あの日
白花は唇を噛み締めた。
「──あっち行け!」
「──人間さまに近よるな!」
大通りから一本中に入った、通行人が行き交う少し広めの広場。そこで白花を取り囲むようにして広がる、知らない子供達がいた。罵声を浴びせる子供、石を投げる子供、ただその様子を見ている子供。その全てが、知らない子供達だ。でも相手は、白花が魔導師だという事を知っている。
(何で……?)
道に落ちている小石を投げてくる子供の一人が、白花の顔をぎっと睨んだ。視線がかち合って身動きが取れなくなる。
「いたっ!」
ついに、男の子が投げた小石が額に当たった。鈍い痛みが広がる。そこを手で触れてみると、ぬるっとした感触が手のひらに伝わってきた。そこがどうなっているのかは、見なくても分かる。
すると、白花を取り巻く子供達はさらに騒ぎ始めた。
「──わぁ! 化け物の血だっ!」
「──きたなーい!」
その声を聞きつけたのか、その向こうから通りすがりの大人が近寄ってくるのが見えた。最初は子供のけんかだと思ったのだろうが、白花の姿を見た瞬間、その表情が醜く歪んだ。
最悪だ。
大人がこの状況を見て発する言葉は、ただ一つ。
「──危ないから、その魔導師から離れなさい!」
白花は唇を噛み締めた。
何で? 私が何かしたの? 魔法が使えるからって、何でこんな事されるの?
……全部、私が悪いの?
その時、白花の腕を誰かが掴んだ。その手はしっかりと白花をつかまえると、無理やりに白花の体を引っ張った。急激な体勢の変化に目が眩む。
気付けば広い道に出ていた。二人はその道を走り、逃げる。途中、通行人と衝突しそうになったが、前を走る人にぶつかったので白花には誰も当たらない。
その人は何も言わずに街道をひた走った。後ろの方で怒号らしきものが聞こえた気がしたが、自分の耳にはもう何も届かない。
景色が飛ぶように流れていく中、自分の鼓動と、呼吸音だけがはっきりと聞こえた。それ以外の感覚が、全て自分の腕を引く温もりに集まる。
腕を引く小さな背が、白花にはとても大きく、頼もしく見えた。
「はぁ……はぁ……」
久しぶりに息を切らせるほど走った。真冬の冷たい空気に触れた吐息が、目の前に白い霧を作り出す。自らの呼吸が落ち着くのを待ってから、目の前で同じく荒い息を継ぐ少女──妹の白花を見やった。
「大丈夫? 白花」
「うん…………ありがとう、お兄ちゃん」
白花は気丈に振舞おうと、無理やり元気な笑みを顔に浮かべる。だがそんな白花の心情を、七歳の色葉が簡単に理解できるはずが無かった。妹とは対照的に表情を険しくし、語気を強める。
「だから勝手に出歩くなって、何度も言っただろ!」
「でも……」
「でもじゃない! お兄ちゃんがどれだけ心配したと──」
色葉はそこで言葉を切った。神妙な顔をしている白花の目に、一杯の涙が溜まっていたからだ。
「だって……お兄ちゃんに、これ……あげようと思って」
そう言って差し出した手のひらには、強く握り締められてつぶれてしまった、小さな花があった。その小さな花を見つめながら、白花は言葉を続ける。
「お兄ちゃん、さいきん……剣術のけいことか、大変そうだったから……」
「白花……」
色葉はうな垂れた妹の頭に手を乗せ、ありがとうと囁いた。だがまた表情を険しくして──先程よりは何倍も優しい──白花の顔を覗くためにしゃがみ込んだ。
そして色葉は、妹のきれいな額に出来た傷を見て目を瞠った。すぐに治癒魔法を唱え、その傷を塞ぐ。青白い光が完全になくなるのを確認して、色葉は再び話し始めた。
