浮かべた。そして一言。
「さぁ、贖え」
その気迫に気圧されたのではないだろうが、魔物がずさりと一歩後ろへと下がった。その瞬間を見逃さず、少年は地面を蹴った。
「お兄ちゃ……!」
咄嗟に白花は手を伸ばしたが、それは空を切っただけで兄の背中には届かなかった。その代わりに、防御魔法を一瞬だけ解除する。
「気をつけて! 初めて見る魔物だよ!」
「いちいち言わなくても分かってるっ、つの!」
叫ぶような声が聞こえてきたと同時に、透明な壁が消え去った。言葉を返しながら少年は境界を飛び越え、眼を見開いた。
「沈めぇっ!」
紅い煌きと、翡翠の眼光が交差した。上段に構えた紅葉の胴を抉ろうと、爪の鈍い輝きが迫る。だがそれよりも速く紅葉は刀を振り下ろした。
「っ!」
衝撃が両腕の痺れへと変換される。魔剣の切れ味をもってしても断ち切れない魔物の爪は、簡単に人間の身体を壊してしまえそうだ。そう考えると、魔物への恐怖、もとい興味がわいてきた。
紅葉の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
(相手が強いほど……燃えるっ!)
地面に着地すると同時に横へ跳び、勢いそのまま太い腕を切りつける。硬い。毛が何本か散ったが、有効な損傷は与えられていないだろう。刹那、舌打ちする紅葉の眼前に、またしても鋭い爪が迫った。
「でかい図体のくせに……っ!」
予想以上に魔物の動きが速い。無理な体勢からは刀を突きだすのが精一杯で、とてつもない腕力で吹き飛ばされる。空中で一回転し、なんとか着地に成功した。
その瞬間、紅葉の全身を暖かい光が包み込んだ。両腕の痛みと、頬に負った火傷が消えたのが分かった。視界の隅に瞑目した少女の姿が映る。範囲効果の治癒魔法でも施したのだろう。感謝くらいはしてやらん事もない。
紅葉は手にした刀を一振りした。白い輝きがなお一層強まる。
「俺の本気、なめるなよ?」
紅い両眼をうっそりと細め、再び地面を蹴った。一瞬で魔物との距離を詰める。腹部に肉薄し、今度は力の限り刀を振り上げた。続いて右からの薙ぎ払い。連続的に、最も弱いであろう部位に攻撃を加える。その間、絶え間なく魔物の猛攻は続いていたが、紅葉はその全てを最低限の動きのみで避けきってみせた。
そして七発目の攻撃が命中する。その時。
「くっ!」
ぬかるんでいた地面に足を取られ、僅かに体勢を崩してしまった。渾身の振り下ろしは相手に届かず、がら空きの項が魔物の前に顕わになる。
「お兄ちゃんっ!」
刹那、そんな声と共に、小規模な稲妻が魔物を貫いた。雷属性の下位魔法だ。おかげで魔物の動きが鈍り、攻撃を間一髪で避ける事ができた。
魔物との距離を十分にとった紅葉は、すかさず今の魔法の発生元を振り返った。
「俺はお前の兄じゃねぇ!」
「今はどっちでもいいでしょそんな事!」
「ちっ……かわいくねぇ」
そう吐き捨てて、紅葉は睨んでくる少女から視線を外した。
(それに、お前の兄はもういねぇじゃねぇか)
それなのに、あの少女はいつまでたっても兄の背中を追い続けている。届かないと分かっていながらも、いないと分かっていながらも、手を伸ばし続けている。そんな無意味な事をして、馬鹿馬鹿しいにも程があるではないか。
「……それがどんなに辛い事か、お前はまだ知らないんだな……」
その呟きを耳ざとく聞きつけた白花が、何か言った? と尋ねてきたが、紅葉は何でもねぇとだけ返した。
ああ、苛々する。
俯いた紅葉の表情が、長い前髪によって隠された。静かな森に、魔物の唸り声だけが渦巻く。
とっとと終わらせようか。
小さく息を吐いた紅葉は、顔を上げて魔物の目を見据えた。怒りに染まった目を見るその表情は、凪いだ水面のようで、どこか物静かな印象だった。それは、彼の粗暴な性格からはかけ離れた、深淵の闇のような無表情。
刹那、紅葉が持つ刀の輝きが、白から紫紺へと変わった。ゆらゆらと揺らめくその光は、更なる魔力を求めるかのように蠢いている。その禍々しさに白花は息を呑んだ。
「怖いのか?」
紅葉は肩越しに声をかける。
「別に、そんな事……」
沈黙を肯定と捉えたのか、自嘲的な笑みを浮かべた紅葉は、自らの胸を押さえて言葉を続けた。
「じゃあ残念だったな。元々俺達は、こっち側の人間だ」
「俺達? 達って、誰のこと?」
その時。
『グォァァァァァ! グォァァァァァッ!』
二度、魔物の遠吠えが木々を震わせた。高らかに響き渡ったその絶叫に、紅葉以外の全員が耳を塞ぐ。やがて反響が消え、静けさだけが紅葉達を包み込んだ。
「……お喋りはここまでみたいだな」
「え……?」
風が吹いた。
白花は完全に忘れていた。
魔物は、あの一体だけではないという事を。




