第一話
他人との繋がりを欲するのは、人間として当然の事だ。自分というものが、弱く、脆いものだと自覚しているからこそ、他人の温もりを欲するのだ。
しかし、もしそれが逆だったならば、人間とは本当に他人を欲するのだろうか。
ーー6月
しとしとと降り続く、雨。
梅雨なのだから仕方ないとは思うのだが、やはり毎日これだけ雨が続くと気が滅入ってくる。だが色葉は、そんな景色にも情緒があると自分を信じ込ませて、ここ数日を何とか過ごしてきた。しかしそれもそろそろ限界だ。
「お日様が恋しい……」
自室の前の縁側にちょこんと座った彼は、曇天が広がる空を見上げて呟いた。
その時。
「ーーあぁぁーーーもうっ!!」
突如として、誰かの大音響の叫びが屋敷を震わせた。庭に咲く紫陽花の花が、その絶叫に驚いたかのように雨粒を滴らせた。
「…………はぁ」
色葉は溜め息を吐いた。これでは情緒も何も無いではないか。
苦笑いを浮かべて立ち上がり、大きく伸びをして、声が聞こえた方へと歩き始めた。
「……はっ……はっ……」
大量の湿気を含んだ蓑を纏いながら、小さな箱を背負った使者はひたすらに走っている。
つい先程、ようやく山城国に入った。もう間もなく目的地ーー藤神家の屋敷に辿りつくはずだ。逸る心を押さえつけ、一歩一歩着実に足を動かす。
「……はっ……はっ……」
ぬかるんだ街道の中、使者は走り続ける。新たなる場所へと彼らを誘う、一通の文を持って。
「どうかしたの? 水望」
鬱憤を晴らすような叫びが聞こえた裏庭へと行くと、そこには庭に足を向け、仰向けに寝転がった水望の姿があった。
「あ、色葉ー……」
首だけを巡らせて応えた水望の顔は、どこか疲労困憊しているような雰囲気をかもし出していた。その様子に再び苦笑いを浮かべた色葉は、廊下の壁に背中を預けて彼女を見やる。
「元気ないね」
「だって、ずっと雨降ってるし……外で思いっきり動きたい!」
水望の言葉に心から同意した色葉は、一度頷いてから視線を空に向けた。
そして一言。
「じゃあ、雨止ませる?」
その瞬間、沈黙が二人を包んだ。
何の躊躇いもない、まるで近所の人に挨拶をするような口調で、色葉はそんな事を言い放った。それを受けた水望は、ただただ唖然とするしかない。
「…………色葉?」
「何?」
「……あ、あははっ。い、色葉が冗談言うなんて、珍しいね。やっぱり雨が続いてるから……」
水望は何を勘違いしたのか、何とかその場を取り繕おうと、乾いた笑みを浮かべながらその発言を受け流そうとした。だが色葉は、きょとんとした顔のまま彼女を見つめ返す。
色葉の無垢な視線に、水望は目を瞠った。
「…………ほんとに?」
「疲れるから、あまり使いたくないんだけど」
水望の困惑は放っておいて、色葉は雨の降り続く庭へと降りた。
一瞬の内に、まだらな模様が色葉の服に姿を現し始めた。漆黒の髪が雨粒に濡れていく。張り付いた服のせいで、華奢な体の線がくっきりと視認できた。
色葉は息を吐き、意識を集中させる。静かに瞑目した彼は、両手を胸の前で合わせた。
そして、その手を勢いよく打ち鳴らした。乾いた音が辺りに響き渡る。拍手を打った音は、幾重にも重なって共鳴した。
その余韻が消えようとした、その時。
突然、色葉の背中が藍色に光った。彼の体から立ち昇った魔力が、龍の如く渦を巻いて空へ駆け上がる。降りしきる雨の隙間を縫うように、藍色の龍は雲の間へと消えていった。
「…………成功」
ぽつりと呟いた色葉は、その場に力なく座り込んだ。
「見てて」
疲弊した表情を水望へと向け、色葉は小さく笑った。その瞬間、絶え間なく降り続いていた雨が、止み始めた。
「……すごい……」
水望は呆然と呟いた。そしてはっと我に返り、慌てて庭に出た。まだ雨の匂いは残っているが、空からは徐々に雲が消え始めている。青い空が顔を覗かせ始めている。
「……っ」
雲の隙間から差し込んできた眩しい光に、水望は片手をかざした。久方ぶりの陽光が、二人の体を優しく照らす。
「これも魔法の応用なんだよ。水属性と風属性の複合魔法」
心なしか得意げに言った色葉の顔を、水望はいつもに増して真剣な眼差しで見やった。
突如として降りかかった沈黙に、色葉は困惑したような表情を浮かべる。
「……な、何?」
「ねえ色葉、お願いがあるんだけど」
言いながら彼の手を取った水望は、その黒曜石のような輝きを持つ瞳を見つめた。
