第二話
「ところで、ここでの生活にはもう慣れましたか?」
鍛冶場へと届ける書簡を携えた敦基は、隣を歩く白髪の少女に視線を落としながら尋ねた。相変わらず頷きしか返ってこないが、長い前髪から覗くその顔は、心なしか穏やかになっているようにも思える。初めて彼女に出会った時は、そのどこか鬼気迫る雰囲気に身構えたものだ。
(そういえば、蛍さんの声をあまり聞いた事が無いような……)
彼女は多くを語らない、寡黙な性格なのだろう。寡黙と言えば、敦基の主であるあの少年もそれほど喋る方では無い。あの澄んだ美しい声をもっと聞きたいものだ。
年下の主の顔を思い浮かべた敦基の頬が、僅かに緩んだ。だがそれはすぐに引き締められる。
(たるんではだめだ! 私は、私の務めを果たさなければ!)
将来有望なあの方の、唯一のお付きとして、これからも精進していかなくてはならない。集中して仕事を全うするべきだ。そう両手を握り締め、胸を張った。
一瞬にして文官の顔に戻った敦基が歩くのは、屋敷から鍛冶場や練兵場へと続く道。幾人かの武官や文官達とすれ違いながら、今は森の中にある鍛冶場へと足を運んでいた。ちなみに、なぜ蛍が付いてきているのかというと、散歩がてら領内を見て回りたいという彼女の意向によるものだった。その表情からは窺い知れないが、存外楽しんでいるのかもしれない。
その時、数人の兵士らしき一団とすれ違った。
「あれは……」
足を止め、彼らが手にしていた書物の題名を口にする。
「……やさしい日記の書き方、上級編……」
敦基は知っている。あの書物が、その題名通りの内容では無い事を。あれは藤神家に秘密裏に伝わる、魔法についての書。いわば魔道書だ。魔導師に対する差別があるこの世界では、そういった類の書物は、決して表に出してはならないのだ。非魔導師である敦基には、持ち出すことすら許可されていない。
敦基の耳に、控えめな少女の声が届いた。
「今の……魔導師?」
「そうですよ。藤神家ならではの魔導師部隊です!」
興奮気味に返した敦基に、蛍は再び相槌だけを返した。すぐさま彼女は振り返り、砂地の道を歩き出してしまったため、その表情を見る事はできなかった。はっと我に返った敦基も、慌ててその長い白髪を追う。
鍛冶場がある森は、すぐ目の前だ。
「……そうですか、分かりました。ありがとうございます」
そう言って、敦基は深々とお辞儀した。道端の切り株に腰掛けていた蛍に声をかけ、もと来た道を歩き始める。
結局、鍛冶場の責任者である権兵衛の姿は、ここには無かった。彼自身に手渡すようにと言われたので、渡しておきますという若い職人の申し出を断って屋敷に戻る事にしたのだ。なんでも、棟梁自ら砂鉄を探しに行っているらしい。
「……ふぅ」
敦基は溜め息を吐いた。
高い位置にある太陽からは、相変わらずぎらついた陽光が照りつけてくる。いくら森を歩いているとはいえ、この暑さの中を往復するのは、やはりそれなりに厳しいものがあった。露出のほとんど無い文官の衣を纏っている敦基にいたっては、多少の運動をするだけでも、額や腕に汗が滲むほどだ。
敦基は隣の少女を見た。彼女が纏う、白を基調として、所々に切り込みや刺繍が施された衣に視線が吸い寄せられる。その無駄に凝った華やかな意匠の服は、驚く事に赤松様が直々にお作りになられたらしい。あのお方の多才ぶりには感服させられる。というより、逆にできない事が無いのではないかとさえ思ってしまうほどだ。
閑話休題。
色の薄い肌を隙間から覗かせている、その涼しげな衣を見て、敦基は内心羨ましさを感じた。だが、屋敷までもう少しの辛抱だと気を引き締めようとした、その時。
「…………え?」
突然、冷たい風が吹き抜けた。衣の中にこもった熱気が、次々と新しい空気と入れ替わる。汗で冷えた体には少し肌寒い気がしたが、しかしそれはすぐに、ちょうど良い温度に調整された。
気付けば、蛍が真っ直ぐに敦基の顔を見上げていた。
「暑かったんじゃないの?」
「あ、はい……そうですけど……」
状況が掴めていない敦基を、蛍は感情の見えない瞳で見据える。その無垢な視線に、自然のいたずらかと首を捻っていた敦基は、ようやく事の顛末に感づいた。もしかして、と少女の顔を食い入るように見つめる。
「今の、蛍さんが……?」
だが今度は、頷きすら返ってこなかった。彼女の履く草履の音だけが、淡々と先を進んでいく。またしても追う形となった敦基は、ありがとうございます、と彼女の背中に声をかけた。
もちろん、敦基は知らなかった。
この時、蛍の口元に浮かんだ、小さな笑みの事は。
とんとんという机で紙を揃える音が、静かな氷波の部屋に響いた。
