第四話
半球状の防御壁が完成した瞬間、氷の塊が四方から押し寄せた。轟音と共に、何本もの氷柱が壁を軋ませる。中心に立つ色葉は、魔法の威力に押されながらも何とか踏みとどまった。
だが、敵の魔法が思ったより強い。このままでは、壁がもたない。
「早く馬に!」
左手を掲げながら叫んだ色葉は、すっと小さく息を吸い込んでその手を薙ぎ払った。
押し寄せる氷を、防御壁もろとも自らの魔力で吹き飛ばす。色葉の髪が、服が、自身の膨大な魔力によって翻った。散ったマナの流れを読み、攻撃魔法の発生源を探す。
ーーいた。
背後に広がる林の中に二人いる。恐らくは氷属性の魔導師だ。
氷には、火。
〈灼熱の炎よ、塵一つ残さず灰燼と化せ! エクスプローション!〉
振り返りざま唱えた呪文は、周囲のマナを火属性へと転換させる。そして、巨大な氷柱に対抗するように、狭い範囲に凝縮された炎の柱が林の中央付近に立ち昇った。
「……外した?」
だが、敵の魔力反応が減らない。
「色葉!」
氷波の叫び声が耳に届いた。詮索は後にして色葉も馬に飛び乗る。手綱を手繰り寄せ、目一杯引き上げる。
刹那、木々の隙間から黒い影が飛び出してきた。
「走れっ!」
寸前でそれに気付き、色葉は叫んだ。黒い影が近づく。そして馬が走り出したのと、刀の煌きが視界に映ったのはほぼ同時。しかし、僅かな差で凶刃は空を切った。
駆ける馬の上で、色葉は首だけを巡らせて背後を窺った。
たった今奇襲をしかけてきた男と、次いで林から出てきた男がこちらを見ている。あの二人が、魔法を仕掛けてきた魔導師だろう。その二人の口元が、小さく動いていた。
「……っ!」
その口の動きを見た色葉は、右手で手綱を握り締め、上半身をよじって振り返った。
守ってばかりでは、この状況は変わらない。
〈火よ集え、ファイヤーボール!〉
立て続けに数個の火の玉を出現させた。燃え盛る灼熱の炎は、色葉の魔力によって空中にとどまる。
思ったとおり、彼らは先程と同じ魔法ーー中級氷属性魔法「アイシクルレイン」だーーを発動させた。人の体の何倍もあるような大きさの氷柱が、一直線に色葉達に襲い掛かってくる。
相手の魔法は、二人分の中級魔法。対する色葉は、たった一人の下級魔法。どう考えても、明らかに相手の方が上回っている。だがそれでも、色葉は顔色一つ変えなかった。
「俺の力、なめないでよね」
色葉が小さく微笑んだ、その瞬間。
爆音が数回、色葉の耳朶を叩いた。彼の魔力によって制御された火の玉が、的確に巨大な氷柱を打ち壊す。それらは無数の氷の破片となって、ぱらぱらと地面に落ちた。
最後の一本が、色葉目掛けて飛来してきた。
「はっ!」
彼はその氷柱に左の手のひらを向け、短い気合の声を上げた。瞬間、紙一重にまで迫ったその先端が脆く崩れ去った。最後の一本も細かい粒子となって、これまでのものと同様に消え去る。
魔法による攻撃を回避した色葉は、安堵の息を吐いた。
「よし、これでーー」
大丈夫だと続けようとした色葉だったが、視線を前に向けた途端、その表情を凍りつかせた。
前を駆けていたはずの馬がいない。乗馬していた氷波達もろとも、どこかへと消え失せていた。影すらも見当たらない。
「氷波? 水望っ?」
道風も陸も。慌てて辺りを見渡したが、どこにも見つけられなかった。
だがそこで、色葉は違和感を覚えた。ずっと駆けているはずなのに、周りの景色が全く変わっていない。それで理解した。
氷波達が消えたのではない。自分が消えたのだ。いつの間にか、自分は敵の結界の中に入り込んでいた。背後の敵に気をとられて気付かなかった事が歯がゆい。
色葉は馬を止めた。
「誰が、こんな……」
もう一度周囲を見渡したが、やはり誰もいない。この結界を張った人物さえ、どこかに身を隠しているようだった。ならば、敵は相当の強者だ。
その瞬間、脳裏を嫌な予感がよぎった。氷波達は無事だろうか。外で襲われていないだろうか。自分の身の心配よりも、彼女達の方を真っ先に心配してしまう。だがそれは、彼女達を信用していないのではなく、自らの不安の裏返しだという事も分かっている。
だからこそ、ここから早く脱出しなければ。
(マナの流れを、読む……!)