「私に、水属性の魔法を教えて! ううん、水属性じゃなくていい、何でもいいから!」
「いいけど……なんで突然?」
色葉の言葉の前半部分で喜びを弾けさせた水望は、聞こえなかった後半部分の問いかけに気付き、僅かに頬を染めた。
「……わ、私だって、火属性以外の魔法も使いたいし!」
「何で慌ててるの?」
「慌ててなんかないよ!」
ぶんぶんと大きく首を振って、水望は自らの手に視線を下ろした。すると、またしても火がついたかのように顔を赤らめ、色葉の手からそれを離した。
なぜ水望がこんなにも赤くなっているのか、その理由が全く分かっていない色葉は、純粋無垢な表情を浮かべて首を傾げた。
「でも、水望ならきっとできるよ」
しかしすぐに小さな笑顔を取り戻した色葉は、自信満々に頷いた。その言葉に、今度は水望が不思議そうな表情を浮かべる。
「なんで?」
「水望って、水に望むって書くでしょ? 水望は水に望まれてるんだよ、きっと」
言い聞かせるような口調で色葉は言い切った。水望はその顔に多少の苦笑いを混ぜる。だが大きく首を振って、その表情を吹き飛ばした。
「とにかく、私に魔法を教えてくれるんだよね!」
身を乗り出して詰め寄った水望に、色葉は大きく頷いた。
「俺の時間が空いてる時しか無理だけど……それでもいいなら」
「やった! ありがとっ!」
喜色を満面に湛えた水望は、色葉と一緒に立ち上がった。素足の裏についた湿気を含んだ土を払い落とし、縁側に上がる。
その時。
「あれ? 雨が止んでる〜」
ちょうど廊下の奥から、相変わらずの能天気な声が聞こえてきた。瞬間、水望の表情が穏やかなものから普段のそれへと戻った。元気一杯な顔立ちはそのままなのだが、色葉以外と顔を合わせる時は、ほんの僅かに表情が硬くなる。という事を、色葉は最近発見した。
「道風、仕事は?」
「そりゃ無いよ水望ちゃ〜ん……僕と会ってすぐに仕事の話なんて〜」
案の定仕事の話を持ちかけた水望に、道風はその柔和な顔を渋くした。
「今はちょっとだけ休憩中だよ〜」
「ふーん、ならいいや」
あっさり納得してくれた水望に、道風はほうと安堵の息を吐いた。そして彼は、ふと思い立ったかのように顔を上げた。
「そうだ。さっき二人とも何の話してたの〜?」
「ああ、俺が水望にーー」
「そんな事いいから! ほら、道風は仕事に戻って!」
唐突に色葉の言葉を遮った水望は、大げさな手振りで道風を追い返そうとし始めた。
「え〜っ? 今休憩中なんだけど〜」
だが道風も話の内容が気になるのかーーというより、仕事に戻りたくないのだろうーー全く引き下がらない。
「それに、さっきはいいって言ってくれたじゃんか〜」
「さっきはっ……その、さっきだよ! ほら、早く!」
なぜか突然慌てだした水望と、どうしても休憩時間を引き延ばしたい道風の戦いを、色葉は一歩後ろへと下がって眺めた。その顔には、どこか呆れたような苦笑いが浮かんでいる。だがその笑みが、ほんの僅かに沈んだ。
(二人とも、仲いいな……)
自分が、この間に入り込めないような気がしたのだ。どこか疎外感のようなものを感じる。無論、二人がどうのという訳ではない。自分が勝手にそう思っているだけだ。
色葉は二人に悟られないよう、そっとその場を後にしようとした、その時。
「ーーどなたかいらっしゃいませんかー!」
屋敷の外から、門を叩く音と共に男性の声が聞こえてきた。色葉の目の前で押し合いをしていた水望と道風が、同時にその動きを止める。
「僕行ってくるよ〜」
意外にも道風が機敏な反応を見せ、真っ先に屋敷の正門へと向かっていった。
振り上げていた両手を下ろしながら、水望は彼の背を見送った。そして背後の色葉を振り返った彼女は、怪訝そうに眉根を寄せる。
「色葉、どうしたの?」
「何が?」
「……ううん。なんでもない」
平然と返した色葉に、水望は口を閉ざした。
静かな空気が、二人の間に漂った。
屋根の庇から滴る雨粒が、差し込む光を煌かせながら地面に消える。自然に存在する風属性のマナが巻き起こすそよ風が、空気中に残っている雨の気配を彼方へと押し流していく。庭に出来た水溜まりが、その風に煽られてさざ波を立てた。
その様子を眺めていた色葉の耳に、水望の息を呑む音が届いた。
「……あのさ、色葉…………私達、ずっと一緒だよね……?」
水望の顔には、どこか不安げな色が混じっていた。そんな彼女を見やった色葉は、優しい微笑を浮かべながら答える。