「でも、一人で勝手に屋敷を出て、またさっきみたいにいじめられたら、嫌だよね」
涙を堪えながら白花は頷く。それを見て色葉は表情を和らげた。
「だったら、今度からはお兄ちゃんも呼んで。俺がいやなら、氷波もいるから。あんなやつら、すぐに追っ払ってやる」
「……わかった」
「よし、いい子だ」
妹の頭をぐしゃぐしゃと撫で回し、色葉は立ち上がった。妹の手を取り、そっと微笑む。
「もう日も暮れるし、帰ろうか」
元気一杯に頷いた妹の手を、色葉は優しく握った。そして、屋敷への道を歩き始める。
その二人を見ている人影があった事に、色葉は全く気付かないまま屋敷へと歩いた。なぜこの時気付かなかったのかと、後にひどく後悔するとは知らずに。
視界が橙色に染まっている。夕焼けが空を、雲を、地面をきれいな橙に染めている。色葉と白花の姿が、地面に長い影を落としている。つないでいる二人の手まで、その影はくっきりと描き出していた。
嫌な予感など、欠片も無かった。
その時、屋敷の方向から走ってくる一人の少女が見えた。
「──色葉ー! 白花ちゃーん!」
「あっ、氷波ちゃんだ」
走る少女を指差すその顔に、もう涙は見られない。色葉は安堵して、今度は向かってきている氷波を見やった。
「色葉ーっ!」
(何であんなに叫んでるんだろ)
氷波の慌てようを疑問に思った色葉だが、その彼女が近づくにつれてその理由が分かった。憔悴した表情を浮かべた氷波は、何度も色葉の背後を指差している。
「後ろっ、後ろっ!」
色葉は言われるがままに背後を振り返った。
瞬間、視界に飛び込んできた景色に絶句する。色葉は息を呑んだ。
「お兄ちゃん!」
白花の声に誘われるように、色葉は全力で地面を蹴り、跳んだ。白花の体をしっかりと抱き寄せて地面との間に滑り込む。色葉の子供とは思えない身体能力が、二人の体を前方へ飛ばす。
時間の流れが、やけにゆっくりと感じられた。視線だけを足の方へと向け、迫り来る脅威をその眼に映す。
無数の小さな球体が、流星の如く二人が立っていた場所をえぐり取る。その黒い球体が土を巻き上げ、いくつもの穴が地面に穿たれる。くるくると回転するその弾は、明らかに人工的に切断されたような断面だった。そんな黒い脅威が、列を成して一直線に飛来する。
「いっ……!」
そこで色葉の体は地面に打ち付けられた。衝撃に息が詰まる。視界が揺れる。
だが襲い来る脅威は待ってはくれない。
「氷波! 白花を!」
自分に覆いかぶさる妹の体を氷波に押しやり、色葉は横に転がりながら立ち上がった。またしても飛来した球体がその地面をえぐる。
立ち上がりざま、色葉は流れるような手さばきで抜刀する。背中の鞘から抜き払ったそれを、黒い球体を発射していた大きな影に向けた。
「っ……?」
色葉は目を見開いた。
その影は、言葉通り実体を持たない、真っ黒な闇のようだった。ゆらゆらと揺らめくそれに、危険を知らせるけたたましい警鐘が脳裏に鳴り響いた。
「走って!」
背後に叫びながら、色葉は白花達とは反対の方向に跳んだ。何が何でも、正体不明の敵の注意を自分に向けなければ。
〈火よ集え、ファイヤーボール!〉
早口に呪文を詠唱し、周囲のマナを火属性に変換する。刹那の内に火の玉が形成され、その影へと飛んでいった。
だが色葉が放った火の玉は、その深淵の闇に吸い込まれ、跡形も無く消えた。歯噛みする猶予もなく球体が足元を襲撃する。
「危ない!」
氷波の声が耳に突き刺さった。瞬間、色葉は自らの勘を頼りに首を左に傾ける。一拍置いて、乾いた音が右のこめかみを掠った。鋭い衝撃が響く。