大きく息を吐いた色葉は、静かに目を閉じた。この際、もはや五感は当てにならないだろう。ならば頼れるものは二つ。自らの魔力と、ここに存在するマナだけだ。
意識を集中させる。一見すると何も無いが、不自然なマナの流れがどこかにあるはずだ。それを、探す。
(あった……!)
色葉は心の中で笑みを浮かべた。今自分が立っているちょうど前方。二十歩程離れた場所に、身を隠している誰かがいる。その正体を暴こうと、深い呼吸を三回ほど繰り返した、その時。
大仰な溜め息と共に、舌打ちが口から漏れた。
「ーーやっぱりお前か」
突然、色葉の語気が変わった。立ち昇る魔力が冴え冴えとしたものに変化する。冷ややかな顔に浮かぶのは、侮蔑の表情。
もう一度深い溜め息を吐き、彼は目を見開いた。
「今すぐ消えろ!」
鋭い叫びと共に、色葉ーー紅葉は地面を蹴った。一瞬にして抜刀し、何も見えない空間に向かって刀を突き出す。まるで、そこに何かが見えているかのように。
刹那、空気が動いた。
続く乾いた金属音。青白い火花が散る。衝撃が腕を伝わり、全身を駆け巡った。
突如姿を現した漆黒の影は、僅かに覗く口元を凶悪に歪ませた。
「それは無理な相談だな」
「黙れっ!」
両足に力を込めて必死に踏ん張る。何が何でも、この女にだけは負けたくない。彼の細腕からは考えられないような力で、紅葉は彼女の刀を貫き通そうとする。
「久方ぶりの再会を喜ぼうではないか、鬼の子よ」
相変わらずの嫌味な口調に、紅葉はその瞳の輝きを強めた。怒気を孕んだ、紅蓮の輝き。だがそれを見て、その女ーーみすじは小さく笑った。
「お前のその眼は、本当にきれいだな」
紅葉は無言のまま、顔を隠しているみすじを睨みつける。だがその口元に浮かんでいる笑みを見て、さっと背後に跳んだ。
「……誰のせいだよ」
低く吐き出された声は、地面を這うようにして響いた。
紅葉のこの紅い瞳は、この女を忌み嫌う理由の一つだ。絶対に自分が息の根を止めると誓った、唯一の相手。そう誓った原因の一つだ。
だがみすじは、そんな紅葉の声を聞いて高らかに笑った。
「愚問だな。お前自身のせいだろう?」
紅葉の胸の中で、何かが弾けた。
うっすらと微笑を浮かべ、みすじに向ける表情を和らげる。右手に持った刀を一振りすると、背中の鞘に収めた。静かに目を閉じ、ゆっくりと口を開いた。
「お前と言葉を交わしていると、反吐が出るよ」
笑顔のまま言い切った紅葉は、すっと右手を掲げた。
「だから……消えろ」
鬼の力。
今こそ、その醜い力を使う時だ。ここには誰もいない。ならば、この力を使ってもーー
「馬鹿が」
みすじがそう吐き捨てた。その瞬間、意識が暗転した。
最後に感じたのは、頭をかち割る程に響いた、耳鳴りだった。
「よし、これで大丈夫」
最初に聞こえてきたのは、そんな自分の声だった。上下に揺れる視界の中、五頭の馬が全速力で駆けているのが見える。
「でも念のため、ここからもう少し離れましょう」
「じゃあ急ぐよっ!」
冷静な氷波の声。元気な水望の声。重なる蹄の音。
それら全てが、何事も無かったかのように聞こえてくる。ちらと背後を振り返ると、最初に襲ってきた魔導師達が撤退していくのが見えた。彼らは何かの魔法を唱えーー恐らく転移魔法だーーその場から姿を消した。
(……え?)
訳が分からず、振り落とされそうな勢いの馬にしがみ付く。
(……元に、戻った……?)
