第二話
山城国の遥か西方、大坂の町よりもさらに遠くにある島。それが、淡路。
「これでよしっと」
息を吐いた色葉は、部屋の小窓を閉めて壁に寄りかかった。着崩していた単の襟を引っ張り、露出させていた肌を隠す。そしてずるずるとその場に座り込んだ。
風属性の魔法で、部屋の中に溜まった湿気を追い出していたのだ。しばらくここへは戻ってこられないので、書物が傷まないように結界も張っておいた。やりすぎだと笑われそうだが、これぐらいしておかないと気が済まないのだ。
部屋の中央には、長旅に備えて簡単な食料や衣服が詰め込まれた麻袋が置いてある。それともう一つ、いつも身に着けている大きな日本刀。
(荷物、これだけでいいのかな)
突然旅の支度をしろと言われても、何をどうすればいいのか分からない。色葉は長旅どころか、山城国を出た事すらないのだ。
「……氷波……」
なぜか無性に不安になった色葉は、ふと脳裏に浮かんだ彼女の部屋へ行く事に決めた。
外はもう暗い。
空を見上げる色葉の体は、ぼんやりとした月明かりに照らされていた。
例の文が屋敷に届いたのが昼過ぎだ。それから様々な話し合いなどをしていたら、どっぷりと陽が暮れてしまった。色葉の部屋からは宵の明星を見る事ができないが、恐らく反対側の空には煌々と姿を現しているだろう。
夜空に瞬く星も久しぶりだ。色葉の雨除けの魔法が効いているのか、自然に雲が無くなっているのかは分からないが、依然として空には雲ひとつ無い。
(ちょっとやりすぎたかな?)
天候を変化させる魔法は、かなりの危険と隣り合わせだ。雷を呼び寄せたら運悪く木に当たって山火事に発展したり、そよ風を起こそうとして竜巻を発生させてしまったり、果ては雨乞いで大水害なんて事もざらに聞く。自然の摂理に手を出すには、それ相当の技術が必要なのだ。だから、生半可な魔導師にはこれらの魔法を使う事は許されていない。しかしながら、そんな暗黙の掟を守る者の方が少ない事も事実だ。だから、いつまで経っても魔導師への差別は消えないのだ。
(……大した実力も無いくせに……)
険悪になりかけた自分の思考を、大きく息を吸う事で胸の奥へと押しやった。
「よし!」
頬を数回叩いた色葉は、氷波の部屋へと歩き出した。
すぐそばを流れる水の音が、優しく耳朶を撫でていく。川を遡上してきたそよ風が、少し伸びてきた前髪をさらさらと揺らす。おぼろげな月明かりが、小波の立つ水面に反射して光っている。
川原に寝そべった水望は、徐々に姿を現し始めた星達を眺めながら、とめどなく流れる気持ちに思いを馳せていた。
「ーーしばらくお別れだね。お母さん」
先程の自分の言葉が、鮮やかに脳裏に蘇る。母の墓に見立てた石に向けた言葉だ。永遠の別れという訳でもないし、そもそも母はここにはいない。なのに、なぜか胸の奥から込み上げるものがあったのだ。
(……何で今さら……)
折角あの事を考えないようにしていたのに、ある少年のせいで思い出してしまった。ずっと隠し通していたのに。誰にも、自分にすらも。
「……責任、とってよね」
苦笑いを含みながら水望が呟いた、その時。
「水望さん?」
落ち着いた少年の声が、川の音と混ざって聞こえてきた。草を踏む音が徐々に近づいてくる。
「どうしたんですか? こんな所で」
川上のほうから、大きな槍を手にした陸が歩いてきた。視界の隅に映り込んだ彼の顔は、心なしか曇っているように見える。
「……どうもしてないよ」
そう言いながら寝返りを打って、水望はその心配そうな表情から顔を背けた。自分が今どんな顔をしているのか、見なくても想像がついたからだ。こんな顔、誰にも見られたくない。
そんな自分の気持ちを隠すように、水望は何でもないような口調で尋ねた。
「陸こそ、何でここに来たの?」
「私は野外演習の帰りです。散歩がてら、川沿いを歩いてきたんですよ」
小さく微笑んだ陸は、背中を向ける水望の隣に腰掛けた。
「ここ、きれいですね」
しみじみと言った陸に、水望は無言のまま頷いた。
