第十三話
自らを包み込む温もりに、意識がゆっくりと戻り始めた。
恐る恐る目を開くと、すぐそこに黒曜石のような色をした瞳を見つけた。長い睫毛に縁取られたその眼の中に、同じく漆黒の瞳が映り込んでいる。
「良かった。間に合って」
横たわった体勢のまま、自分を抱きしめている少女は言った。口元に浮かぶ安堵の微笑を、きょとんとした顔のまま見やる。
「…………え?」
状況が掴めない。
自分はつい今し方まで、絶体絶命の窮地に立たされていたはずだ。火属性の魔法が発動するのも感じた。それなのになぜ、自分は生きているのか。
その答えは、天を衝くような勢いで伸びる火柱にあった。
陽も暮れ落ち、暗がりが辺りを侵食し始めている。空も紅から藍へとその色を変えている。そんな空の真ん中で光を放つ火柱は、まさしく身に覚えのある魔力によるものだった。体をゆっくりと起こすと、煌々とした光に照らされた少女の姿が見える。
「色葉達を見つけられたのも、水望ちゃんのおかげなんだよ」
彼女の背中を見ながら氷波は言葉を続けた。水望の顔は反対側にあって見えないが、その後ろ姿からはやはり安堵のようなものが感じられる。きっと、彼女が魔力を辿ったからこそここまで来られたのだろう。そして上級の火属性魔法を発動してまで、彼女は魔物から自分を救った。氷波も決死の覚悟で魔法陣に飛び込んでくれたのだと思う。投げ出された足のすれすれで、いまだあの怪鳥が展開した魔法陣が赤く輝いていた。
つまりは、この二人に助けられたという事か。
「ありがとう、氷波」
色葉は微笑を湛えながら、氷波の顔に視線を戻した。炎に照らされているからか、その顔は少し赤いようにも見える。なぜかそそくさと視線を逸らされたが、どういたしましてという声だけははっきり聞こえた。
次第に意識がはっきりとしてきた。そこでようやく、自分が氷波の手を握ったままだという事に気付いた。いつの間にか無意識に繋いでしまっていたのだろう。なぜか申し訳なくなり慌ててその手を離した。
その手は、小刻みに震えていた。
それほどまでに自分は死というものが怖かったのか。明確な命の危険を目前にして、心の底から恐怖を感じていたのだろうか。いや、むしろそれが当然なのかもしれない。そのような感情が戻ってきた事を、素直に喜ぶべきなのではないだろうか。
温もりから離れた手を軽く握り、色葉は思考を振り払うように息を吸い込んだ。
その時、二人の耳に盛大な溜め息が聞こえてきた。
「とんだ邪魔が入ったな」
声の方向に視線を向けると、少し離れた場所に立っていたみすじが色葉と氷波を睨み据えていた。色葉は一瞬の内に気を引き締め、闇色の衣に包まれた彼女を注視する。
「だがまあ、貴重な情報は手に入ったからよしとするか。……ですよね?」
「そうだねっ」
みすじの不自然な問いかけに、その背後から応えるやけに楽しげな声があった。彼女の痩躯の向こう側。薄暗闇の中から、その闇に溶け込んだ小さな影がひょっこりと姿を現した。
「人間の感情は、時に己の能力をも凌駕する。まさか、人体に直接干渉が使えるなんてね。僕もびっくりしたよ」
思い出した。先月赴いたあの遺跡にいた、頭部をすっぽりと覆う服が特徴の子供だ。声も高く、顔も隠れているために、その性別は分からない。一人称が当てにならない事は、蛍ですでに実証済みだ。
そういえば、なぜあの二人は顔ーー特に上半分ーーを隠しているのだろうか。ただのお洒落という線もあるが、やはり何かしらの理由があるのだろう。組織の一員ならば、そのような無駄な事はしないはずだ。何か、素性を知られたくない理由でもあるのかもしれない。
「ここには来ないでくださいとあれほど申しましたのに。それでもいらしたあなたに私は驚きました」
そんな困ったようなみすじの声を完全に無視して、子供は言葉を続けた。
「生命を宿したものに干渉するには、それ相応の技術が必要だし、そもそも強靭な精神がなければ不可能だからね。君のその精神力には頭が上がらないよ。いや、君の感情に、かな?」
その時、力なく項垂れていた蛍が唐突に顔を上げた。
「その声……もしかして、あなたが……」
彼女の視線は、真っ直ぐその子供に注がれている。
「あなたが、『あかね』?」
「…………あかね? 人違いじゃない?」
僅かな沈黙の後、子供は口を開いた。被った布を口元まで手繰り寄せ、完全にその顔を隠す。
「僕の名前は夕。君が言うあかねって人は知らないし、会った事も無い。残念だったね」
「でも、その魔力は、確かにあの人の……」
「僕は彼とは違う」
重い響きが風を伝う。そう冷たく言い放って、夕と名乗った子供はくるりとみすじを振り返った。
「じゃ、僕達は先に帰るねっ。君達も早くしないと、ここを救えないよ?」
大きく手を振りながら、炎に照らされていた二人は姿を消した。相変わらず逃げ足だけは速い。
風と共に沈黙が訪れた。
「……あかね……」
再び顔を伏せた蛍は、小さく独り言を漏らす。長く垂れた白髪が彼女の顔に影を落とした。
もしかすると、その『あかね』という人物が、蛍の探している人なのかもしれない。ならば自分は、その人を探し出さなければならない。その人には、聞きたい事が山ほどあるのだ。
氷波と共に立ち上がった色葉は、蛍に歩み寄ろうとした。
その時。
「待って、色葉」
静かな声が届いた。水望の声だ。火柱を背に立っていた彼女の顔は、逆光になっていて全く見えない。すると突然、盛んに燃えていた火柱が衰え始め、火の粉をいくらか吐き出して消えた。星明りが、代わりに色葉達を照らし出す。
