第十話
突然の出来事に、紅葉達は目を見開いた。
水望の背中から突き刺さったそれは、彼女の細い体を易々と貫き、腹部からその先端を覗かせていた。
「…………っ?」
何が起きたのか理解できない水望は、赤く染まりだした場所を押さえながら膝を折った。じわじわと広がるしみの中心に見えるのは、黒く光る鏃。
横向きに倒れた水望を助けようと白花が動いた。
「危ねぇ!」
同じく呆然と目を見開いていた紅葉が、勢いよく白花の体を突き飛ばし、自身も前に飛び込んだ。次の瞬間、紅葉の右肩を先程水望を襲ったものと同じ矢が掠め、背後の地面を抉った。
「──おっと、外したか」
紅葉は声の方向を見上げた。そこには、大きな弓矢を手にした少年が立っていた。焼けた拠点の骨組みの部分に屹立し、紅葉達を高所から見下ろしている。
「っ、お前は……?」
その少年の眼を見た紅葉は、そこから視えたものに目を瞠る。そして何か思い至ったように笑みをこぼした。なるほど、こいつは──
「水望ちゃん! しっかりして!」
そんな紅葉の思考とはよそに、倒れた水望のそばでは、白花が治癒魔法を施すために詠唱に入ろうとしていた。その様子を見た少年は不遜な表情を浮かべる。
「そうはさせない」
背中に担いだ矢筒から一本の矢を取り出し、左手に持った弓につがえた。そしてきりきりと音を立ててそれを引き絞る。
「それはこっちの台詞だ!
〈火花よ散れ! スパーク!〉
「くっ……!」
雷属性の下位魔法でけん制する。その小規模な落雷を少年は紙一重で避けた。彼の手から弓矢が落ちる。
その隙に紅葉は別の攻撃魔法を詠唱しようとした。だがそれも、別方向からの矢により中断させられてしまう。
「色葉っ、僕達囲まれてる!」
「俺は色葉じゃねぇ!」
何が嫌なのか間髪入れずに反論し、紅葉は道風を睨みつけた。その眼光に道風は半歩下がったものの、「今はそれどころじゃないよ」という視線で紅葉を見返す。
「ったく。おい白花! そいつ頼んだぞ!」
顎で水望を指し示して紅葉は目を閉じた。白花の返事も聞かずに深呼吸を始める。
感覚を研ぎ澄まし、空気の流れを感じる。集中しろ、風を読むんだ。そう自分に言い聞かせて、ひたすらに瞑目し続けた。
動かない色葉を見て、少年はにやりと笑った。
「ふん。もう諦めたか」
弓矢を拾った高所の少年は、再び矢を引き絞った。弦が限界まで引き伸ばされ、狙いが紅葉の左胸に定められる。
そして、少年が矢を放とうとした、その瞬間。
〈我ら風の流れに逆らわず、空を翔る翼となれ! フェザーフライア!〉
両目を見開いた紅葉は、天高く叫んだ。その声は夜空に吸い込まれて、長く尾を引くように響き渡る。
そして余韻が消え、一瞬の静寂が辺りを包んだ。静まり返る拠点に、外の精鋭部隊のざわめきだけが届く。
その静寂を破ったのは、少年の嘲笑の声だった。
「何かと思えば。ただのこけおどしか」
紅葉を警戒して弓を下ろしていた少年は、再度矢をつがえようとした。だがそんな事は気にも留めず、紅葉は微笑を浮かべた。
「…………来た」
そんな呟きと同時に、紅葉達の周囲にそよ風が吹き始めた。──と思った時にはすでに、それは大きく渦を巻く暴風となり、紅葉たちを取り巻く嵐となった。砂塵が舞い、目も開けられなくなる程の激しさとなる。やがてその激しさが頂点に達した途端。
「うわぁぁぁ〜……?」
道風の叫び声が、そのつむじ風と共に空高く飛んでいった。
一陣の風を見送った少年は、弓矢を背中に納めると傍らに現れた兵を顧みた。
「……逃げられてしまったな」
「陸様、そろそろ撤退を」
傍らの兵が拠点門に視線を向けた。その付近には、生き残った藤神軍の兵士達が続々と集結しているのが見える。おそらく、すぐにでも拠点内になだれ込むつもりなのだろう。
「そうだな。これ以上留まる事に利は無い。撤退だ」
少年は身を翻すと、その兵を従えてその場から去っていった。
「お、落ちるっ?」
眼下に広がる森に視線を落とした。その木々が見る見るうちに大きくなっていく。