揃えた料紙の端に開けた穴に、解けないようしっかりと組紐を通して結びつける。また別の資料で同じ事を繰り返し、一つの冊子としてまとめていく。
そんな作業を、一人蒸し暑い自室にこもった氷波は、昼過ぎからずっと続けていた。黙々とその仕事をこなしていたためか、一息ついた時には、いつの間にか文机の上に冊子の山がいくつも出来ていた。長時間同じ体勢で座っていたために固まってしまった体の筋をほぐし、氷波は腰を浮かせた。
「よっ……」
短い掛け声と共に一つの山を持ち上げ、入り口付近へと運ぶ。壁際の床にそれを置くと、とすん、と軽重のはっきりしない音を響かせた。
(よし……終わった)
とりあえず、今日中に済まさねばならない仕事はこれで終わりだ。文机の上に積まれたままの冊子は、実は明日の分の仕事である。明日は丸一日別の事に時間を費やしたかったので、その分を先取りして終わらせる必要があったのだ。
月半ばに差し掛かったこの時期、次の月の詳しい暦を書かなければならない。その大本は、どこかの高位の魔導師が占術を利用して書いているらしいが、それを大量に書き写すのが明日の仕事だった。本来なら、これは雑務を担当する文官──雑任という──のするべき仕事なのだが、その雑任が急病を患ったとかで、同じような仕事をしていた氷波にお鉢が回ってきたのだ。ちなみに普段の氷波の仕事は、金や武器などを始めとする財を管理し、それを記録として書物にまとめる事だ。
大きく伸びをして、氷波はその場に座り込んだ。
(ちょっと無理しすぎたかな……)
いくら慣れているとはいえ、少々根を詰めすぎたようだ。特に腰の部分が悲鳴を上げている。後で色葉に治癒魔法をかけてもらおう。
ただ、少しでも無理をしたおかげか、予想より早く仕事が終わった。これから何をしようかと氷波は思いを巡らせた──のだが、その時、一つの事を思い出した。
「そういえば、まだご飯食べてない」
思い立った氷波は、そのまま食堂へと足を進めた。
「……水望ちゃん?」
食堂に足を踏み入れると、そこには見知った後ろ姿があった。氷波の声に、その少女は振り返る。
「あれ? 氷波ちゃんも今から?」
「も、っていう事は、あなたもなんだ」
「そうだよー。もうお腹空いちゃってさー」
妙に間延びした、そんなやり取りを交わしながら、氷波は彼女の隣の席に着いた。「一人分追加で」と奥に声をかけると、「はいよー!」というやけに威勢のいい声が返ってきた。
そういえば、ここの厨房では、将来料理人を目指している若者を登用しているとか。何だかんだ言って、それなりに恵まれた環境だと氷波は思う。利用する側にしろ、利用される側にしろ。
その時、机に突っ伏していた水望が、顔だけを氷波に向けて話しかけた。
「でも珍しいね。氷波ちゃんがこの時間にここへ来るなんて」
「そうかな? 時々遅くなるし、この時間になる時も結構あるよ」
「え? 遅くなる? 少し早いくらいだと思うけど……」
「早いって、もう昼過ぎだよ。いつもはもっと遅いの?」
氷波の問いかけに、さも当たり前のような顔で水望は頷いた。彼女は氷波とは違い、野外での活動が多いはずだ。こんな時間まで昼餉を我慢できるはずが無い。
「…………水望ちゃん。これから何食べるの?」
「間食」
謎が解けた。
「氷波ちゃんもでしょ?」
「いや……私は今から昼餉なんだけど……」
「あー、そういう事ね。何だか会話がずれてる気がしたんだよ」
苦笑いを浮かべた水望に、氷波も同じような笑みを見せる。
ちょうどその時、先ほど返事が返ってきた方向から、炊き立ての白米の匂いが漂ってきた。運ばれてきたのは、予想通り出来立ての握り飯。個人的には、もう少し栄養のあるものを食べたかったのだが、運ばれてきたのだからこれを食べるしかない。それに、笹の葉の上で湯気を立てている丸いそれは、しっかりと氷波の食欲を湧きたたせた。
『いただきます』
二人同時に手を合わせた。瞑目し、米を作った人から握った人にまで感謝を捧げる。そして氷波は、二つ並んでいる握り飯のうち、梅が乗っている方を先に口に運んだ。梅の酸味で、口の中が瞬く間に唾液で一杯になる。よく噛んで、氷波は一口目を喉に通した。
空腹のおかげもあってか、そんなただの握り飯がとても美味しく感じた。
ふと隣に視線を送ると、水望はすでに二つ目の握り飯に手をつけていた。氷波の視線に気が付いたのか、頬一杯に白米を詰め込みながら、嬉しそうに両目を細めた。
「ほいひいへー」
「ちゃんと噛んでる?」
「ほひろん。ひゃんほはんへるほ」
「……せめて喋るか食べるかどっちかにして」
「…………」
(食べるほうに専念した……!)
