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第1話:ようやく、自分の研究ができる

羽ペンの先で、最後の数式を書き終えた。


インクが乾くのを待つ間、俺は深く息を吐いた。窓の外は星空。辺境の村は寝静まっている。蝋燭の炎が、机の上に積み上がった3年分の論文を、わずかに揺らしながら照らしていた。


「……完成したか」


誰もいない部屋で、自分の声が思いのほか乾いて響いた。38歳。研究者として、ようやく1つの結論にたどり着いた。


魔力効率の極限解。


あらゆる魔術師が暗黙に前提としている「自分の身体で魔法を行使する」という発想を1度棄てて、純粋に魔力工学の観点から「最も損失の少ない器」を構築する。骨格の比率、筋繊維の密度、魔力回路の総延長と分岐数。意匠による魔力誘導。詠唱が引き起こす共鳴現象。それらを多次元的に最適化した結果、たどり着いたのは ―― ある特定の姿であった。


俺は、その姿を最後まで信じられなかった。何度も計算を見直した。前提を疑い、定義を入れ替え、独立に検証を重ねた。3年。だが結論は動かなかった。


「……魔法少女、か」


声に出すと、なお妙な気分になる。だが理論は嘘をつかない。最適解はそれだった。


俺はノートを閉じ、蝋燭を吹き消した。


◆ ◆ ◆


朝。井戸の水は、夏の終わりにしては冷たかった。


桶を引き上げ、昨日洗っておいた壺に水を移す。畑の方から子供の声がする。村長の孫だ。あの子は朝が早い。


「おはようございます、レオンさん」


声をかけてきたのは宿屋の女将だった。背中に大きな籠を背負っている。市場へ行く途中だろう。


「おはようございます、ハンナさん。今日も早いですね」


「あら、レオンさんこそ。最近、夜遅くまで明かりがついてましたねえ」


「まあ、少し」


「身体は壊さないでくださいよ。学者先生がいなくなっちゃうと、村も寂しいですから」


女将は笑って去っていった。俺はその背中を見送り、ふと思う。3年前、初めてこの村に来た時、誰もが俺を不審そうに見ていた。それが今では「学者先生」と呼ばれている。


悪くない。


誰にも何も求められず、ただ自分の研究に没頭できる3年だった。


家に戻り、簡素な朝食を取る。固いパンと、村の女たちが分けてくれたチーズ。窓から差し込む朝日が、机の上の論文の山を照らしている。


俺はパンを噛みながら、ふと、3年前のことを思い出した。


◆ ◆ ◆


― 3年前 ―


王都の、勇者パーティーが寝起きしていた屋敷の応接間。


その日、俺は呼び出されていた。普段なら朝から走り回っている時間だ。商人との支払い交渉、騎士団との連絡、貴族家への詫び状、補給物資の確認。やらなければならない仕事は山ほどあった。


だが、その日は違った。応接間に通されると、5人が揃って座っていた。


勇者マクシミリアン。剣の才に恵まれた、傲慢な若き英雄。


聖女イザベラ。慈悲深い微笑みの裏で、常に算盤を弾いている女。


剣士ブルーノ。マクスを神のように崇拝する、無骨な戦士。


魔法使いジュリアン。名門魔術学院の首席として加入した、若き秀才。


盗賊ヴィンセント。情報網と軽口を武器にする、抜け目ない男。


俺がこのパーティーの実務を一手に背負ってきて、7年。表向きの英雄たちだった。


マクスが、足を組んで俺を見上げていた。


「レオン。お前の役目は終わった」


その第1声で、俺はすべてを理解した。


「もう必要ない。出ていけ」


マクスは続けた。


「俺たちは勇者パーティーだ。前線で剣を振るえない奴を抱えている余裕はない。お前は3年前に加入してから、戦闘で目立った活躍を一度もしていない。違うか?」


違わない。事実だ。だが、それは戦闘の前と後にやらなければならない仕事を、俺が全部背負っていたからだ ―― そう言いかけて、俺は口を閉じた。


言っても無駄だと、長い経験で知っていた。


マクスは、俺の沈黙を肯定と受け取ったらしい。満足げに頷いた。


「ちょうどいい話がある。今度、新しく仲間に加わる女がいてな。剣の腕も悪くない、見目もいい。お前の代わりに前線に立ってもらう。そっちの方が、よほどパーティーの戦力になる」


イザベラが扇子の陰で、わずかに目を細めた。「新しい仲間」というのが、要するにマクスの新しい恋人であることを、この場の全員が知っていた。剣の腕とは関係のない理由で、俺の枠が必要になっただけだ。


イザベラ自身は反対しなかった。むしろこの追放を後押ししたのは彼女だろう、と俺は静かに察していた。地味な研究者の存在は、聖女が前面に出る時の「絵」として邪魔だったのだ。


