第8話:始まりの夜
山を下り終えたのは、翌日の午後だった。
麓の山小屋で預けていた馬を回収し、平原の街道へ出た。空は高く、秋の青さが、雪の予兆のような透明感を帯び始めていた。馬の蹄音が、規則的に、地面を打っていた。
アスランは、馬上で、しばらく無言だった。光の塔から下山して以来、彼の口数は、明らかに減っていた。
「ヴァロウのことを、考えているのか」と、俺は問うた。
アスランは、ちらりと、こちらを見た。
「……あの人、絶対戻ってくる気がする」
「根拠は」
「根拠とかじゃねぇ。なんとなくだ」
「……」
「ルミナ、お前さ、なんとなくとか、嫌いだろ」
「嫌い、ではない。だが、判断材料としては、優先度が低い」
「だよなぁ」
アスランは、苦笑した。それから、また、しばらく、黙った。馬の蹄音だけが、続いた。
俺は、内心で、彼の言葉を、反芻した。
……「なんとなく」。合理性の外側にある、何か。彼の判断は、しばしば、そこに依拠する。そして、しばしば、当たる。研究の効率としては、無視できない要素だ。
俺たちは、夕方、山麓の村を通過した。
村長と孫娘が、家の前で、薪を割っていた。俺たちが通りかかると、孫娘がぱっと顔を上げ、駆け寄ってきた。
「ご無事で!」
「おう、ただいま!」
アスランが、屈託なく、手を振った。孫娘の頬が、見ている間に、赤く染まった。
俺は内心で、軽く息をついた。
この男、無自覚にモテるな。
村長が、黙って、頷いた。アスランは「世話になった、ありがとう!」と村長にも頭を下げ、馬を進めた。
孫娘の視線が、アスランの背中を、長く追っていた。
俺たちは、その視線に気づかないふりで、街道を進んだ。
◆ ◆ ◆
ラフェルトの城門が、視界に入った。
馬を貸し馬屋に返し、ギルドへ向かった。秋の夕日が、街全体を、橙色に染めていた。
ギルドの扉を開けると、アリアが、いつもの位置にいた。
「お帰りなさいませ」
声音は、いつも通り淡々としていた。だが、視線が、こちらを、丁寧に確認していた。怪我の有無、装備の損傷、表情の硬さ ―― 観察するべき項目を、彼女は、すべて見ていた。
アスランが、明るく手を挙げた。
「ただいま!」
「アスラン様も、ご無事で何よりです」
俺は短く頷いた。
「世話になった」
そこで、アリアの様子に、わずかな緊張があった。表情は変わらない。だが、姿勢が、いつもよりわずかに、堅かった。
「お二人とも、バルザック様が、執務室でお待ちです。すぐに、いらしてください」
その一言で、何かが起きていることが、分かった。俺はアスランと視線を交わし、奥の扉へ向かった。
◆ ◆ ◆
執務室で、バルザックは、難しい顔をしていた。
机の前に、王家の紋章入りの羊皮紙が、開いて置かれていた。封蝋は、すでに割られていた。
「お前さんに、客が来た」
バルザックは、エールのジョッキを脇に置いて、本題に入った。
「3日後、王家の特使が、ラフェルトに到着する。光の獅子の調査を、宰相直属で進めている人物だ。直接、当人と接触したい、という意向だ」
俺は、しばらく、羊皮紙を見ていた。
王家の特使。3日後。
……まだ正体は伏せたい。だが、王家の特使を完全に無視するのは、難しい。これを断れば、「光の獅子」を反王家勢力と見なされる可能性もある。
「対応は、お前さんに任せる」と、バルザックは続けた。
「会うか、会わないか。会うなら、どんな形でか。お前さんが決めろ。俺は、お前さんの判断を支える役だ」
「……3日、考える時間が欲しい」
「いいだろう。装備の準備や、影の塔への出発は、それまで保留だな」
俺は頷いた。アスランが、隣で、ふむふむと話を聞いていた。
「俺、何かできることあるか?」
「お前は、影の塔の準備を進めてくれ。装備リスト、保存食、地図。準備が早く済めば、3日後に判断が決まり次第、すぐ出発できる」
「了解!」
アスランは、目を輝かせて、頷いた。彼の方が、こういう実務を任されると、嬉しそうだった。
