第五話
誰も、耳を傾けてくれなかった。
どれだけ叫んでも、どれだけ縋っても、自分を取り巻くものは何も変わらなかった。
もう、どうにもならなかったのだ。
火の爆ぜる音で、木の幹に腰掛けていた色葉は目を覚ました。ゆっくりと瞼を開き、辺りを見渡す。
「……危なかった……」
色葉は息を吐いて、目の前で小さく燃える焚き火に視線を戻した。
自分は今、夜盗や魔物が来ないように見張っている最中なのだ。人通りが少ない山中なので、全員が寝てしまうといつ襲われてもおかしくない。それなのに、危うく眠ってしまうところだった。気を引き締めないと。
随分と小さくなってしまった火に、脇に積んである小枝の一本を放り入れた。その赤い揺らめきが、その小枝を飲み込んで大きさを増す。音を立てながら散った火の粉は、暗闇の中を舞い、消えた。
色葉はふと空を見上げた。
満天とまではいかないが、浮かぶ雲の隙間から星空が顔を覗かせている。月は、残念ながら雲に隠れていて見えない。
その時、かさりという草を踏む音が聞こえてきた。
「……っ?」
色葉は一瞬背中の柄に手を伸ばしかけたが、焚き火に照らされたその顔を見てほっと胸を撫で下ろした。
「ごめん、驚かせちゃった?」
申し訳なさそうに瞳を伏せた氷波は、微笑を浮かべる色葉の隣に座り込んだ。冷たい風が動き、ほんの僅かに火が揺らめいた。
「そんな事無いよ」
顔だけを彼女に向けて答える。だがその笑みの裏で、色葉は首を傾げていた。
(何で気付かなかったんだろ)
寝起きとは言え、魔力で周囲の様子をずっと探っていたのだ。なのになぜ、彼女の魔力には反応しなかったのか。
(まあいいか)
考えても仕方がない。色葉は立てていた膝を伸ばし、空を仰いだ。
「何か用?」
「別に用が無くたっていいでしょ」
至極当然のように返された色葉は笑うしかない。
「そうだけど……ちゃんと寝ないと、体壊すよ」
言ってから、それは自分も一緒かと内心頭を掻いた。案の定、氷波は苦笑いを浮かべて自分を見ている。
また一本、色葉は小枝を放り入れた。
「みんなはもう寝た?」
「寝たよ。もうぐっすりと」
「そっか」
氷波も小枝を投げ入れる。そしてさらに一本手に取ったところで、その動きを止めた。
「…………あのさ」
焚き火に照らされた彼女の横顔を、色葉は黙したまま見やった。感情の読めない表情のまま、氷波は言葉を続けた。
「その力の事、嫌い?」
「っ……力って、何」
息を詰まらせた色葉は、平静を装いつつ聞き返した。だが、胸の内の動揺は隠し切れなかったようだ。氷波は小枝を握り締めたまま何も答えない。仕方ないとでも言うように、色葉は溜め息を吐いた。
「……別に、何とも思ってない」
「なんで?」
「だって……もう、どうにもならないし」
その瞬間、氷波は手にしていた小枝を色葉に投げつけた。だがそれは色葉の体すれすれで止まり、急激に軌道を変えて火の中に消えていった。
「ほら。何もしなくても、無意識に『干渉』しちゃうんだよ」
自嘲的な笑みを湛えた色葉は、灰に変わりつつあるその小枝を、無感情な瞳で見つめた。
魔導師は、この世界を構成しているマナに干渉する事ができる。マナとは、動物や植物、果ては空気まで、ありとあらゆるものを形作っているものだ。魔導師は、そのマナに『干渉』できる。つまり、世界の法則自体に手を加える事ができるという訳だ。
ただそれは、普通の魔導師にはできない。完全な『干渉』ができるのは、一握りの特別な魔導師だけだ。
「私、ちょっと話を聞いただけだから、よく分からないんだけど……」
誰に聞いたのかは言わないまま、氷波は言葉を続ける。
「特別な魔導師って、どんな人達の事なの?」
「俺が知ってるのは、藤神の人間と」
色葉は拳を握り締めた。
「……あいつらだけだ」
