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第7話:小さな危機と、命を救う薬草

行商人のバルドが村を去ってから数週間後。

村を囲む森の木々は完全に葉を落とし、冷たい北風が容赦なく吹き荒れる季節がやってきた。朝起きると、水桶の表面には薄く氷が張り、吐く息は真っ白に染まる。

いよいよ、長く厳しい冬の始まりであった。

今年の村は、燻製肉と水車で挽いた麦粉のおかげで、食料の蓄えは十分にあり、人々の心にはかつてない余裕があった。

しかし、大自然は決して人間を甘やかしてはくれない。飢えの恐怖が去った村に、今度は別の「脅威」が音もなく忍び寄っていた。

「……ゲホッ、ゴホッ!」

ある日の朝、村のあちこちの家から、重苦しい咳き込む音が聞こえ始めた。

最初は、小さな子供たちが数人、熱を出して寝込んだだけだった。しかし、寒さと乾燥に乗じて、その「見えない病魔」はあっという間に村中に広まっていった。大人たちも次々と高熱を出し、激しい腹痛と咳に苦しみ始めたのだ。

「お、お父さん! しっかりして!」

リンの悲痛な声が、ザックの家から響いた。

カイが駆けつけると、あの熊のように屈強だった猟師のザックが、藁のベッドの上で顔を真っ赤にして荒い息を吐いていた。額には玉のような汗が浮かび、時折、苦しげに腹を押さえて呻いている。

「ザックおじさん……!」

「おお……カイか。すまねぇな、だらしない姿を見せちまって……。ゲホッ!」

ザックは無理に笑おうとしたが、すぐに激しい咳に襲われ、身体を丸めた。

村の長老が、心配そうにザックの額に濡らした布を当てながら、深くため息をついた。

「たちの悪い『冬風邪』じゃ。この寒さで腹も冷やしてしまったのだろう。……こうなっては、ただ身体を温め、熱が引くのを祈るしかない」

この村には、医者もいなければ薬もない。病にかかれば、自らの生命力だけを頼りに嵐が過ぎ去るのをじっと耐えるのが、この世界の当たり前だった。

リンは、苦しむ父親の手を力強く握りしめながら、泣きそうな顔でカイを見た。

「カイ……。お父さん、熱が全然下がらないの。昨日の夜から、水も飲めなくて……」

いつも太陽のように明るいリンの瞳が、恐怖で震えている。

カイは、ザックの荒い呼吸音を聞きながら、ギュッと唇を噛み締めた。

(……祈るだけなんて、そんなのダメだ)

カイの脳裏に、いくつもの植物の形と、その「効能」が、古い図鑑のページをめくるようにパタパタと浮かんでは消えていく。

(熱を下げるには……川辺に生えている、枝が下に垂れ下がった『やなぎ』の木の皮。腹痛と咳を抑えるには、森の日陰に生える、葉がギザギザした『紫の草』と、土の中にある『生姜しょうが』に似た根っこ……!)