道風の体は大きく弧を描くように飛ばされ、空気を切り裂くような突風が頬を荒く撫でていく。幸運にもちょうど柔らかそうな土がむき出しになっている場所へ、道風は一直線に落下していった。
目をしっかりと閉じ、衝撃に備える。そして──
体が地面に叩きつけられ、息が詰まった。
「あいたた〜」
背中をしたたか打った。が、少し痛むだけで他は何ともないようだ。地面が柔らかくて助かった。
突然始まった空の旅から、道風はなんとか無事に生還する事ができた。視界の隅に白花の姿を見つけ、声をかける。
「だ、大丈夫〜? 白花ちゃん」
「うん、なんとか……」
白花もどこかを痛めたのだろう、いかにも痛そうな顔をしている。だが彼女は小声で治癒魔法を詠唱し、道風の怪我も同時に治した。さすがは白花ちゃんだね、と道風は内心感嘆する。
痛みが引いた事で、周りに気を配る余裕ができた。
「色葉もだいじょう……ぶ?」
そこで辺りを見渡したが、視界に入るのは森の木々ばかり。どこにも色葉の姿がない。そしてもう一人の姿も。
「うそ、水望ちゃんっ?」
「大変だ! すぐに探さないと!」
水望の怪我は、すぐに処置をしないと命の危険がある。色葉が一緒だといいが、もし水望が一人だった場合は、取り返しがつかなくなる。
「私、気配を探ってみる!」
そう言って、白花は眼を閉じた。頑張れと叫びそうになった道風だが、彼女の集中を切らせてはならないと思い直し、心の中で応援するにとどめる。手持ち無沙汰になった道風は、いつになく真剣な白花の顔をただ見つめた。
「…………いた! あっち!」
指差すと同時に、白花はその方向へ走っていった。道風も慌てて後を追う。その背中は真っ直ぐに森の中を突き進み、気配の元へと駆けていく。
二人は、ひたすら木々の間を走った。根を踏み越え、石を飛び越える。
やがて少し開けた場所に出た。
「水望ちゃん!」
白花が叫ぶ。その向こうには、木の幹にもたれかかった水望の姿があった。遠く離れていなかったのが、不幸中の幸いだろう。
「今すぐ手当てを……って、あれ?」
彼女に駆け寄りお腹に手をかざしたところで、白花は動きを止めた。そして呆然と呟く。
「……傷が、塞がってる……?」
「ほんとだ」
赤黒く変色した血が服に染み込んではいるが、それをゆっくりとめくると、そこにあったはずの傷がきれいさっぱり消えていた。
「でも誰が……?」
色葉なら水望と一緒にこの場にいるはずだ。だが、彼の姿はいまだ見つからない。
その時、水望が僅かに身じろいだ。
「……おか、さん…………行かない、で……」
「お母さん?」
うわごとのようだ。きっと夢にでもうなされているのだろう。そんな彼女の顔を見ながら、道風は息を吐いた。
「ひとまず、水望ちゃんは大丈夫みたいだね〜。あとは色葉を探さないと」
「紅葉、どこ行ったんだろ」
「……白花ちゃんは、紅葉の事、絶対にお兄ちゃんって呼ばないんだね」
道風の言葉に、白花は立ち上がった。遠くを見るように目を細める。
「だって、あいつはお兄ちゃんじゃないもん」
「え? それってどういう──」
「見つけた!」
続けようとした言葉は、白花の叫びにかき消された。彼女は再び走り去っていく。
「あ、ちょっと〜!」
道風も追いかけようとして、ふと背後の水望に視線を落とした。その不安そうな寝顔を見て、道風は小さな笑みを見せる。
「……分かった、僕がここにいるよ」
白花の背を眺めながら、道風は水望の隣に腰を下ろした。
「くっ……!」
紅葉は左胸を掴んで、歯を食いしばった。
「かなり苦しそうだな」
その声は、どこか落ち着いたような、優しく語りかけるような少し低めの女性の声音だ。だが、彼女から感じるのは、純粋な殺意。
今紅葉の目の前にいるのは、それなりに長身で痩躯の女性。顔は黒い布で隠されており、全身を覆う服も、それと同じく闇を溶かし込んだような黒だ。そしてなによりも目を引くのが、その胸元に描かれた、真っ赤な桜の花を模した紋様。それはまるで血のような、紅葉の瞳の色を連想させるような紅で彩られている。
「っ……だったら、俺のためにも早く帰ってくれよ」