三年前に氷波を誘拐した、あの組織。色葉とその組織には、昔からの因縁が山ほどある。藤神家の者と彼らとの間に、いったいどのような共通点があるのかは知らないが、両者とも『干渉』の力を保持している。しいて言えば、どちらも当代随一を争うほどの魔導師達だというくらいだろうか。
「……なんで、俺はあいつらと同じ力を持ってるんだろ……」
口をついた言葉に、自然と力が入る。
「こんな力、俺は要らなかったのに……!」
その時、強く握り締めていた左手に、小さな温もりが触れた。それは、様々な過去の出来事のせいで凍てついてしまった心に寄り添うように、色葉の左手を優しく包み込んでいく。
「そんな事言わないで。それは……」
一瞬言葉に詰まった氷波は、もう一度微笑みを浮かべて色葉の顔を見やった。
「色葉の、強さの一つなんだから」
「俺の……強さ?」
氷波の言葉を反芻する色葉の顔には、困惑の表情が浮かんでいた。
強くあろう、強くあろうとは思ってきたが、この力が自分の強さだとは思った事が無かった。というより、思いたく無かった。なぜなら、それを認めてしまえば、また一つ人間というものから離れてしまうような気がしたからだ。
しかし氷波は、それを強さだと言う。
「だってそうでしょ? それは私にはできない。色葉にしかできないんだよ」
両手で色葉の右手を包み込んだ氷波は、満面の笑みを浮かべた。
「……分かったよ」
しぶしぶ色葉も微笑を返した。
だが色葉は思うのだ。
いくらこの力でみんなを守れても、あんな事によって得られた力は、絶対に認めたくない。
火の爆ぜる音が、また響いた。
「…………」
焚き火に照らされた二人の影から、水望は耐え切れなくなったかのように視線を逸らした。別に聞き耳を立てていた訳ではない。ただ、声が聞こえていただけだ。
彼女は静かに踵を返し、その場を後にした。
「……別に……」
別に逃げた訳ではない。ただ眠くなったからまた寝るだけだ。別に色葉に会いたかった訳ではない。ただ寝ずの番を代わろうと思っただけだ。
別に悲しくなんかない。ただーー
「…………ちょっと、寂しいかな……」
ほとんど音にならない声で、水望は呟いた。
氷波に諦めるなと言ったのは自分だ。なのに、何で今こんなにも寂しいと感じるのだろう。何で。
(……もう、分からないよ……)
寝床に戻る水望の足は、自然と速くなっていった。
夜が明けた。
小鳥のさえずる声が、朝の訪れを知らせてくれている。それ以外は、ほとんど無音といっても過言ではないほど静まり返っていた。
(静かな朝……)
木の幹に背中を預けていた色葉は、そっと視線を左に向けた。規則正しい呼吸を繰り返している氷波の寝顔が、自分の肩に寄りかかっているのが見える。
色葉は極力彼女を起こさないように、体重を自分から木の幹にかけさせた。しばらくその少女の寝顔を見つめてから音もなく立ち上がる。
「結界だけでも張っておこうかな」
そう思い立った色葉は、口の中で小さく詠唱して少女の周りに防御結界を張った。これで外から彼女の姿は見えない。身の安全は保障できただろう。さらに、彼女が起きれば自然と解けるようにもしておいた。色葉が戻るまでに起きたなら、一人で本来の寝床へと戻ってもらいたい。
色葉は小さく頷くと、空が白んできている方角に向かって歩き出した。確か、こっちの方向には沢があったはずだ。気分を切り替えるために顔でも洗いに行こう。
「……よし」
深く朝の空気を吸い込んで、色葉はその方向に歩き始めた。
木々の隙間から、水の音が微かに聞こえてきた。無論、滝などという大層なものがある訳ではなく、色葉の聴覚が魔力によって研ぎ澄まされているからこそ聞こえるのだ。
そんな心地よい音に混じって、人の話し声も聞こえてきた。
(……誰?)
