紅い夕焼け
ーー逃げられると思うなよ、鬼の子。
そう言って、男は俺を部屋の中に押し入れた。足がもつれ、硬く冷たい床に倒れ込む。両手を封じられているので、肩からその床にぶつかった。
俺を突き飛ばした男は小さく鼻で笑うと、部屋からはみ出ていた足を蹴り入れ、扉を閉めた。重い音がせまく暗い部屋に響き渡る。鉄格子から僅かに見えるその顔を、俺はあらん限りの眼つきで睨んだ。無論、こんな視線など相手は気にも留めない。
その男が持つ灯篭の灯りが部屋の前から離れたのを確認して、俺は何とか上体を起こした。体中に走る鈍い痛みに顔を顰めながら、声を潜めて治癒魔法を詠唱する。
〈癒しの力よ、ファーストエイド〉
青白い光が部屋の中を照らした。ぼろぼろの服から覗く無数の傷が、その光を纏って塞がっていく。全ての傷が塞がるまで、それほど時間はかからなかった。
「……ふぅ」
疲労から溜め息が漏れる。俺は部屋の隅まで移動し、そこの壁に背中を預けた。恐ろしいほど冷たい平面の壁が、薄い布一枚を隔てて肌に吸い付く。今が夏場でよかった。もしも冬だったら、体温が根こそぎこの壁に奪われていた事だろう。
小さく身じろいだ俺は、かちゃりと響いた金属音に眉根を寄せた。
(……ほんと邪魔だな)
腕を少しでも動かす度に、両手首に填められた金属の枷がその存在を主張してくるのだ。右手と左手を繋いでいる鎖が音を立てる。間もなく一ヶ月が過ぎようとしているが、依然これには慣れる事は無い。もちろん慣れたくも無いが。
この鉄黒の枷は、身体の自由を奪っているだけでなく、魔法の発動をも抑制する代物らしい。試しに得意な雷属性の魔法を詠唱してみた時があるが、枷が薄く光っただけで何も変化は起こらなかった。ちなみに、先ほどの治癒魔法は唯一の例外である。その理由も俺を気遣っているのではなく、単に怪我の手当てをするのが面倒だというだけだろう。
俺は静かに目を閉じた。
何をどうしたってこの状況に変化は訪れないのだ。ならば、ただ一人思考を巡らせ続けるのも馬鹿らしい話ではないか。丁度今日は新月で、外からの光が全く無い。こんな夜は早く寝るに限る。
幸か不幸か、溜まりすぎた疲れのせいで、俺は泥のように眠る事ができた。
俺が八歳になった年の七月。無我夢中に強さだけを追い求めていた俺は、日々剣術や体術の稽古に勤しんでいた。その理由は一つ、己の弱さを克服するためだった。自分が弱いから、大切なものが消えていく。これ以上、もう何も失いたくはなかったのだ。
そんなある日。祖父が俺を屋敷の外へ誘った。曲がりなりにも武術の達人である祖父が、野外で稽古をつけてやるというのだ。俺はそれがとても嬉しくて、二つ返事でそれを了承した。仕事が残っているからと言った祖父に、それなら先に行って待っていると俺は笑った。
俺は屋敷から少し離れた森の入り口で祖父を待った。だがその祖父は一向にやって来なかった。きっと仕事とやらが長引いたのだろう。退屈になってきた俺は、すぐそこにあった木の幹に凭れかかる事にした。その日は心地よい陽気で、俺はそのまま無防備に眠り込んでしまった。
それが命取りだったのだ。
気付いた時にはすでに、俺は真っ暗な場所ーーとある舟の中だーーに閉じ込められていた。両腕に填められた枷も、この時からずっと付けられている。
そうして俺は、場所も分からない施設にずっと幽閉されていた。その期間、およそ一ヶ月。
舟から降りた事は確かなので、ここはどこかの島なのだろう。だがそれ以上の情報は無い。今いる場所がどこだか分からなければ、助けを呼ぶ事もままならない。