色葉は目を見開いた。
これでは手出しができない。こいつを止められない。白花と氷波を──守れない。
その時、胸の奥で何かが蠢いた。身の内を焼くような熱が湧き上がる。感情が、衝動が、意識が、抑えきれない程に高まる。
瞼の裏に浮かんだ、誰かの面影。それが誰のものだったか、もはや思い出せない。だがそれは、もう一人の自分を眠りから覚ますには充分だった。
何かが、心を呑み込んだ。
「──屑は引っ込んでろ!」
色葉はその幼い風貌からは想像もつかないような言葉を放った。
見開く眼は真紅に染まり、炎のように揺らめいている。その瞳が、眼前の闇を見据えた。
「へえ、これが。……目障りだな」
腰を落とし、地面を蹴った。瞬く間に間を詰めて、こちらの空間と闇の境界すれすれに右手をかざす。
その手のひらの中心から、強大な魔力が渦を巻き始めた。闇と対極に位置する光を、その一点に集中させる。
「俺の前から、今すぐ消えろ!」
荒々しい気勢とは裏腹な笑みを口元に浮かべ、その光を思い切り闇に打ち込んだ。瞬間、断末魔のような雑音が周囲に響き渡った。
ぼろぼろと崩れ落ちていくそれを、色葉は無感動な目で眺めた。そして何かを呟いたかと思うと、色葉はその場に力なく倒れ込んだ。
「お兄ちゃん!」
遠くの物陰から見守っていた白花が、その様子を見て飛び出した。氷波も慌てて後に続く。
「色葉! しっかり!」
倒れた色葉に駆け寄り、氷波は彼を抱き起こした。すると色葉は、うっすらと目を開いた。その眼の色は、漆黒。
「……あれ……? 今の……」
「お兄ちゃんっ、もう大丈夫だよ!」
緊張の糸が切れたのか、白花の頬には一粒の雫が流れていた。色葉はその妹の頭を撫でようとして、一瞬だけ顔をしかめる。だが何事も無かったかのように表情を戻した。
「そっか……白花、おじい様を呼んできて」
「わかった!」
元気に返事を返し、白花は屋敷へと走っていった。
遠ざかる妹の背を横目で見ながら、色葉は溜め息を吐いた。その可憐な顔に似つかわしくない溜め息に、氷波は表情を曇らせる。
「色葉、本当に大丈夫?」
「ごめん……大丈夫じゃ、ない」
自嘲的な笑みを浮かべた色葉は、視線を巡らせて彼女の顔を見上げた。氷波の顔を見て、安心したように目を閉じる。
「何だか疲れた。すごく」
「……ねえ、さっきのって、もしかし──」
続く氷波の言葉は、突如響いた爆音にかき消された。だがそれを感じる暇もなく吹き飛ばされた色葉の意識は、真っ暗な闇へと落ちていった。
霞む視界の中で、色葉は信じられないものを見た。
「氷波……?」
夕焼けは、こんなにも紅かっただろうか。冬の夕焼けは、本当に血のように見える。そんな景色の中、二つの人影が重なって見えた。痺れる身体を懸命に動かし、その人影に視線を向ける。そして、次第に鮮明になっていく光景に、色葉は目を見開いた。
「氷波!」
「い、ろは……」
真っ赤に染まる空の下、氷波の細首に伸ばされる、一対の腕。その腕を伸ばしているのは、頭を覆う布が特徴的な小柄な子供だった。その子供が、氷波の首をぎりぎりと締め上げている。
「ようやくお目覚めみたいだね」
何が楽しいのか分からないが、底なしの明るさを持つ声音の子供を、色葉はぎっと睨んだ。
「その手をはなせ!」
「仕方ないなー」
そう言うと、子供はあっさり氷波を解放した。ようやくまともな呼吸が戻った氷波は、激しく咳き込んでその場に崩れ落ちる。そんな彼女に駆け寄ろうとした色葉だが、いまだ動かない体に喘ぎ声を漏らした。先の爆発で、どこかの骨を折ってしまったのかもしれない。
