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第8話:古き地図と、立ち入り禁じられた森

カイが作ったろ過装置、燻製小屋、水車、そして土を休ませる輪作の知恵。

それらのおかげで、村は厳しい冬と病の脅威を見事に乗り越え、かつてないほど豊かで穏やかな春、そして夏を迎えることができた。

かつては生きることに精一杯で、明日への不安に怯えていた大人たちの顔には、今や確かな余裕と、穏やかな笑みが定着している。

しかし、命が巡り、季節が移り変わる世界において、避けられない「別れ」もまた、静かに訪れようとしていた。

秋の気配が色濃くなり始めた頃。

村で最も長く生き、百年前の悪夢の伝承を語り継いできた長老が、静かにその寿命を迎えようとしていた。病ではなく、ただ天寿を全うするための、穏やかな枯死であった。

「長老……」

薄暗い家の中。藁のベッドに横たわる長老を囲むように、ザックをはじめとする村の大人たち、そしてカイとリンが静かに集まっていた。

長老の呼吸は羽毛のように軽く、目はうっすらと閉じられている。しかし、その表情は少しも苦しそうではなく、むしろ全てをやり遂げたような、深い安らぎに満ちていた。

長老は微かに目を開け、枕元に立つカイを見つけると、しわがれた細い手をゆっくりと伸ばした。

カイがその手を両手で包み込むと、長老はかすれた、だが温かい声で口を開いた。

「……カイ。そして、リンや。よく、来てくれたな」

「長老、喋らない方がいいよ。まだ、僕たちの作った美味しいパンをいっぱい食べてよ」

カイが泣き出しそうな声で言うと、長老は優しく微笑み、首を横に振った。

「十分じゃ。ワシは、この村が飢えと寒さに怯えず、笑い合って暮らせる日を見ることができた。お前たちの持ってきた知恵が、この村を楽園に変えてくれた。……もう、何も思い残すことはない」

長老は一度深く息を吸い、ザックに目配せをした。ザックが頷き、部屋の奥から古びた小さな木箱を持ってきて、長老の胸の上に置いた。

「カイ……。ワシが死ぬ前に、お前に託しておきたいものがある。この木箱を、開けてみなさい」

言われるままに、カイは木箱の留め具を外し、そっと蓋を開けた。

中に入っていたのは、ボロボロに風化し、端が欠け、今にも崩れてしまいそうなほど古い『地図の切れ端』だった。羊皮紙のような古い紙に、色褪せたインクで何かの地形が描かれている。

「これは……?」

「それは、百年前……悪夢の大戦を生き延びた我々の先祖が、この村に辿り着いた時に持っていたものだと伝えられとる」

長老は、途切れ途切れの息の中で語った。

「その地図に記されているのは、村の北側に広がる『立ち入りを禁じられた深い森』の奥深くじゃ。……かつて、悪魔が炎と鉄の槍を降らせ、世界を焼き尽くしたと言われる地獄の中心。先祖たちは、あそこには『目に見えない毒』が満ちており、近づけば血を吐いて死ぬと言い伝えてきた」

村の大人たちが、恐ろしげに息を呑む。

百年前の戦争で使われたという、大地を汚染する見えない毒。それがどれほど恐ろしいものか、彼らは伝承として深く魂に刻み込まれているのだ。

「だがな……」と長老は続けた。

「ワシは、ずっと不思議に思っておったんじゃ。もしそこがただの地獄の跡地なら、なぜ先祖はわざわざ地図を残した? 見てみろ、カイ。その地図の中心には、何が描かれておる?」

カイは、手元の古地図に顔を近づけた。

そこに描かれていたのは、焦土やクレーターなどではない。

深い森に囲まれた、青く澄んだ『湖』。そして、その湖畔にポツンと描かれた、小さな『木造の家』のような印だった。

その印を見た瞬間。

カイの心臓が、ドクン、と信じられないほどの強さで跳ねた。

(……静かな湖畔の横に、ちっちゃなロッジを建てて……一緒に暮らしたいなぁ……)

脳裏に、パチリと映像がフラッシュバックした。

焦点の合わない瞳をした、真っ白な服を着た少女。瓦礫の中で血に染まり、それでも最後に、怒りでも絶望でもなく、ただ自分の無事だけを喜んで微笑んだ、あの幻影。

「あ……」

カイの口から、無意識のうちに声が漏れた。

気がつけば、カイの瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、古地図の端を濡らしていた。

悲しいわけではない。恐ろしいわけでもない。

ただ、途方もなく深く、心のずっと奥底を締め付けるような、強烈な『郷愁』が、カイの全身を激しく揺さぶっていたのだ。

「カイ……? どうしたの、なんで泣いてるの?」

隣にいたリンが、驚いてカイの顔を覗き込んだ。カイ自身にも、なぜ自分がこれほどまでに涙を流しているのか、全く説明がつかなかった。

(……僕は、あそこへ行かなきゃいけない)

理由は分からない。けれど、あの湖畔の景色を見た瞬間、カイの魂に刻まれた「忘れてはならない何か」が、強烈に彼を呼んでいた。あの場所には、かつての自分が決して叶えることのできなかった、あるいは、すべてを投げ出してでも叶えたかった『たった一つの約束』が眠っている。そんな気がしてならなかった。

長老は、涙を流すカイの顔を見て、すべてを悟ったかのように深く頷いた。

「……やはりな。カイ、お前のその不思議な知恵と、時折見せる大人びた瞳。ワシは、お前がどこか遠い場所から、この村を救うためにやってきたような気がしてならなかったんじゃ。……その地図は、お前が持っていなさい。それが、お前を導くかもしれん」