よほどお腹が空いていたのだろう。幸せそうに握り飯を食べている。
やれやれと息を吐きながら、氷波は二口目を口に運んだ。
「こんな時間まで何してたの?」
二個の握り飯を完食した水望が、再び机に突っ伏して尋ねた。もしかして、少し疲れているのだろうか。
「ずっと仕事してたよ。水望ちゃんは?」
「私は色葉に魔法を教えてもらってたんだ。やっと水魔法が使えるようになったんだよ!」
「そ、そうなんだ。魔法の事は分からないけど……とりあえずおめでとう」
「えっへへ。ありがと」
なるほど。疲れている訳だ。だがしかし、氷波の胸の内には、それとは別の感想が去来していた。
氷波の顔に浮かんだ複雑そうな表情は、机に顔を埋めていた水望からは見えなかった。胸の奥から湧き上がってきた、形容しがたい何かを、氷波はもう一口齧った握り飯ごと飲み込む。
いつまで隠していればいいのかな。
この気持ちを。この思いを。この秘密を。私はいつまで、隠し通せばいいのだろう。
(いつまでもなんだろうな……きっと)
その時が来るまで。でも、その時は来ない。矛盾しているようで、正しくもある。この秘密を明かす時は、私が永遠に来させはしないから。この秘密に、期限などないのだ。
残りの握り飯を口の中に詰め込み、氷波は二つ目のそれを手に取った。
ようやく屋敷へと到着した。案内をしてくれた敦基に礼を言い、蛍はその足で自室へと向かった。魔法を使い続けた事で多少の疲れはあるものの、実際自分も暑さをしのぐ事ができたので、まあよしとしよう。
風と氷の複合魔法──暑さをしのいでいた魔法だ──を解除するかどうか迷いつつ、蛍は廊下を歩いていた。ちょうど食堂の前を通りかかった時、中から何やらいい匂いが漂ってきた。誰かが間食でも食べているのだろうか。これまでの経験上、この時間に食堂にいるのは、大抵が水望だった。今日も彼女だろう。
そう予想しながら、蛍は食堂の戸を開けた。
「あ……半分だけ当たってた」
「その声は蛍ちゃん?」
蛍の予想は半分当たっていた。だが、そこにはもう一人、氷波の姿もあった。机に顔を埋めていた水望が、ゆっくりと起き上がりながら蛍を振り返った。その隣で握り飯を食べている氷波も、視線を彼女と同じ方向に向ける。
「蛍ちゃんもお腹空いたのー?」
気だるげな言葉を投げてくる水望に、蛍は黙って首を横に振った。空腹ではないが、特にやる事も無いので同席する事にした。
一瞬どちらの席に着くか迷ったが、どこか暗い表情を浮かべているように見えた氷波とは反対の席に着いた。つまり水望の隣だ。眼にかかっていた前髪の一部を耳にかけ、何を話そうかと思慮を巡らせようとした。その瞬間、水望が口を開く。
「……全然関係ない話してもいい?」
「いいけど」
すると突然、蛍の長髪をかき分けるように、水望の手が首筋に触れた。蛍はその感触に身を震わせる。だが水望は、それに気付いていないのか蛍の背中で手を動かし続けた。
「な、何……?」
「いやぁ……髪の毛、綺麗だなって思って」
それで分かった。水望は蛍の髪を弄っているのだ。肩から力を抜き、しばらく彼女のさせたいようにさせておく。
「そういえばそうだね。色も雪みたいで綺麗だし、かわいいよ」
水望の向こうからそんな言葉が届いた。ちらと横目で見やると、いつも静かな少女の瞳に、僅かな興味の色が浮かんでいた。ちなみに彼女の手からは、いつの間にか握り飯は消えていた。
「……僕は、あまり好きじゃない……この髪は」
「なん──……そっか」
何で? と言いかけていたのは、聞き返すまでも無かった。同情でもしているのか、氷波の口元には優しげな笑みが浮かんでいた。これも彼女なりの配慮なのだろうが、蛍にとっては、それはそれで辛い。この髪を褒めてくれるのは嬉しいが、髪色のせいで苦労してきた事も、また事実なのだ。
そんな微妙な沈黙を破ったのは、水望の元気な声だった。
「じゃあさ、なんで髪伸ばしてるの? 私みたいにばっさりいっちゃえばいいじゃん」
すかさず氷波が反論する。
「髪は女の命だよ、水望ちゃん」
「そうだけどー。だって長くても邪魔なだけじゃん? 短い方が動きやす……って、蛍ちゃんっ?」