俺たちが執務室を出ようとした時、バルザックが、低く付け加えた。
「ああ、それから。王家の特使、名前だけ、伝えておく」
俺は、振り返った。
バルザックは、エールのジョッキを口元に運びながら、こちらを見ていた。
「軍務卿リオネル・ヴェル殿。俺の、25年前の元戦友だ」
俺は、一瞬、息を止めた。
……軍務卿。それも、バルザックの戦友。
事態は、想定よりも、上の階層で動いていた。
◆ ◆ ◆
受付に戻ると、アリアがカウンターで書類を整えていた。彼女は、俺たちの顔を見て、わずかに頷いた。状況を、察したらしかった。
「レオン様」と、彼女は静かに呼んだ。
「後ほど、お時間を、いただけますか」
俺は頷いた。
「閉店後、外で待っている」
「ありがとうございます」
俺とアスランは、ギルドを出た。アスランは「先に宿に行って、装備リストを書き始めるぜ」と、別れの挨拶をして、軽快に走り去った。
俺は、ギルドの近くの広場で、夕暮れを眺めていた。
◆ ◆ ◆
― 同時刻・王都・マクシミリアンの宿 ―
マクシミリアンは、午後の高級宿の寝室で、まだ寝ていた。
昨夜の酒が、まだ抜けていなかった。窓の外は、すでに夕方近い。彼の枕元には、空のジョッキが3つ転がっていた。
扉が、勢いよく開いた。
「マクス様! 大変です!」
飛び込んできたのは、剣士ブルーノだった。彼の手には、王家の紋章入りの書状が握られていた。
マクスは、寝床から、頭だけを上げた。
「うるせぇ……何だ、ブルーノ……」
「王宮から、書状が! 新勇者候補選定の正式通達が、我々にも回ってきました!」
マクスの目が、徐々に、開いた。
「……何?」
ブルーノは、書状をマクスに差し出した。マクスは、しばらく、書状の文字を、追っていた。読み進めるにつれ、彼の顔から、二日酔いの霞が、急速に消えていった。
書状の内容は、婉曲だった。
「貴殿の長年の功績に、王家は深く感謝するものである。新たな時代の英雄選定が進む中、貴殿には、ぜひ退役勇者として、若き次世代の指導に、お力添えをいただきたく ―― 」
マクスの手が、震え始めた。
「……退役勇者、だと?」
「マクス様 ―― 」
「ふざけるな!」
マクスは、寝床から飛び起き、書状を、両手で破り捨てた。羊皮紙が、無残に裂け、寝台の周りに散らばった。
「俺はまだ現役だ! 退役? 指導役?! 笑わせるな! 俺は勇者だぞ! 大陸を救った、勇者マクシミリアンだ!」
ブルーノは、止めようとした。だが、口を開きかけて、止めた。マクスの目は、すでに、彼の言葉を、聞き入れる状態ではなかった。
「光の獅子……あの女狐が、俺の地位を、奪おうとしているんだろう! 王家も、俺を見限る気か! ふざけるな、ふざけるな!」
マクスは、寝室の壁を、拳で殴った。漆喰が、剥がれ落ちた。
「俺が、証明してやる」
彼は、低い声で、呟いた。
「光の獅子? あんなもん、俺が直接ぶっ潰してやる。そうすれば、王家も、俺の力を、思い出すはずだ」
「マクス様、それは ―― 」
「装備を、整えろ、ブルーノ。明日、出発する。光の獅子の所在は、宰相筋から、俺の名で、引き出してやる」
ブルーノは、しばらく、彼を見ていた。
そして、彼は、深く、頭を下げた。
「……はい、マクス様」
従う以外に、選択肢が、なかった。彼は、何年も、マクスの背中を見て生きてきた。今さら、別の道は、選べなかった。
マクスは、身支度を始めた。
ブルーノは、寝室を出た。廊下で、彼は、しばらく、壁に背を預けて、目を閉じていた。
マクス様、今、そんな状態で出ても ――
だが、それを口にする勇気は、彼には、なかった。
◆ ◆ ◆
― 同夜・王宮・王太子のサロン ―
イザベラは、王太子の私的サロンで、紅茶を、優雅に口に運んでいた。
サロンには、彼女と王太子の二人だけだった。給仕も、護衛も、扉の外。秋の夜の冷気が、開いた窓から、わずかに流れ込んでいた。
王太子は、若い男だった。マクシミリアンと同年代。だが、纏う空気は、まったく違った。落ち着き、慎重さ、そして冷ややかな知性。