荒い息を継ぎながらも、紅葉は笑みを見せ続ける。そんな紅葉に、謎の女は高らかな笑い声を上げた。
「あっはははっ! そこまで無理を重ねるか、『鬼の子』よ」
紅葉の顔から笑みが消えた。
「──黙れ! 昔の事は、もう忘れたんだ!」
怒気を露わにし、鋭くその女を睨みつける。そんな紅葉の周囲の草木が、風も無いのにざわつき始めた。頭上では雷を思わせるような火花が、小さく音を立て始めている。
魔力の放出だ。激昂した事で、魔力を抑える力が麻痺したのだろう。より激しい痛みが胸を襲う。それでも、蘇った過去への怒りは増大する一方だ。
「ほら。魔力の制御ができていないぞ?」
「……る、さい……っ!」
さらなる痛みに耐え切れず、紅葉は片膝をついた。
「もう一度聞こう。私達の仲間になるか、今この場で死ぬか。選ぶがいい」
「……そんなの、決まってんだろ!」
紅葉はその体勢のまま地面を蹴った。人間離れした速さで一瞬の内に黒服の女に肉迫する。
「この場でお前を、殺す!」
胸の苦しさを押し込めて、力の限りに刀を振り上げる。視線がかち合った。刹那、鋭い金属音が響く。
「その意気や潔し、とでも言ってやろうか?」
紅葉の日本刀と女の両刃の剣が、お互いの瞳の間で火花を散らす。
単純な力比べは、体格で勝る女が紅葉を上回った。刀が弾かれ、後ろへと重心が崩れる。すぐに刀を握りなおしたが、少し遅かった。
「終わりだ」
女が低く呟いた。目の前に鈍く光る刃が迫る。その直線的な刀身に、自らの紅い瞳が映った。それがこんな時にもかかわらず、やけにはっきりと見えた。
その時。
〈光の雨よ、降り注げ! レイ!〉
光線が紅葉の周りを貫いた。直前でそれらに気付いた女は身をよじって避ける。
「……藤神の血が二人も相手では、少々手に余るか」
大きく後ろへ跳んで、紅葉と白花との距離を開ける。白花の光魔法が彼女の肩を掠ったのだろう、左腕を反対の手で押さえていた。それでも、黒い布の下から余裕を覗かせている。
「ではまた会おう、世界に仇なす鬼の子よ!」
そう声高に叫ぶと、女は森の木々の間に姿を消していった。
その姿が視界から消え、気配が完全に消失したその時、それまで痛みに耐えていた紅葉が崩れ落ちた。
「紅葉!」
白花が駆け寄った。紅葉はもう一人の自分の妹を、虚ろな瞳で見やる。
「……悪い、ちょっと無理、しすぎた……」
自嘲的な笑みを浮かべながら、紅葉は静かに目を閉じた。首が倒れる。
その顔つきが、鋭く険しいものから、見慣れた少女のようなものに変わった。それを見た白花は安堵の表情を浮かべる。
「やっと、いつものお兄ちゃんに戻った」
それが判断基準だとは、兄には内緒にしておこう。
ほんの少し苦しそうな表情をする彼の髪を、時々白花がされているように撫でる。普段はきれいに流れる漆黒の髪も、今は返り血やらで少し汚れていた。
とにかく、まずは道風と合流しないと。
「…………んー、お兄ちゃんなら、運べるかな……?」
試しに色葉の腕を取って、自らの肩にかけさせる。そして、彼の小さな体を背負った。そのままそっと立ち上がる。白花は簡単に持ち上がった兄の体に軽く目を瞠った。
「こんなに軽かったんだね」
視線を前方に向け、白花は小さく前に踏み出した。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
背中で眠る少年に声をかける。
「私、お兄ちゃんが鬼の子だなんて、一度も思った事ないよ」
もちろん、返事が帰ってくるはずは無い。それでも、白花は前を向きながら微笑む。
「みんなに冷たく接してるけど、ほんとは優しいって知ってるもん」
だからね、と心の中で続ける。
──私はあいつらを、絶対に許さない。
「道風さん!」
ようやく水望を発見した場所に戻ってきた。水望がもたれかかっている横で、道風がうとうとと船を漕いでいるのが見える。
「……普通逆じゃない?」
白花の声に顔を上げた道風は、担がれた色葉を見るなりそう呟いた。肩越しに色葉を見て、白花は顔を綻ばせた。