浮かび上がった水望の顔は、真剣そのものだった。
「水望……?」
色葉達を呼び止めた水望は、つかつかと足早に蛍へと歩み寄る。徐々にその足は速くなっていき、ついには走り出す形となった。
「だめっ!」
それを見た氷波は、色葉の傍らから同じように走り始めた。鬼気迫る表情を浮かべていた氷波に、色葉も慌ててその後を追う。
水望が持つ小太刀の煌きが、星の光を反射させた。
色葉は息を呑んだ。
咄嗟に腕を伸ばすが、その手が届くはずも無い。細い指の隙間から見えるその景色に色葉は目を見開いた。もう間に合わない。振り下ろされた水望の刀が、蛍の細い体に吸い込まれようとした。
「っ……!」
刹那、金属音が高らかに響き渡った。空を切った水望の刀は、氷波の刀にすれすれで止められている。蛍の白い首筋との間は、ほんの紙一重だった。
水望の目が驚愕に見開かれた。だがそれも束の間、今度は邪魔をした氷波を睨みつける。
その澄んだ音が消えた頃、水望は唸るような声を発した。
「何で止めるの。氷波ちゃん」
「……蛍は必ず守るって色葉が言ったの。例えそれが水望でも、蛍を傷つける事は私が許さない」
目を閉じた氷波の声音は、いつも以上に厳かで、冷たい印象だった。感情の欠片をも感じさせない、まるで氷海のような。だが、対する水望も引き下がろうとはしない。
「その色葉が殺されかけたんだよっ? 黙ってなんかいられない!」
「だからって、水望が蛍を傷つけていい理由にはならない」
再び甲高い音が響く。氷波が水望の刀を弾いたのだ。二人の鋭い視線が交差する。まさしく一触即発の状況だった。今にも打ち合いが始まりそうな、そんな予感さえ感じられた。
「二人とももういいよ。ありがとう」
そんな中、色葉が二人の間にやんわりと割り込んだ。微笑を浮かべながら水望と氷波の顔を見比べ、ゆっくりと息を吐く。
「元はと言えば俺が悪いんだ。俺がもっと強ければ、こんな事にはならなかった」
だから蛍は悪くない。と続けた色葉に、突然何かがぶつかった。少しよろめきながらも、色葉はそれをしっかりと抱きとめる。
「……ごめんなさい…………ごめんなさいっ」
謝罪の言葉を口にする蛍は、涙に濡れた顔を色葉の肩に押し付けた。僅かに困惑したような表情を零しながら、色葉は彼女の頭を優しく撫で始める。いつもいつも、かわいい妹にそうしているように。
(蛍は悪くないって言ってるのにな……)
あの状況下では、彼女がそのような行動に出ても誰も咎めはしない。むしろ悪いのは紅葉ーーもう一人の自分のせいだ。だから、もしあそこで殺されていても、自分は文句など言えない立場にいるのだ。もちろん、水望や氷波も悪くない。本当の責任の所在については……いや、やはりやめておこう。
ちらと水望の方を一瞥すると、彼女が小さく溜め息を吐きながら刀を収めているのが見えた。その顔には、いつもの可憐な表情が戻っている。氷波も優しげな瞳を湛え、蛍を見つめていた。
風が吹き抜けた。
「……そろそろ行くか」
小さな嗚咽を繰り返している蛍に囁く。すると、色葉の服を握り締めていた両手から力が抜け、顔を埋めながらも僅かに身じろいだのが分かった。目の前に広がる美しい白髪を撫で、色葉はさらに小声で言葉を紡ぐ。
「……君は、俺が必ず守るよ。だから心配しないで……」
最後にぽんと頭を軽く叩き、色葉は蛍の体を引き剥がした。彼女自身もごしごしと両目に溜まったものを拭い、大して変わらない高さにある色葉の眼を見つめた。
「…………分かった」
その呟きは、しっかりと色葉の耳朶に届いた。それを受けた色葉は、当代随一であろう満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「ーーお〜い!」
その時、遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。間延びしたような叫び声に続き、いくつかの足音がこだましている。
「道風! 陸!」
松明の灯りに照らされた二人の顔が見えた。その後ろには、数十人の見知らぬ武士達もいる。おそらく洲本城に仕える者達だろう。その先頭を走りながら、ぶんぶんと手にした松明を振る道風に、色葉も片手を上げて応じた。
「まったく。迎えに来るのが遅いんだから」
と水望が溜め息混じりに呟く。氷波は彼らに向かって歩き出しながら、苦笑いを浮かべて言葉を返した。
「まあまあそう言わずに。道風さん達だって大変だったんですから」
「そうだけどさー」
水望もその後に続く。先程までの殺気はどこへやら。もう二人は仲直りーーというのかは分からないーーしたのか、お互いに顔を見合わせて笑い合っていた。
(天使の笑顔が拝めたしね!)
二人の目がそう言っている。
当の色葉は、そんなに松明を振ると危ないぞなどと考えながら、二人の後ろを付いていこうとした。すると突然ぐいと服を引っ張られ、その場に引き止められた。
「どうかした? 蛍」
振り返ると、彼女は無言のままその白い手を差し出してきていた。やれやれと言った風に首をすくめながら、色葉はその手を取った。
今だけは仕方ないか。
くすりと笑い、色葉は蛍を引き連れて歩き始めた。
それにしても改めて思う。
自分は本当に変わったなと。そして、少しは強くなれたかなと。こうして、他人に対して笑えるようになったのだから。だからそう思ったのだ。
本当に、自分はずるくなった。