最初の頃は多少の心細さも感じていたが、最近ではそれも感じなくなった。
(こんなの、普通じゃないな)
立てた膝に顔を埋めた俺は、幾度と無く繰り返してきた言葉を自分にぶつけた。普通なら、この状況に泣き叫んだりするのではないだろうか。やはり助けを求めたりするのではないだろうか。
だが、それに返す言葉も、もはや決まっている。
「……じゃあ、普通って何だよ」
泣き叫ばず、助けを呼ぶ事を諦めた俺はやっぱり普通じゃない。しかし、そうして自分の弱さをさらけ出す事が普通なのだとしたら、俺はそんなもの、必要ない。
一人ごちた俺は、換気のために取り付けられた小窓を見上げた。そこから外の光が差し込んでおり、室内に漂う埃が照らされて光っている。残念ながらその窓にも鉄格子が存在し、逃げ出す事は不可能なのだが。
外の光が、やけに眩しく見えた。
俺は何もここに居たい訳じゃない。だからこそ、昨日もその前も逃げ出そうとしたのだ。
「稲妻よ、雷鳴を轟かせよ、ライトニング」
最近覚えた中級魔法の正規呪文を詠唱した。だが予想通り、手元が淡く光っただけで何も起こらない。その当たり前の結果に、俺は無性に腹が立った。
「くそっ!」
俺は凭れている壁とは別の、右側の壁に両腕を叩き付けた。正確には腕の枷をだ。虚しい音が響き、痛みだけが駆ける。壁にも枷にも、傷一つとして付かない。俺は部屋の角に頭を軽く打ちつけ、口元に小さな笑みを浮かべた。
(もう、笑うしかないじゃないか)
微かに声が漏れる。どこか引き攣った乾いた笑い声は、とても子供である自分から出ているものとは考えられなかった。それほどまでに、俺は普通じゃなかった。
その時。
「どうした? 随分とご立腹だな」
「……うるさい」
顔から表情が消えたのが自分でも分かった。声をかけてきた男には目もくれず、両膝を引き寄せてまた顔を埋めた。
「もう時間だぞ?」
施錠が解かれる音が聞こえ、扉が開いた。だが俺は沈黙を貫く。
無視し続ける俺に、男は苛立ちを壁にぶつけた。俺と同じ事するんだな。
「時間だぞ?」
先程よりも凄みを増したその声に、俺は仕方なく従った。これ以上無駄に治癒魔法で魔力を消費したくない。俺が立ち上がると、その男は嫌味なほどに優しい笑みを浮かべた。
「えらいぞー? そんなお前に朗報だ」
「……なに?」
「聞いて驚くなよ? ……今日で実験は終わりだ」
その言葉に、俺は奇しくも反応してしまった。顔を上げて男の顔を見ると、それは優しいを通り越して不気味な笑みになっていた。気持ち悪い、という率直な意見を唾と一緒に飲み込む。余計な事を言って、男の気分を損ねるのも癪だ。
「だがな……その分、とっておきのを用意しているからな」
逃げられると思うなよ、鬼の子。と続けた男に、俺は無言の重圧を浴びせかけた。それもこいつは気にも留めないのだが。
何を企んでいるのかは知らないが、俺は黙ってこの男に付いて行く事にした。
素足の裏に廊下が張り付く。歩を進める度にぺたぺたと音がする。なぜこんなにもここの壁や廊下は平面なのか。その平たい材質からは、温もりの欠片すら感じられない。何か履物か、もう少しましな服を着たかった。だが、こんな生活も今日で終わりなのだ。もう少しだけ我慢しよう。
妙な心境を抱えつつ、俺と男は無機質な造りの廊下を歩いた。
「この下だ」
廊下の突き当りまで進むと、そう言いながら男が目の前の扉を開けた。すると、真っ直ぐに下へ伸びている暗い階段が出現した。
(地下……?)