「マクシミリアン殿の、現状について」
王太子が、紅茶を置いて、本題を、切り出した。
「お聞きしたいのですが、聖女イザベラ嬢」
「マクス様は、ご立派にお務めです」
イザベラは、微笑みを崩さなかった。社交界用の、完璧な微笑み。何年も訓練してきた表情。
王太子は、その微笑みを、しばらく、見ていた。それから、ふっ、と息を吐いた。それは、笑いに近い、息だった。
「……正直に、お話ししましょう。聖女嬢」
「殿下」
「最近、勇者の称号についての議論が、王宮内で持ち上がっています。マクシミリアン殿の、近年の活動を踏まえ、新たな勇者候補の選定が、本格化しています」
「……」
「もし、新勇者が決まった場合、その方の補佐として ―― 聖女イザベラ嬢には、ぜひ、お力添えをいただきたい」
イザベラの、紅茶の手が、わずかに、止まった。
表情は、変えなかった。だが、内心で、彼女は、深く、息を吐いた。
勝った。
「殿下、私は、聖女として、王国に仕える身でございます。殿下のご意向に、お従いいたします」
表向きは、恐縮を装い、頭を、わずかに下げた。
「ありがとうございます。具体的な人選が固まり次第、改めてご相談しましょう」
「お待ちしております」
王太子は、わずかに微笑んだ。その微笑みには、彼女の本心を、すべて見抜いているような、冷ややかさがあった。
イザベラは、サロンを退出した。
廊下を歩きながら、彼女は、深く、息を吐いた。
マクシミリアン。あなたは、もう、終わりよ。
マクスへの、最後のメッセージは、もう、出さない。彼女はそう、決断した。
夜の王宮の廊下は、彼女の足音だけが、響いていた。
◆ ◆ ◆
― 同夜・魔術師団官舎 ―
ジュリアンは、深夜の書斎で、机に、突っ伏していた。
机の上には、報告書の山。狼煙の塔の続報、光の塔への進出の情報、そして、辺境の冒険者ギルドから上がってきた、F級冒険者「レオン・グラウ」の活動記録。
同名の別人と、思い込もうとしてきた。3年前のあの男は、追放されて、田舎で消えたはずだ、と。あいつが、こんな高度な実用化に、たどり着けるはずがない、と。
だが ―― 限界が、来ていた。
ジュリアンは、ゆっくり、身体を起こした。引き出しを、開けた。
3年前から、ずっと開かれていなかった、灰色のノート。
レオン・グラウの理論ノートの、写し。
学院の禁書庫で、ジュリアン自身が、ひっそりと、写し取った。あれは ―― 3年前、レオンが学院を辞める少し前のことだった。彼の発表する論文の、その行間に、何か途方もない可能性があると、ジュリアンは、密かに、感じていた。表向きは、見下していた。だが、本音では、彼の理論が、欲しかった。だから、写した。
そして、写したきり、3年、開かなかった。
「同名の別人だ」と、自分に、言い聞かせ続けた。
もう、できない。
彼は、ノートを、開いた。最初のページ。多次元魔力構造論の、基礎。レオンの几帳面な筆致。
そして、報告書を、横に並べた。F級冒険者レオン・グラウが運用していた、銀獅の閃光、月華の鎖、均衡解の、魔法構造記述。
ジュリアンは、両者を、何度も、何度も、比較した。
……一致していた。
銀獅の閃光の理論的根拠。月華の鎖の構造原理。均衡解の概念属性化の方法論。すべて、ノートの記述から、理論的に導出できる範囲に、収まっていた。それも、ノートの著者が、3年で、さらに体系を発展させた結果として。
……完全に、一致していた。
ジュリアンの口から、ようやく、言葉が、出た。
「……あいつ、なのか」
声は、自分でも、驚くほど、低かった。
「あの、地味な、おっさんが ―― 」
3年前、彼は、レオンを見下していた。「俺の方が優秀だ」と、顔に書いていた。マクスが追放を宣告した時、彼は、内心で、勝利を感じていた。
だが ――
あいつは、追放されてから、3年で、ここまで来た。
彼自身が、この3年で、何をしたか。