「長老……」

「ワシは……少し、眠るよ。……良い、夢が見られそうじゃ」

長老はゆっくりと目を閉じ、そして、二度と開くことはなかった。

村を優しく見守り続けた長老の、安らかで、穏やかな最期だった。

***

長老の葬儀から数日が過ぎた。

村は悲しみに包まれながらも、カイとリンがもたらした豊かな生活の仕組みによって、前を向いて歩き始めていた。

そんなある夜。

カイは村の大人たちが集まる広場に赴き、真剣な顔で口を開いた。

「ザックおじさん。……僕、あの地図の場所へ行ってみたいんだ」

「なんだと!?」

ザックをはじめとする大人たちが、一斉に顔色を変えた。

「ダメだ、カイ! あそこは『百年前の悪夢』の中心地だぞ! 長老も言ってただろう、目に見えない毒が満ちている呪われた森だと!」

「そうよ! せっかく村が豊かになったのに、お前が死んじゃったらどうするんだい!」

大人たちが猛反対するのも無理はなかった。彼らにとって、北の森は絶対的なタブーであり、死の象徴なのだ。

しかし、カイは真っ直ぐな瞳でザックを見つめ返した。

「……目に見えない毒は、もう消えてるよ」

カイの頭の中にある知識が、そう告げていた。百年という歳月が経てば、大地を汚染した恐ろしい毒も、自然の力によって浄化され、人間が足を踏み入れても問題ないレベルまで薄まっているはずだ、と。

「それに、あの森の木々を見てよ。村の周りよりも、ずっと深く、青々と茂っているじゃないか。もし本当に毒の森なら、あんなに綺麗な緑が育つはずない。……お願いだ、ザックおじさん。僕には、どうしてもあの場所に行かなくちゃいけない理由がある気がするんだ」

カイの決意に満ちた声に、大人たちは言葉を詰まらせた。

いつだってカイの言うことは正しかった。泥水を透明に変え、硬い干し肉をご馳走に変え、病に倒れた命を救った。この少年の瞳には、大人たちには見えない「真実」が映っていることを、村の誰もが痛いほど理解していたのだ。

「……あたしも行く!」

重い沈黙を破ったのは、リンだった。

彼女は腰に下げた鉄のナイフをポンと叩き、カイの隣に並び立った。

「リン! お前まで何を言うんだ!」

ザックが声を荒げたが、リンは一歩も引かなかった。

「お父さん、あたしはカイの相棒だよ! カイが不思議な知恵を出すなら、あたしが手足になってカイを守るって決めたんだ! カイ一人じゃ、森の奥でツルに足を取られて転ぶのがオチでしょ。あたしがいれば、絶対にカイを安全に連れて帰ってくるから!」

「お前なぁ……」

ザックは頭を抱え、深く、深くため息をついた。

やがて、彼は広場にいる大人たちを見回し、諦めたように笑い声を上げた。

「……ははっ。どうやら、俺たち大人が束になっても、この『相棒』の絆には勝てそうにないな」

ザックはカイとリンの肩に、大きな両手を置いた。

「いいか、よく聞け二人とも。お前たちは今や、この村の宝だ。もし途中で少しでも危険を感じたら、あるいは息苦しさや体の異常を感じたら、地図のことなんか忘れて一目散に逃げ帰ってくること。……約束できるな?」

「うん! 約束する!」

「ありがとう、ザックおじさん!」

二人が元気よく頷くと、大人たちは二人の冒険を後押しすべく、準備に取り掛かってくれた。

***

出発の朝。

空は抜けるように青く、冷たい秋の空気が肺を清々しく満たしていた。

カイとリンの背中には、村の大人たちが用意してくれた荷物が背負われている。

日持ちのする黄金色の燻製肉、水車で挽いた粉を固く焼いた保存用のパン、竹筒にたっぷりと詰められたろ過装置の綺麗な水。そして、寒さを凌ぐための分厚い毛皮の外套。

リンの腰には行商人から手に入れた鉄のナイフが輝き、カイの懐には、あの古地図がしっかりと収められていた。

「気をつけてな! 無理するんじゃないぞ!」

「カイ、リンちゃん、いってらっしゃい!」

村の入り口で、全ての人々が笑顔で手を振って見送ってくれる。

百年前、全てを破壊し、ただ憎悪と恐怖だけを振り撒いた悪魔の最期とは、何もかもが違っていた。

今のカイの背中には、たくさんの人々の温かな祈りと、確かな愛情が込められているのだ。

「……行こう、リン」

「うんっ! 任せて、あたしが先頭を歩くからね!」

リンが元気に駆け出し、カイがその後を追う。

二人の小さな足跡が、村から伸びる道に刻まれていく。

目指すは、北の禁忌の森。かつての絶望の中心であり、カイの魂が求める、名もなき約束の地。

森の入り口に立つと、圧倒的な静寂が二人を包み込んだ。

何百年も手付かずだったかのような、巨大な古木が天を覆い隠し、足元には深い苔が絨毯のように広がっている。

鳥の鳴き声すら吸い込まれてしまうような、荘厳で、少しだけ恐ろしい森。

カイは一度だけ村の方を振り返り、小さく深呼吸をしてから、リンと共にその深い緑の闇の中へと、決意の一歩を踏み出した。

ステータス「1」の少年と、快活な猟師の少女の、最初で最後の小さな冒険が、今はじまろうとしていた。


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