二人の間に流れる、静かな空気。自らの呼吸音と、鼓動の音がはっきりと聞こえてくる。そういえば、前にも同じような事があったのを思い出した。あの時も、色葉が今の陸と同じ場所でーー
ちらと陸の方を振り返った途端、彼が慌てて視線を逸らしたのが見えた。その様子を不審に思った水望は、ゆっくりと上半身を起こした。
「……なに?」
「な、何でもありません」
珍しく歯切れの悪い陸に、水望は大きな溜め息を吐いた。腰に手を当ててじっと陸を睨みつける。
「もうっ、男ならはっきりする!」
張りのある水望の声が辺りに響き渡った。すると突然、当の本人は表情を緩ませた。水望の顔を真っ直ぐに見つめ、小さく笑う。
「だからなに?」
「いえ……ただ、すごくきれいな声だと思いまして」
「な……っ」
滅多に見ることの無い笑みを浮かべる陸に、水望は言葉を続ける事ができない。
「凛としていて、堂々としていて、私を真っ向から叱ってくれる。混じり気の無い、とてもきれいな声です」
ゆっくりとした口振りで言い切った陸は、傍らに置いていた長槍を手にして立ち上がった。
「私、好きですよ。水望さんみたいな人」
表情を普段の落ち着いたものに戻し、陸は頭を下げて屋敷へと歩いていった。
一人残された水望は、再び仰向けに寝転がった。
「…………だからなんなの……もう」
額に手を当てて、もう一度星空を見上げた。その顔には、小さな笑みが浮かんでいた。
その頃白花は、屋敷の裏庭で一人佇んでいた。
「……はぁ……」
その可愛らしい容姿に似つかわしくない、深い溜め息が漏れた。そんな彼女の髪を、穏やかな夜風がすっと撫でていく。月光に照らされた彼女の背中が、心に巣食う不安を表すかのように震えた。
「お兄ちゃん……」
唇の隙間から、吐息と共に微かな声が漏れ出た。
いつの日か、兄と離れ離れになってしまうのではないかと思った時があった。何か嫌な予感のようなものを感じ、それをそのまま兄に相談した。心配ないと言ってくれたのは心強かったが、それでもその不安は拭いきれなかった。
それが今、現実のものとなってしまったのだ。
「…………え?」
長い間降り続いていた雨が止み、青空が広がり始めた。そんな中、久しぶりに自室の外で休んでいた白花の耳に、兄の口からとんでもない言葉が届いた。
「だから、しばらく会えなくなるんだよ、俺達」
一瞬、大好きな兄が何を言っているのか分からなかった。
「……な、なんで?」
「こっちの仕事も沢山あるし、例の最終調整も白花に頼むって」
心から申し訳なさそうな表情をする兄を見て、白花はようやくその言葉の意味が分かった。
自分の顔がさっと青ざめたのが感じられた。
「大丈夫だよ。そんなにかかる旅じゃないと思うし、すぐにーー」
「嫌だよっ!」
そう叫びながら、もたれかかっていた木の根元から立ち上がる。そして、この半年で僅かに高くなった兄の瞳に視線を合わせた。
「だって、お兄ちゃんがいなかったら、私……っ!」
言葉が続かない。
「…………ごめん……」
兄の消え入るような謝罪の言葉が聞こえた瞬間、白花は心の中に渦巻いた気持ちを飲み下し、彼とは反対の方向へ走り出した。
それからしばらくして、白花は自分の部屋に戻った。やがて頭が冷えた白花は、ついさっき裏庭へと出てきたのだ。その間、兄とは一度も顔を合わせていない。
「……はぁ……」
もう何度目かも分からない溜め息を吐いた、その時。
「あれ? 白花ちゃんだ〜」
「……道風、さん?」
首を巡らせて彼を振り返った白花は、沈んだ面持ちのまま道風の名前を呼んだ。
「なにその嫌そうな顔〜。僕、傷ついちゃうよ〜」
「とか言ってるけど、全然気にしてないよね」
からからと笑う道風は、「それもそうだ」と頭を掻きながら白花の隣へと並んだ。
「で? どうしたの?」
そして座り込んだ彼は、優しげな微笑を湛えて白花を見やる。何でも包み込んでしまいそうなその視線に、白花はまた溜め息を吐いた。しかしそれは、先程までのそれよりも幾分か軽かった。
「…………なんで道風さんには話せちゃうんだろ……私」
遠くを見透かすように目を細めた白花は、きょとんとする道風と同じように座り込んだ。