「氷波! ひなみっ!」
色葉は、必死に彼女の名前を呼ぶ事しかできなかった。たったそれだけしか出来ない自分に腹が立つ。
「氷波は、俺が絶対に守るから! だから、だから……っ!」
あまりの腹立たしさに涙を零す色葉を見て、布を被った子供は小さな笑みを浮かべた。
「どうする? 君がそこまで言う彼、あんなに君の事を想ってるよ。それでもいいの?」
子供の問いかけに、氷波は何も返さない、答えない。だがそれは、肯定の意とも取れる。その問いの意味は分からないが、この命に代えても、氷波だけは守らなければならない。
「……分かった。僕はもう何も聞かないよ」
子供は指を鳴らした。
瞬間、先程と同じような闇が、子供の背後に出現した。どこまでも続く、深淵の闇。その漆黒を前に、子供は氷波の腕を掴んで無理やりに立たせた。
「やめ……ろ」
何をするのか。何が起こるのか。色葉には全く分からない。だが口は、無意識に言葉を紡いでいた。
「やめろ…………返せ、氷波を返せっ!」
「うるさいなー、さっきから同じ事ばっかり。……そうだ! 君も一緒に来る?」
氷波の腕を掴んだまま、子供はにこやかに言う。
「そしたら、返すも何もなくなるでしょ?」
「嫌だ! 氷波を返せ!」
頑なに叫ぶ色葉に、子供は大仰な溜め息を吐いた。すると纏う雰囲気を一変させ、氷波から手を離した。彼女をその場に立たせたまま、色葉の元へと歩み寄る。
「じゃあ黙って。耳障りだし」
色葉の傍らにしゃがみ込んだ子供は、懐から何かを取り出した。そして、手にしたそれを無言のまま振り上げ──
「っ、ああああぁぁぁっ!」
腹部に走った激しい痛みに耐え切れず、色葉は絶叫を上げた。恐る恐る痛みの中心に視線を向けると、わき腹に短刀が突き刺さっているのが見えた。そこから広がる赤い染みが、じわじわと服を侵食している。
そんな色葉の痛々しい叫びを聞いてもなお、氷波は振り返ろうとはしなかった。
「もう一回聞くよ。僕と一緒に来る? それとも、死ぬ?」
語気を全く変えずに、淡々と子供は尋ねた。だがその問いかけに、色葉は首を左右に振って答える。
「……氷波っ、氷波!」
痛みに耐えながら、色葉は名前を呼び続ける。そんな彼を、子供はつまらなさそうに一瞥した。
「ま、いいや。そこまで言うなら僕は止めないよ。じゃあ、彼女とはお別れだね」
その言葉を聞いて、ようやく氷波は背中を震わせた。慌てて色葉を振り返り、何かを言おうと口を開く。だがその寸前に、子供が彼女の腕を引っ張った。
「もう遅いよ。全部、何もかも」
そう告げた子供は、色葉を顧みる事無く闇の中に足を踏み入れた。氷波の体も、その闇に吸い込まれる。その瞬間に、氷波は色葉に手を伸ばした。
「色葉!」
もう、自分はどうなってもいい。でも、氷波は、氷波だけは。
「うわぁぁああああっ!」
ぴくりとも動かなかった四肢に鞭打って、色葉は半狂乱の叫びをあげながら腕を伸ばした。千切れそうな程に伸ばされた腱が悲鳴を上げる。それでも、色葉はその力を緩めない。
だが、無情にもそれは届かなかった。あと少し。そのほんの僅かな距離が、二人の間を引き離す。それはもはや、絶対的な距離だった。
喚き叫びながら、色葉は彼女を包んでいる闇を必死に振り払おうとする。しかし、実体を持たないそれは、音もなく指の隙間をすり抜けていった。そして、彼女の体は──
消えた。
その刹那、色葉の耳朶には微かな呟きが届いていた。それは、とても悲しい響きを含んだ、一言。
──さよなら。