ブルーノは退屈そうに窓の外を眺め、時折、嘲笑を漏らしていた。「戦えない男」を心底見下している顔だった。


ジュリアンは胸を張って俺を見下ろしていた。「俺の方が優秀だ」と顔に書いてあった。彼は、俺が抜けたあとの魔術担当に名乗りを上げているのだろう。戦闘魔法を派手に撃てる若者にとって、地味な補助魔法と魔道具管理を担当する中年は、ただの邪魔者だったに違いない。


ヴィンスだけが、わずかに眉をひそめていた。何か言いかけて、結局、何も言わなかった。たぶんあの男は、その瞬間に思ったのだろう。「あの帳簿、誰が引き継ぐんだ」と。彼は俺の仕事の量だけは、なんとなく見ていた。だが、声を上げてマクスに逆らうほどの忠義はない男だった。


俺は深くため息をついた。怒りも悲しみもなかった。ただ、計算が走った。明日支払うはずだった商人への代金、来週の貴族会への根回し、補給物資の発注タイミング、騎士団との合同訓練の調整。今日中に引き継ぎ書類を作る時間はない。明日、王都を発つ前に、せめて3日分の予算と発注予定だけでも置いていくか。いや、それすら受け取らないだろうな、この連中は。


マクスは追い討ちをかけるように言った。


「お前は研究者気取りで、いつも机に向かっていただろう。3年もパーティーにいて、戦闘で何の手柄もないというのは、つまりそういうことだ。せいぜい田舎の村にでも引っ込んで、好きなだけ研究でも続けていろ」


その言葉を、俺は口に出さずに反芻した。「研究者気取り」。机に向かっていた時間。あれは半分が経理で、半分が陳情書と通達文の起草だった。研究に費やせた時間は、3年で恐らく数週間に満たない。


だが、もういい。


「……そうですか」


俺はそれだけ言って、応接間を出た。


背中越しに、マクスの声が聞こえた。「これでようやく、本当の勇者パーティーになれる」と。


その言葉を聞いた時、俺の中で、何かが、ほどけた。


怒りではなかった。落胆でもなかった。


解放感だった。


― ようやく、自分の研究ができる。


俺はその夜のうちに荷物をまとめ、翌朝には王都を出ていた。引き継ぎ書類は、結局、机の上に置いてきた。受け取らなくても、置いていくのが筋だ。


誰も見送りには来なかった。


◆ ◆ ◆


パンを飲み込んで、俺は意識を現在に戻した。


3年。長くも短くもない時間だった。


理論は完成した。だが、理論は理論でしかない。実証されなければ価値はない。机の上で完成した魔法は、現場で再現されて初めて魔法と呼ばれる。


俺は食器を洗い、布巾で水気を拭った。窓の外、村の通りに村長が見えた。ちょうどいい。


「村長」


「おお、レオンさん。どうしたね」


「しばらく、村を留守にします」


村長は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


「研究のことかい?」


「ええ。実証のために、少し旅をしないといけません。1ヶ月か、2ヶ月か。長くなるかもしれません」


「気をつけて行ってきなされ。家のことは見ておくよ」


「ありがとうございます」


村長はしわだらけの手で、俺の肩を1度叩いた。それだけだった。多くを聞かない、ということがこの村の優しさだった。


俺は家に戻り、旅支度を整えた。研究ノートの写し3冊、最低限の薬品、着替え、保存食、財布。それから、3年かけて加工した魔導ステッキ。古代語の数式が刻まれた、銀色の杖。


これが、最後のピースだ。


俺はステッキを布で包み、背嚢に括り付けた。


家を出る前、もう1度、机の上の論文を眺めた。3年分。これが本物かどうかを、これから確かめに行く。


戸締まりをして、街道へ向かう。


村人たちが、すれ違いざまに「気をつけて」と声をかけてくれた。


悪くない、と俺は思った。


◆ ◆ ◆


街道を半日も歩くと、森に入る。隣町までは、この森を抜ければ夕方には着く距離だ。


木々の葉が秋の気配で色づき始めている。風は乾き、足音だけが妙にはっきりと耳に届く。


静かすぎる、と気づいた時にはもう遅かった。


森の奥から悲鳴が聞こえた。複数。続いて、馬のいななき、何かが砕ける音。


俺は街道を外れ、音の方へ歩いた。走らなかった。走る必要がない。


木々の隙間から、それは見えた。商人の馬車。横転している。荷物が散乱し、御者が腰を抜かしていた。商人らしき男と、その妻と、まだ10歳にもならない少女。3人が、馬車の陰に身を寄せ合っていた。


そして、それを取り囲んでいたのは ―― 影狼。


魔物の中でも、群れで動く厄介な種類だ。1頭ならば腕の立つ冒険者で対処できる。だが、ここにいるのは ―― 数えるまでもなく、7、8頭。


商人たちには、もう逃げる手段がない。


俺は、木の陰で立ち止まった。


影狼。群れの個体数、8。魔力濃度、中。狙いは積荷ではなく、人間の生命力。完全に殺戮目的。商人の戦闘経験、ゼロ。生存可能時間、推定30秒。


計算が、淡々と走った。


実証の対象として、適切。


俺は背嚢を下ろし、布をほどいて、銀色のステッキを取り出した。月光に磨かれたような肌理。古代語の刻印が、薄く光を帯びていた。


「……始めるか」


木陰から街道に出る。商人たちはまだ俺に気づいていない。影狼の1頭がこちらに首を回した。黄色い目が俺を捉える。


俺はステッキを、地面に対して垂直に立てた。


詠唱を、開始する。


◆ ◆ ◆


― 変身 ―


第一節 ―― 魔力経路の開放。肉体の再構成。所要時間、2.8秒。


足元から、銀の光が立ち上った。光は螺旋を描きながら身体を這い上がり、骨と筋肉の構造を瞬時に組み替えた。重量比が変わる。重心が下がる。魔力回路の総延長が、約3倍に延びる。