「たまには、私がお兄ちゃんを助けてもいいかなって」
「そうだけどさ〜」
笑いながら立ち上がった道風は、早く屋敷に戻ろうと提案しようとした。しかし、ふとある事に気付き、その笑みを凍りつかせた。
「ちょ、ちょっと待って、じゃあ僕が水望ちゃんを……?」
「……そうなるね」
道風は白花にすがるような視線を向けるが、その白花は小さく首を横に振って歩き出した。
「う〜……仕方ない、よね……」
諦めた道風は「失礼します」と一声かけて、足と背中に腕を回した。両腕に水望の体重がかかる。成長期の子供らしくそれなりの重さだったが、思ったよりは軽かった。
「ねぇ〜、方向はこっちであってる〜?」
色葉を担いだ白花に呼びかける。少し前を歩く彼女は首を巡らせた。
「……多分」
不安げに呟いた白花の足取りは、言葉と裏腹にしっかりとしていた。
二人はゆっくりと、だが急ぎめで歩を進める。まだ日が昇るには早いとは思うが、できればそれまでに屋敷に戻りたい。
その時、木々の間にひっそりとした小さな社が見えた。
「あ……大丈夫。もう少しで屋敷に着くよ」
その社を見た白花が心なしか早口に言い切った。
「これって、何のお社?」
「何のかは知らないけど……私、あんまりここ好きじゃないな」
かなりの歴史を感じさせる社から色葉に視線を移し、再び白花は歩き出した。
「……ふ〜ん」
興味深そうにそれを眺めていた道風も、水望の体を抱きなおしてその後をついて行った。
数十分後。
白花と道風達は、ようやく無事に藤神家の屋敷に辿り着く事ができた。あの拠点から飛ばされた場所がこの近くで良かった。
「……ん……」
建物に足を踏み入れたところで、白花に背負われた少年が目を覚ました。ゆっくりと見開いたその眼の色は、黒。白花の思ったとおり色葉に、いつもの兄に戻っていた。
「お兄ちゃん、帰ってきたよ」
「白花か。俺はもう大丈夫だよ、ありがとう」
完全に覚醒した様子の色葉は、自分を背負っている白花の肩を軽く叩いた。だが白花は取り合わない。
「だめ。ちゃんと部屋まで送るから」
「でも……」
色葉は申し訳なさそうに、いや、気恥ずかしそうにきょろきょろと辺りを見回している。だがやがて溜め息を吐いて、諦めたような微笑を浮かべた。
「……分かった。じゃあ頼む」
そう言って、色葉はまた妹に体を預けた。彼女の首筋に頬を当てる。
「そうだ。ありがとう白花、水望を助けてくれて」
白花の足が止まった。
「え? 水望ちゃんはお兄ちゃんが治したんじゃないの?」
白花が道風に顔を向けると、彼も首を縦に振った。その反応に、色葉は怪訝な表情になる。
「いや、俺は何もしてないよ。てっきり、風で運んでる最中に白花が治癒魔法を……」
「あれで運ぶって言うのかな〜」
道風がどうでもいいところに突っ込んだ。そこなんだ、と白花も苦笑いを浮かべ、再び歩き始める。
「でも、じゃあ誰が……?」
「もしかして、あの女の人かな」
「女の人?」
「……あいつ、逃がしちゃったな」
話の結論に達さないまま、白花達一行は色葉の自室前に着いた。白花はその戸に手をかける。
「僕は、水望ちゃんを部屋まで運ぶね〜」
おやすみ〜、と肩をすくめてみせて、道風は廊下を歩いていった。
「おやすみ、道風さん」
その背を見送って、白花は色葉と一緒に部屋に入った。背中から兄の体を下ろし、大きな欠伸をする。体の筋を伸ばしながら、同じように欠伸をかみ殺している色葉に微笑を向けた。
「……とりあえず、話は明日にしよ。私、もう眠いや」
「そうだね。おやすみ、白花」
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
笑顔で言い切って、部屋を出た白花は戸を閉めた。自分の部屋に足を向ける。
廊下を歩きだした白花の顔から、徐々にその笑みが消えていった。やがて足も止まり、彼女は顔を伏せる。
「──もうお兄ちゃんを、『鬼の子』なんて呼ばせない……!」
唇を噛み、手の平を握り締めた白花は、深く深く、そう心に刻み込んだのだった。