なぜそんな知識があるのかは、やはり分からない。

だが、その植物の成分(柳の皮に含まれるサリシンという解熱鎮痛成分など)が、人間の身体にどう作用するのか、カイの頭の中にははっきりとした理屈が存在していた。

「リン!」

カイは、リンの肩を両手でしっかりと掴んだ。

「おじさんの熱を下げる方法がある! お腹の痛みを治す草も、僕の頭の中にあるんだ。……でも、今の季節、森の奥深くに入らないと見つからないかもしれない」

リンは、ハッと顔を上げた。その瞳から涙が引っ込み、代わりに強い決意の光が宿る。

「……行く! アタシが行くよ! どんな草か、教えて!」

「僕も一緒に行くよ。実物を見ないと、毒草と間違えちゃうかもしれないから」

「でも、カイの体力じゃ……」

「大丈夫。リンが一緒だもん。最高の相棒なんでしょ?」

カイが無理をして微笑むと、リンは大きく頷き、腰に下げた真新しい鉄のナイフをポンと叩いた。

「……うんっ! アタシが絶対に、カイとお父さんを守るから!」

***

二人は分厚い麻の外套を羽織り、村人たちが止めるのも聞かずに、木枯らしの吹く森の中へと足を踏み入れた。

冬の森は、夏のような豊かな生命力はなく、どこまでも静かで冷たかった。枯れ葉を踏む音だけがカサカサと響く。

カイは記憶の中の映像を頼りに、川沿いの道を歩きながら周囲の植生に目を凝らした。

「リン、あそこ! あの川のすぐ傍に生えている、枝が細くて垂れ下がった木!」

カイが指差した先には、寒々しい川岸に立つ一本の柳の木があった。

二人は斜面を滑り降り、その木の根元に辿り着いた。

「この木の『皮』を剥ぐんだ。白い部分に、熱を下げる薬が詰まってる」

「わかった! 任せて!」

リンは腰の鉄のナイフを抜き、柳の木の幹に刃を立てた。

サクッ、という小気味良い音と共に、刃が木の皮を切り裂いていく。前世の高度な技術で作られた刃物には及ばないだろうが、バルドから手に入れた鉄のナイフは、見事な切れ味で必要な樹皮を剥がしてくれた。

「すごいね、リン。綺麗に剥けてる」

「へへっ。お父さんに教わったナイフの使い方と、この新しいナイフのおかげだよ!」

柳の皮を十分に確保した二人は、次に腹痛と咳を鎮める薬草を探すため、さらに森の奥深くへと進んだ。

日差しが遮られた森の奥は、急激に気温が下がる。カイの吐く息は白さを増し、足取りも少しずつ重くなっていった。

「カイ、大丈夫? 寒くない?」

リンが振り返り、自分の外套をカイに掛けようとする。

「平気だよ。……あっ、リン、そこ! その大きな岩の影!」

カイの視線の先、湿った岩肌の影に、紫色を帯びたギザギザの葉を持つ草が群生していた。さらにその近くの土を掘り返すと、ゴツゴツとした生姜によく似た根茎植物が見つかった。

「これだ……間違いない。これを煮出せば、咳もお腹の痛みも治まるはずだよ」

「やった! これでお父さんも、村のみんなも助かるね!」

リンが泥だらけになりながら根っこを掘り出している間、カイは冷え切った両手をこすり合わせながら、その様子を見つめていた。

(……不思議だ)