「もう、一人でも頑張らなきゃいけないのかな……」
それは、彼女の心からの呟きだった。
自分は兄が大好きだ。生まれてからずっと一緒だったし、不甲斐ない自分をいつも助けてくれた。だが、対する自分はいつも迷惑ばかりかけている。兄だって大変な事くらい分かっているのに。それなのに自分は、いつまで経っても兄のそばから離れられない。
夜空を見上げる白花の横顔を視界の隅に捉えながら、彼女の呟きの意味を理解した道風は返答を返した。
「……そんな事、白花ちゃんはまだ気にしなくてもいいんじゃない? まだ九歳なんだし」
「そう言う道風さんだって、まだ十一でしょ」
「それもそうだけどさ〜。二年の差って意外と大きいんだよ」
何かを悟ったような口調の道風に向かって、白花は呆れた笑いを浮かべた。そして、「分かった」という言葉と共に目を瞠った。
「道風さん、お兄ちゃんと似てるんだ」
「うぇっ?」
突然の事に、道風は素っ頓狂な声を上げる。だがすぐに一声唸ると、ぽんと手を叩いた。
「ん〜、でも嬉しいかな」
普段のだらしなさが微塵も感じられない、落ち着いた笑みを彼は浮かべた。その笑顔になぜか気恥ずかしくなった白花は、慌てて視線を逸らした。
「べ、別にほめてないですっ!」
でも、と白花は心の中で続ける。
嫌いじゃないですよ、道風さんのこと。
「氷波、起きてる?」
部屋の中に声をかけると、返事の代わりに何かをぶつけたような物音が聞こえた。続く慌しい足音。そして勢いよく戸が開き、隙間から氷波が顔を覗かせた。
「何っ?」
「……大丈夫?」
苦笑いを浮かべながら問いかけると、氷波は小さく頷いた。彼女は驚きの素早さで部屋から出ると、後ろ手でぴしゃりと戸を閉めた。何事も無かったかのように息を整え、真っ直ぐに色葉を見やる。
「で、私に何か用?」
「別に用って訳じゃないけど、話がしたいなって思って。……ちょっと不安でさ」
そう言って、色葉はどこか遠い目をした。
「……白花にも嫌われちゃったし」
「白花ちゃんに?」
壁に背中を預けた色葉は、うんと今にも消えてしまいそうな声で答えた。
「……俺が悪いんだ。白花のそばにいてやれない、俺が」
握り締められた手の平が、僅かに震えている。無力な自分に対する怒りが込み上げてくる。
その時、色葉の右手にあたたかな温もりが触れた。
「誰も、色葉の事を嫌いになんかならないよ」
優しげな声に顔を上げると、すぐ隣に自らと同じようにもたれかかった氷波の姿があった。視線を前に向けたまま、左手をそっと色葉の手に添わせている。
「だって、かっこいいもん、色葉」
「……かっこいい?」
その新鮮な響きに、色葉は怪訝そうな表情を浮かべた。だが氷波は彼の疑問には答えず、ただ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ーー全部、知ってるんだから」
「ふむ……星がざわつき始めたか」
自室の中、一人瞑目していた赤松はそう呟くと、文机の上に置いてある文を一瞥した。この一通の文のせいで、全てが一斉に動き始めたのだ。具体的には、色葉達を淡路へと向かわせる事となった。
その内容はたった一つ。
ーー助けてくれ。
淡路の国を治める三好長慶から、赤松に宛ててしたためられた文だ。ちなみにこの二人は、旧知の間柄である。
「まったく……わしらとて忙しいんじゃ」
赤松は、傍らに置いてあった木箱ーー文が入っていた箱だーーを手に取り、無造作に文をその中に入れた。ぐしゃぐしゃのまま詰め込まれたその紙は、箱ごと背後にある棚に放り込まれた。
扱いが雑なのには理由がある。
この文がもたらしたのは、大きな変化だ。時に変化は必要かもしれないが、赤松にはその変化が不満だった。自分の知らないところで何かが動く事が、まったくもって気に食わないのだ。
ぶつぶつと文句を垂らしながら、赤松は部屋の外へ出た。いつも手にしている扇を広げながら、満天の星空を仰ぎ見る。
「ならばわしの手で……」
瞬く星々の下、赤松は小さく呟いた。
変化を、もたらしてやろう。
彼らの行く先は、淡路。