信じられないような面持ちのまま、色葉は顔を前に向けた。やはり、そこには変わらず四人の背中が見える。
(戻ってきたんだ……)
僅かな疑問は残るものの、色葉はようやく安堵の笑みを浮かべる事ができた。何はともあれ、あの結界から脱出する事ができたのだ。あの女がどうなったのかは覚えていないが、いないという事は、自分が『あの力』を使って退けたのだろう。
速度を上げた水望に続き、色葉は列の最後尾を駆けた。
今あった事に、特に意味は無いのだ。そう自分を信じ込ませて、色葉は風を切った。
屋敷の中は、しんと静まり返っていた。
いつの間にか静かなまま時が流れ、太陽はすでに真南を少し過ぎていた。
裏庭で一人たそがれていた白花は、何もせずに時間を過ごしていた自分に小さく笑った。
「……だめだね、私」
無気力そうな瞳で見つめていた雲から視線を外し、裏庭に生えた紫陽花の花に目を向けた。
つい昨日の、まさにこの場所であった事を、今でも鮮明に思い出せる。あの時の気持ちは、いまだ心にくすぶったままだ。
白花は大きく首を振った。
「部屋戻ろっと」
何かしていなければ、様々な思いが込み上げてきそうだった。とりあえず、部屋の整理でもしよう。最近片付けていないので、書物や服がその辺に散らかっているのだ。とても他人に見せられたものではない。
頬を叩いた白花は、自室に向かって歩き出した。
「……あれ?」
自室に入った途端、白花は小さな異変に気が付いた。部屋の隅にとりあえず積んでおいた書物の山も、脱ぎっぱなしの衣服もそのままだ。だが、やはり何かが違う。
首を傾げる白花の視線は、文机の上に置いてあった物に吸い寄せられた。なにこれ、と呟きながら、その黒く光る小石を拾い上げた。
黒にほんの少し紅色を混ぜたような色。表面はつるつるしていて、完全な球体ではないがよく磨かれている事が分かった。上部に穴が開けられていて、藍色の紐が輪を作っていた。何の石かは分からなかったが、白花の目にはとても綺麗に映った。
「……っと」
そしてもう一つ。小さな紙切れも置いてあった。何気なしにその紙を見やる。
その瞬間、白花は息を呑んだ。
そこには、兄の字でこう書かれていた。
『もう少しだけ待ってて』
手にした小石に視線を移した白花は、囁くような声で呟いた。
「……分かったよ……」
しっかりとそれを握り締め、彼女は小さな微笑みを浮かべた。
「さすがにここまで来れば……」
辺りを見回した水望は、緊張した面持ちのまま言った。その言葉に続くように、いつの間にか前から二番目にまで追い上げていた色葉が頷いた。徐々に速度を落としていった一行は、やがてまたゆっくりとした歩調に戻る。
ようやく息を吐いた道風が、大きく伸びをしながら笑みを浮かべた。
「随分と進んだね〜」
「ここはもう摂津ですか?」
「多分そうじゃないかな」
背後から聞こえてきた陸の声に、色葉は振り返らずに答えた。
はっきりとした事は言えないが、何と言うか、空気が違う気がする。少なくとも山城国からはかなり離れたように感じた。
その時。
不思議な音が控えめに響いた。
沈黙が流れる。
「……ぐぅ〜?」
その音を的確に表現にした道風に色葉達の視線が集まった。それらの視線を受けて自らを指差した彼は、何度も首を左右に振る。そんな中、唯一顔を伏せていた氷波が声を上げた。
「そ、その……今の、私です……」
顔を真っ赤にして言った氷波の声に、再び同じような音が重なった。
「えへへ〜、今度は僕だよ〜」
臆面なく言ってのけた道風は、満面の笑みを湛えて色葉を見やった。その色葉は、腹の虫が鳴った二人に向かって苦笑いを浮かべた。
「お腹、空いたね」
そういえば、先程は昼食にしようとしたところで襲撃に遭ったのだ。
「お昼にしようか」
「やったぁ〜!」
こうして色葉達は、二度目の昼食をとる事にしたのだった。
最初の目的地である堺まで、もうあと少し。思わぬ事態にも遭遇したが、旅程自体は順調に進んでいる。これからの心配など、色葉達は微塵もしていなかった。
だが、彼らの目的地は淡路なのだ。
彼らの旅は、まだまだ続く。