第二節 ―― 装束の物質化。意匠としての魔力回路を展開。


光が衣服に変わった。白を基調とした生地に、紫の縁取り。フリルとリボン。ひとつひとつが、最適化された魔力誘導路として機能する。装飾ではなく構造体。無駄に見える曲線が、すべて損失低減のために計算された角度を持つ。


髪が伸び、色を変えた。プラチナの月光色。


第三節 ―― 出力上限の解放。共鳴系起動。


ステッキの古代語が、白く輝いた。


影狼たちが、警戒の唸りを上げた。だが遅い。


俺は、変身を完了した姿で、街道に立っていた。


商人たちが、こちらを見て、息を呑む音が聞こえた。


「あ……あ、あの……」


商人の妻が声を漏らした。何かを言いたそうに、何も言えずに、ただ俺を見ている。


俺は背筋を伸ばし、ステッキを構えた。可憐な少女の手で、銀色の杖を握る。


出力は想定通り。フォームに0.5パーセントのブレ。許容範囲内。


影狼の先頭が、地を蹴った。


俺はステッキを真横に振り抜いた。


「『光になれ ―― 銀獅の閃光』」


声は、自分のものではなかった。鈴を鳴らすような、可憐な少女の声。だが、口にしている言葉と温度は、40歳間際の男のものだった。


ステッキから放たれた光の柱が、影狼の群れを薙ぎ払った。


瞬きの間。それで終わりだった。


8頭の影狼は、地面に落ちることもできずに消滅した。光が引いた後には、わずかな魔力の残滓だけが空気に漂っていた。


俺はステッキを下ろし、手元の魔力残量を確認した。


消費魔力、想定の72パーセント。理論値より10パーセント低い。良好。ステッキの古代語刻印が、想定以上に魔力を増幅している。次回は出力をさらに絞れる。


商人たちが、声も出せずに俺を見つめていた。


俺は彼らの方に向き直り、可憐な少女の顔で、40歳の男の温度で、口を開いた。


「無事か」


商人の妻が、ぴくりと肩を震わせた。声と顔と中身が、一致していない。


「あ、はい……ありがとう、ござい、ます……あの、お嬢、さま……?」


「礼は要らない。ただ実証データが取れただけだ」


俺は淡々と告げた。妻と娘が、顔を見合わせた。商人が、口を開きかけて、閉じた。


想定通りの反応。声色と発言内容の乖離による認知的混乱。記録しておく。


「怪我はないな?」


「……は、はい……」


「ならば良い」


俺はステッキを地面に立て、再び詠唱を ―― 今度は逆向きに ―― 唱えた。


光がほどけ、装束が消え、身体が元に戻った。プラチナの髪が縮み、灰色混じりの短髪に戻る。骨格が広がり、筋繊維の密度が落ち、魔力回路が縮む。声が低くなる。


38歳の、地味なおっさんが、街道に立っていた。


商人たちが、もう1度、息を呑んだ。


「お、お、お嬢さんが、おじさんに……?」


「正確には逆だ」と俺は言った。「俺が、本来の姿だ」


商人は何度か瞬きをして、それから、深く頭を下げた。


「あ、ありがとうございます……命の恩人です……」


「気にするな。実証の対価としては、こちらが受け取る側だ」


俺は背嚢を担ぎ直した。ステッキを布で包み、再び括り付ける。


「1つだけ頼みがある」


「は、はい、何なりと」


「今のことは、あまり広めないでくれ」


商人は何度も頷いた。だが、俺はわかっていた。この衝撃を、彼らは黙っていられないだろう。隣町に着けば、必ず誰かに話す。それが噂になり、酒場で広まり、やがて冒険者ギルドに届く。


それでいい。


むしろ、そうでなければ困る。


実証段階・第1試行、成功。次は中規模ダンジョンでの連続戦闘耐久試験。隣町のギルドで情報を集めよう。


俺は商人たちに軽く頷いて、街道を歩き出した。


夕日が、森の梢を金色に染めていた。


銀獅の閃光、と俺は技の名を心の中で繰り返した。命名は美観ではなく、分類上の正確さを優先した。光属性、獅子座系統、第一階梯。魔法少女形態における基幹技の1つ。


悪くない手応えだった。


3年の研究は、嘘をついていなかった。


魔法少女・ルミナ・レオニス。実証の旅は、今、始まったばかりだ。

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