これまではずっと地上階での実験だったーーその最中の記憶はなぜか無いがーーはずだ。そもそも何の実験なのかが全く分からないが、ここから出られるのならもう何でも良かった。
物音一つしない静かな階段を下りる。ただでさえ薄暗い建物の中、さらに闇が濃いここではもはや何も見えなかった。壁に手をつきながら、一段一段ゆっくりと下りて行く。
暗闇に目が慣れ始めてきた頃、唐突に階段は終わった。
「ここだ。さぁ、入れ」
眼前の扉を開けた男が、部屋の中へと俺を誘う。言われるがまま俺は部屋に入った。
「…………俺も腹を括るか」
すると、驚く事にこの男も部屋に入ってきた。慣れた手つきで扉の鍵を閉め、がちゃがちゃと何度もそれを確認する。そして早足に俺の元へと歩いてきて、突然俺の肩を掴んだ。
「っ……!」
慌てて振り払おうとするが、より一層強い力で押さえ込まれる。不意に冷たい感触が背中にした。いつの間にか壁際にまで追い詰められている。息を詰まらせながらも、俺は必死に抵抗を続けた。
この男の突然の挙動に、俺は混乱を隠せなかった。これまでも数え切れないほど手は上げられたが、こうして壁に押し付けられるような事は無かった。それなのに、なぜ突然。
全身を強張らせながら、俺は男の顔を見上げた。
「そんなに怯えるなって。……それにしてもお前、意外と可愛い顔してやがんなぁ」
そっと頬を撫でられる。
心臓が跳ねた。
「何というか…………そそられる」
顎を持ち上げられ、顔を寄せられた。男の不気味な笑みが近づき、背中に悪寒が走る。全身から血の気が引く。
身の毛もよだつ恐怖の中、俺は無我夢中で男の胸を両手で突き放した。無理やり動かした関節が悲鳴を上げるが、今の俺はそれどころではなかった。
「なっ、にするんだっ……!」
喉の奥から絞り出すようにして声を発した。よろけて下がる男から距離を取り、腰を低くして戦闘体勢を整える。
「あぁ、悪い。ちょっと遊び過ぎたな」
そう言うと、男は懐から何かを取り出した。
「お前の顔をもう見れないと思うと、な」
俺は自分の目を疑った。
薄暗闇の中、小さく光るものが落ちていったのだ。その男の、眼から。
だから俺は、男が続けた「腕を貸せ」という言葉に素直に従った。大きな手が俺のそれを包み込む。何を始めるのかと思えば、男は懐から取り出した鍵で俺の両手の枷を外し始めた。
一ヶ月間、俺を束縛していた枷が、いとも簡単に外れた。するりと両手から落ちたそれが、足元で金属音を響かせる。
自由になった両手を、俺は呆然と見つめた。
「…………なんで」
「なんでだろうな……俺にも分からない。強いて言えば、こんな俺にもまだ情が残ってたって事か?」
男は右手を入り口の方へ向けた。次の瞬間、扉の取っ手に巻かれていた錠が、耳障りな音を立てながら砕け散った。彼も魔導師だ、おそらく魔法で破壊したのだろう。
「これでもう、お前を封じるものはあと一つだけだ。どこへでも逃げろ」
そう言って、その男は扉の前に立ちはだかった。警戒心を捨てきれないながらも、俺は男に敵意以外の視線を向ける。
「……お前は、お前達は何がしたいんだ?」
「組織は関係ない。俺はただ、魔導師が普通に暮らせる世界を創りたいだけだ。現にこうして命令に背いている」
俺は、この男が何を言いたいのか分かった気がした。だからこそ、男がなぜこんな行動に出たのか理解できなかった。
同じ目的を持っているのに、なぜ分かり合えないのか。
その答えは、まだ出そうにない。
「とっとと俺を殺して逃げろ! 鬼の子!」
男は叫んだ。
視界がぼやけて、その時の男の顔はよく見えなかった。自分がどんな顔をしているかも分からなかった。だが、身体の底から何か熱いものが込み上げてきた事だけは感じ取れた。自分と違うような、自分と同じ何かが。
「うわあああああぁぁぁ!」
そして俺は、その熱い感覚に身を投じた。
それからの事を、俺は全く覚えていない。
あの男がどうなったのかも、どうやって施設を抜け出したのかも。
その途中に、何人殺したのかも。
記憶に残っているのは、むせ返るような鉄の臭いと、血に汚れた両手。そして、美しい夕焼けだけだった。
海も空も地面も、自分自身でさえも、全部同じ色に染まっていた。
紅い、夕焼け色に。