突然勢いよく立ち上がった蛍に、水望は言葉を中断した。どうかした? と氷波が口を開くよりも先に、蛍は何でもないと彼女を制した。のだが、明らかに蛍の顔は赤くなっていた。頬どころか、耳まで赤く染めている。それを指摘しても、何でもないと返すだけで取り合おうとしない。
にやりと笑った水望は、再びその場に座った蛍の頬を指でつついた。
「もしかして……誰かに『君のその髪が好きだ』とか言われちゃったのー?」
「そっ…………」
蛍はそれきり固まってしまった。冗談交じりだった水望の表情が、一気に凍りつく。
「え……ほんと、なの?」
まさかそんな反応が返ってくるとは思っていなかった水望は、助けを求めるような視線を反対側の氷波に向けた。だが、彼女は微笑むだけで何も言おうとしない。慌てた水望は、蛍の華奢な肩を揺さぶった。
「ほ、蛍ちゃん! その人だけじゃなくて、私もこの髪は大好きだよ! もちろん髪だけじゃなくて蛍ちゃんもっ! なんかこう、か、かわいいしっ? その、ほらっ、色葉と同じくらい!」
なおも意味不明な言葉を重ねようとした水望の耳朶を、静かな笑い声が撫でた。聞き慣れた氷波のものではない。彼女とはまた違った、どこか儚い笑い声。
口をぱくぱくさせた水望は、肩を震わせている蛍を見やった。
「……何言ってるか、自分でも分かってないよね、絶対。それに、何でそこで色葉が出てくるの」
口調はいつもとほとんど変わらないが、途切れ途切れに混じる笑い声は、年相応の少女のものだった。いくら落ち着いているように見えても、やはり、彼女は同年代の少女なのだ。
氷波と顔を見合わせた水望は、満面の笑みで蛍の小さな体を強く抱き寄せた。
「わっ……?」
「蛍ちゃん、やっと笑ってくれたね!」
ありったっけの力で蛍の体を抱きしめている水望の代わりに、同じように顔を綻ばせていた氷波が、水望の隣から顔を出しながら気持ちを代弁した。いや、彼女もおそらく同じ気持ちなのだろう。二つ並んだ顔は、どちらも心からの喜びに彩られていた。
笑わない奴だと思われていたのだろうか。それは心外だが、実際のところ、あまり笑顔は見せていなかったのだろう。言われてみればそんな気もする。
「僕だって、少しは──」
「ありゃ。おなごが抱き合ってなにしとるでさ? ……つか、おら邪魔しだべか?」
大いに邪魔されました、今。
折角いい雰囲気になりかけていたのに、無遠慮な侵入者のおかげでぶち壊しだ。
蛍は、心なしか鋭くなった視線で、その男を睨んだ。
「っ……?」
刹那。蛍の脳裏を、何かが掠めていった。それは相手も同じようで、山賊じみたその顔をさらに険しくさせていた。
名前も知らない──いや、名前は知っている。確か権兵衛という名のはずだ。鍛冶場を取り仕切る棟梁であり、最近藤神家に来たという、色んな方言が混ざった謎の言葉を話す男。蛍が知っているのはたったそれだけ。では、そんな面識の無い男性を相手に感じた、この違和感の正体はいったい。
「……おらの顔に何か付いとるけ?」
「いえ……。いやらしい目つき以外は何も」
「なっ! いやらしくなんかねえでさ! これは生まれつきじゃ!」
(自覚してたんだ……)
その大々的な宣言を聞いた水望と氷波の胸中に、ほぼ同時にこの言葉が思い浮かんだであろう。あえて口にしなかったのに。
「でも、見方を変えれば……かっこいいかも、ですよ」
その時、蛍は自らが発した言葉に耳を疑った。何も言う気はなかったのに、自然と口をついた慰めるような言葉。無意識に動いた唇からは、自分でも驚くほどはっきりとした言の葉が、呆けた表情を浮かべている権兵衛に向かって放たれていた。
蛍ははっと口元を手で押さえ、目を丸くする。
「え……僕、何言って……」
「おめ…………いい奴だなぁ」
そう言って、権兵衛はむせび泣くような声を上げながら、くるりと振り返って食堂を出て行った。いったい彼は何がしたかったのか。何か用件があったのではないのだろうか。
「あれ?」
そんな疑問に首を捻っていた蛍が目にしたのは、彼の後ろから現れた、もう一つの人影。水望と氷波も気が付いたようで、その小さな人影に声をかけようとした。だが、彼女達が発そうとした声は、音になる事は無かった。吐息の音だけが重なって、消える。
それほどまでに、彼の──色葉の顔は、青ざめていた。