「当たり前でしょ。なんで?」
「…………」
沈黙を返す水望に、色葉はゆっくりと歩み寄った。自分よりも少し高い位置にある彼女の顔に視線を向ける。
「大丈夫。俺だって、誰とも離れたくない。もちろん、水望ともね」
「誰もそんな事言ってないじゃん」
ふて腐れたような言葉を吐き出し、水望は色葉から顔を背けた。そんな彼女の反応に、色葉は苦笑いを浮かべるしかない。
「そうだね。ごめん」
「謝らないでよ……もう」
完全に色葉に背を向けた水望の口元には、少し照れたような、小さな笑みが浮かんでいた。
ぴちゃんと音を立てて、再び雨粒が滴り落ちる。波を広げたその水溜まりには、光り輝く太陽が映っていた。
「ーーどなたか!」
張り上げられているその声からは、どこか焦りのようなものが感じられた。閉じられている門へと駆け寄った道風は、鍵の代わりとしてはめてある板を外し、両開きの扉を引いた。
「なんでしょう?」
「小姓の方ですかっ?」
全身濡れ鼠の男性は、道風の姿を見るなり勢い込んでそう言った。
「え……あ、はい。そうです」
男性の言葉を一瞬疑問に思ったが、今は帯剣していないーーそういえば机仕事の途中だったーーという事に気付き、自然な笑みを浮かべて頷いた。説明するのも面倒くさいので、男性の言う通り小姓という事にしておこう。
「藤神家の長に、赤松様にお渡しください!」
開いた門の隙間から、男性が差し出している小箱を受け取った。軽い。中身は文か何かだろうか。上下に振ると、かさりという僅かな音が聞こえた。
「承りました。確かに」
お願いしますと頭を下げる男性に、道風は満面の笑みを浮かべた。急いでいるようだったので、挨拶もそこそこに門を閉める。
重い音が静かに響いた。
「……ま、いいか」
門が完全に閉じられた瞬間、道風の顔から表情が消えた。だがそんな呟きと同時に、再び笑みが戻る。
男性から受け取った全く濡れていない小箱を胸に抱え、道風は赤松の部屋へと走り出した。
「失礼します」
目の前の戸を叩き、道風は中にいるであろう老人に声をかけた。そういえば、自分からこの戸を叩くのは久しぶりな気がする。
「入れ」
すると中から、少ししゃがれてはいるものの元気な声が聞こえてきた。この部屋の主である赤松だ。道風は戸を開け、自分の主の主である老人の部屋へと足を踏み入れた。
赤松は、道風の姿を見るやいなや不適な笑みを湛えた。
「雨、止んだのう」
「そうですね〜。気持ちよかったですよ〜」
ずっと部屋の中にいた道風でも、仕事中に雨音が消えたのが分かったのだ。ならば同じく部屋にいた赤松にも分かるはずだ。と道風は思ったのだが、どうやら理由は違うらしい。
「まったく。大層な事をしでかしおってからに……」
魔力が切れたらどうすると続ける赤松に、道風は何かを悟った気がした。
(色葉だね〜)
その一言で全てを片付けた道風は、慌てて今しがた受け取った小箱を懐から出した。
「赤松様にだそうです」
「わしに? 誰からじゃ」
小箱を渡そうとした道風は、あっと一声あげてその動きを止めた。
「……聞いてなかったです〜」
だらしなく笑う道風に、赤松は深い溜め息を吐いた。
「まあよいわ。中身を見れば分かるじゃろ」
そう言いながら、赤松は木で出来た小箱の蓋を開けた。やはりその中には、一通の文が入っていた。それを手に取った赤松は、表情を変えないまま文面に目を通した。
「これを届けに来た人、何だか急いでる感じでしたけど〜?」
だが赤松は何も答えない。
「赤松様?」
全く感情の読めない老爺の顔をちらりと窺う。そして道風は、ほんの僅かに目を瞠った。
いつだたか、こんな表情を見た事がある気がする。誰のものなのか、どこで見たのかは憶えていないが、確かにどこかでーー
「……道風」
「はい?」
唐突に名前を呼ばれた道風は、素直に返事を返した。
「色葉達を集めろ。今すぐにじゃ」
いつもより厳しく言い放った赤松の目には、何とも言えない光が宿っていた。
「旅の支度をせい」
旅。道風の耳には、なぜかその言葉がはっきりと残った。何かを隠している。そんな気がしてならなかったのだ。
彼らは思い知る事になる。
いくら同じ人間でも、彼らの間には、一枚の大きな壁があるという事を。繋がりを求めるには、少し大きすぎる壁が。
だがそれを乗り越えてこそ、真の繋がりを得る事ができると、彼らは信じている。
心から、信じていた。