ふと、カイは自分の泥だらけの小さな手のひらを見つめた。

今、自分の手は、柳の樹液と、薬草の青臭い匂いで汚れている。

だが、カイの記憶のずっと奥底、名状しがたい虚無の中にいた「かつての自分」の幻影は、いつも違うもので手を汚していたような気がするのだ。

――それは、ねっとりとした赤黒い液体。

命を奪い、世界を壊し、他者の絶望を引きずり出すことでしか、自分の退屈を紛らわせることができなかった、空っぽの記憶の残滓。

けれど今は違う。

自分の頭の中にある知識は、誰かを傷つけるためではなく、誰かの痛みを和らげ、命を繋ぐために使われている。

目の前で一生懸命に土を掘るリンの背中を見ていると、カイの胸の奥で、その冷たく暗い記憶の残滓が、薬草の優しい香りに上書きされ、温かな光へと溶けていくのを感じた。

「カイ! いっぱい採れたよ! 早く帰ろう!」

リンの元気な声に、カイはハッと我に返った。

「うん、急ごう!」

***

村に戻った二人は、すぐに長老の家の囲炉裏を借りて、薬作りに取り掛かった。

鉄の鍋に水を張り、細かく刻んだ柳の皮、紫の薬草、そしてすり潰した根っこを入れて、火にかける。

グツグツと水が沸騰するにつれて、部屋中に、独特のツンとするような、強い草の匂いが立ち込めた。

「うわぁ……なんか、すっごく苦そうな匂い」

リンが鼻をつまんで顔をしかめる。

「うん、すっごく苦いと思う。でも、これが効くんだ」

十分に成分を煮出した後、カイはその茶色い液体を木の椀に注ぎ、ザックの寝ている家へと運んだ。

「ザックおじさん、少しだけ起き上がれる? これを飲んでほしいんだ」

ザックは朦朧とする意識の中で、リンに身体を支えられながら、その椀に口をつけた。

「……ッ!! に、苦ぇ……!」

あまりの苦さにザックの顔が歪んだが、カイは「全部飲んで!」と真剣な目で促した。ザックは息を止め、一気にその薬湯を飲み干した。

「よし……あとは、身体を温めて、ゆっくり寝てて」

カイは、他の熱を出している村人たちの家にも、リンと共に手分けしてこの「薬湯」を配って回った。村中から「苦い!」「舌が曲がる!」という悲鳴が上がったが、皆、カイの言うことならと信じて飲み干してくれた。

その日の夜。

カイとリンは、ザックの枕元で、ずっとおしぼりを替えながら看病を続けていた。

真夜中を過ぎた頃、ザックの身体から滝のような汗が噴き出し始めた。薬草の解熱作用が、一気に効き始めたのだ。

リンが懸命にその汗を拭き取り、乾いた服に着替えさせる。

そして、夜明け前。

外で小鳥がチュンチュンと鳴き始めた頃、ザックがゆっくりと目を開けた。

「……お父さん?」

リンが恐る恐る覗き込むと、ザックの焦点がしっかりとリンを捉えた。あの苦しげな荒い呼吸は消え、顔の赤みもすっかり引いている。

「……リン。……カイも、いるのか」

ザックはゆっくりと上半身を起こした。

「……なんだか、憑き物が落ちたように身体が軽いぞ。熱も……下がってるみたいだ」

「お父さんっ!!」

リンが泣きながらザックの胸に飛び込んだ。ザックは大きな手で、娘の背中を優しく撫でた。

「腹の痛みも、嘘みたいに消えちまった。……カイ、お前がまた、不思議な知恵で助けてくれたんだな」

ザックがカイを見て微笑む。

「僕の知恵と、リンの行動力だよ。リンがナイフで皮を剥いで、草を掘ってくれなかったら、絶対に間に合わなかったから」

カイが言うと、リンは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、照れくさそうに笑った。

「へへっ、アタシたち、やっぱり最強の相棒だね!」

その日の昼頃には、薬湯を飲んだ他の村人たちも、次々と熱を下げ、起き上がれるまでに回復していた。

「カイ、お前のおかげだ! あの苦い水は、まさに命の水だよ!」

「本当にありがとう、カイ! リンちゃんも、森まで行ってくれてありがとうね!」

村人たちから感謝の言葉を浴びせられながら、カイは胸の奥が熱くなるのを感じていた。

炭で水を綺麗にしたときや、燻製肉を作ったときのような「生活を豊かにする喜び」とは違う。誰かの『命』を、自分の手で直接救い上げたという、重く、確かな充足感。

(……僕は、生かしている。自分の知恵で、人を生かしているんだ)

長老が、ふらつく足で歩いてきて、カイの前に深く頭を下げた。

「カイよ。お前のその知識は、ただの生活の知恵を超えている。お前は、我々の命の恩人だ。この村は、お前たち二人の力によって、どんな困難も乗り越えていけるだろう」

カイは、照れくさそうに首を横に振った。

「そんな大げさなものじゃないよ。……ただ、みんなに元気でいてほしいだけなんだ」

風邪の脅威が去り、村には再び穏やかな日常が戻ってきた。

冬の陽だまりの中、カイはふと、もらったばかりの鉄の小刀を取り出し、手頃な木の枝を削り始めた。木を削るサクサクという小さな音が、平和な空気に溶けていく。

刃物は、使い方次第だ。

命を奪うための武器にもなれば、薬草を採り、木の温もりを形にするための道具にもなる。

そして知識もまた、世界を壊すためではなく、世界を優しく守るために使うことができるのだ。

カイは、傍らで猪の肉を嬉しそうに頬張る相棒のリンの笑顔を見つめながら、この小さな村で過ごす日々の、何にも代えがたい尊さを噛み締めていた。

厳しい冬はまだまだ続く。しかし、彼らの心の中には、どんな寒さにも負けない、確かな希望の炎が暖かく燃え続けていた。


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