戦闘魔法を派手に撃って、勇者の隣に立って、貴族の宴会で持て囃されて、それで、何を、得た? 自分は、3点同時詠唱を、まだ「研鑽中の領域」と呼んでいる。あの男は、3点同時詠唱どころか、概念属性魔法を、すでに実用化している。
俺は、何をしてきたんだ。
ジュリアンは、机に、また、突っ伏した。
蝋燭の火が、揺れた。
3年。
あいつが、孤独に、研究を、続けた3年。
そして、自分が、栄光に、酔っていた3年。
結果は、目の前に、突きつけられていた。
言い訳は、もう、できなかった。
◆ ◆ ◆
ラフェルトのギルドが閉まる時刻、俺はアリアと、外で会った。
夜の通り、街灯の少ない路地。秋の冷たい風が、彼女の白い肩掛けの裾を、わずかに揺らしていた。彼女は、いつもの紺色の制服のまま、肩掛けだけを羽織っていた。
「お帰りなさいませ、レオン様」
声音は、いつもより、わずかに、柔らかかった。
「お疲れ様です」
「世話をかけた」
俺たちは、しばらく、街灯の下で、立っていた。風が、二人の間を、流れた。
アリアが、口を開いた。
「アスラン様は、変わったお方ですね」
「……ああ」
俺は、慎重に、答えた。
アリアは、視線を、足元に落としていた。それから、ゆっくり、上げた。
「あの方が、私を、ルミナ様と、似ているとおっしゃいました」
俺の鼓動が、わずかに、速くなった。
……来たか。
アリアは、続けた。
「私は、その意味を、直接お聞きするほど、無粋では、ございません」
彼女の声は、静かだった。
「ですが ―― レオン様、お一人で、危険な場所に、向かわれることが、続いております。もし、何かありましたら ―― 私も、できる範囲で、お手伝いさせて、ください」
俺は、しばらく、彼女を見ていた。
5年勤続のベテラン受付嬢。観察眼は、確かだ。彼女は、すでに気づいている。レオンと、ルミナ・レオニスの繋がりに。だが、それを、口にしない。確認も、しない。
その代わりに、彼女は、踏み込んできた。
「お手伝い」という、控えめな言葉で。
俺は、しばらく、考えた。
3年前、追放された時、俺は、1人で生きると決めた。研究は、1人でするものだと、信じていた。だが、ここ最近 ――
アスランがいる。バルザックがいる。アリアが、いる。
俺の周りに、人が、増えていた。
「……ありがとう」
俺は、それだけ、答えた。
アリアは、夜風の中で、わずかに、微笑んだ。
5年で、2度目の微笑み。
「お役に立てれば、何よりです」
俺たちは、それで、別れた。
彼女は、夜の通りを、家路に向かって歩いていった。俺は、その背中を、しばらく、見送った。
◆ ◆ ◆
宿の部屋に戻り、俺は、窓辺に、座っていた。
月が、雲の隙間から、差し込んでいた。
3日後、王家の特使が来る。軍務卿リオネル・ヴェル。バルザックの戦友。
そして、おそらく、王都では、別の何かが、動いていた。マクシミリアンの暴走。イザベラの裏切り。ジュリアンの、覚醒。
3年前、追放された俺は、想像していなかった。
あの日、応接間を出て、王都を発った時、俺は、ただ、「ようやく研究ができる」と思った。それだけだった。
3年。
研究は、進んだ。理論は、完成した。実証も、進んでいる。
そして、3年前に俺を追放した連中は、自滅の音を、響かせ始めていた。
俺は、月を、見ていた。
―― 始まったな。
その思いが、内心で、静かに、降りてきた。
怒りでは、なかった。
悲しみでも、なかった。
ただ、淡々とした、確認の感情だった。
歯車は、回り始めていた。光の獅子の名は、王家の階層にまで、届いていた。マクシミリアンの暴走は、もう、止められない。イザベラは、彼を、すでに切り捨てた。ジュリアンは、3年の虚しさに、ようやく直面した。
そして、俺は、ラフェルトで、3日後の特使を、待っている。
3年前の俺と、今の俺。
変わったのは、何だろうか。
俺は、月を、もう一度、見上げた。
月は、何も、答えなかった。
だが、雲の隙間から、月光が、差し込んだ。
俺は、窓を、閉じた。
明日から、3日。
準備を、整えなければ。