こんな朝早くからーー自分も人の事は言えないがーーこんな場所に来るとは。物好きな人間もいるものだ。
沢が見えてきた。と同時に、その話し声の主の背中も視界に映る。短めに切られた少女の黒髪と、隣に座る少年の背中に担がれた弓を見て、それらが誰であるかすぐに分かった。
二人の背中が近づく。
草を踏む音が聞こえたのか、その二人はほぼ同時に振り返った。
「おはよう。早いね」
色葉の言葉に、水望は僅かに眼を輝かせた。だがそれはすぐに普段の表情に戻る。
「おはよ。ちょっと目が冴えちゃって」
挨拶を返した水望の隣で、陸は無言のまま小さく頭を下げた。
(二人がここにいるって事は、道風は今一人……)
唐突に脳裏に浮かんだその光景に、胸の内で僅かに苦笑いを浮かべた。恐らくこの二人は彼を置いてきた事を忘れているだろう。無論、道風自身もそうだと思う。
そんな取り留めもない事を思いながら、色葉は川べりに腰を下ろした。澄んだ流れに手を浸す。両手でその水をすくい、顔に打ち付けた。
「冷たっ……」
ぶんぶんと頭を大きく振り、その勢いで水滴を弾き飛ばす。
「今日はもう出発するのですか?」
背後から聞こえた、やけに落ち着いた陸の声音に色葉は頷いた。
「もうすぐで和泉の国だから。今日中には着きたい」
「堺かぁ……楽しみだね」
確かに、堺の町は天下の食所だ。船で運ばれてくる全国各地の特産品や、堺ならではの食事も魅力ではある。しかし、今回の旅は残念ながら物見遊山ではないのだ。
「……余裕があったら、またみんなで行きたいな」
息を吐いた色葉は、気持ちを切り替えるように両手を打ち鳴らした。
「じゃあ、二人は道風を起こしてきて。出発するよ」
「分かりました」
では、と陸は頭を下げた。水望もその後を付いて行く。
その瞬間、水望と目が合った。
垣間見えた彼女の瞳は、何か隠し事をしているように感じられた。すれ違いざまに見せた寂しげな表情は、すでに後ろ姿へと成り代わっている。
(……どうしたんだろ)
窺い知る事のできない彼女の顔を色葉はただ見送った。首を傾げた色葉には、その理由は全く分かっていない。
首を傾げるに留めた色葉は、そのままもと来た道を戻り始めた。
「白花様?」
自室で書物を読んでいると、戸を叩く音と共にそんな声が聞こえた。白花は慌てて周りを見回し、その人を招き入れても大丈夫だという事を確認してから、手にしていた書物を机に置いた。
「どうぞ」
短く部屋の外に言葉をかけ、失礼します、と続いた声の主を迎える。
「頼まれていたものをお持ちしました」
戸を開けた敦基は、抱えていた書物を文机の手前に座った白花に手渡した。それを受け取った白花は、文机に乗った書物の山から数冊の書物を取り出した。
「じゃあ、これもお願いしてもいいかな?」
「もちろんです!」
笑顔で答えた敦基に、それらを手渡した。
この書物は、兄や祖父の所有するものだ。兄達がいない間に、少しでも勉強をしたかったので拝借している。いつにも増して静かだった事を気遣ってくれたのか、兄付きの文官である敦基が手伝ってくれているのだ。
「でもすごいですね、白花様は。色葉様がいらっしゃらない間に勉強だなんて」
「……早く、お兄ちゃんに追いつきたいから」
そう呟いた白花は、左腕にはめた瑪瑙の腕飾りに視線を向けた。
「それは?」
「えっと……御守り、かな?」
舌を出して笑った白花に敦基も笑みを返す。
「大事になさってくださいね。色葉様のためにも」
そう言った敦基は、再び書物を抱えて立ち上がった。
「誰もお兄ちゃんのだなんて言ってないじゃん」
「違うのですか?」
「ち、違わないけど……」
何だか丸め込まれてしまった。たじろぐ白花に向かって敦基は礼儀正しく一礼し、部屋を後にしていった。
「もう……」
後に残された白花は、文机に積まれた料紙の束を眺めて息を吐いた。
「……私、頑張るからね……」
白花は何かを振り払うように首を振り、また書物を開いた。
馬に揺られる事数時間。
「ねぇ〜、まだ〜?」
すっかり乗馬に飽きてしまった道風が、まるで駄々っ子のように不満を零す。すると、その隣に並ぶ陸が後ろを振り返った。
「道風、少しは水望さんを見習え。ほら、あんなに……」
「…………寝てるねぇ」
手綱を握ったまま器用に舟を漕いでいる水望を、振り返った道風は羨望の眼差しで見やった。彼女の様子に陸も僅かばかり驚いている。
「あれは……すごいな」
「睡眠が足りてないんじゃない? 僕はぐっすり眠れたけどね〜」
「無神経なやつだ」
「豪胆って言って欲しいな〜」
そんな舌戦を背中に受けながら、氷波は苦笑いを浮かべた。
「もうすぐだよね?」
少し前を進む色葉に問いかけた。だが、返ってきたのは小さな微笑だけ。その反応に疑問を感じたまま、氷波は前方に視線を戻した。
「……あれ?」
その時、草原の彼方に小さな点が見えた。その数多くの点は、遠くなるほどに広がっていて、果てが全く分からない。
目を凝らすと、それら一つ一つの形がぼんやりと見えてきた。
氷波は目を見開いた。
「もしかして、あれが……」
「うん。あれが、堺の町だよ」
立ち並ぶ商家。大通りには露天売り。路地裏には多くの長屋がひしめき合っている。そんな沢山の人々の営みが、すぐそこにまで近づいていた。
ようやく辿り着いた町に心を躍らせる色葉達。だがその頭上では、徐々に雲行きが怪しくなり始めていた。
空模様も、彼らの旅路も。




