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第2話:木炭と砂の魔法

村の共同井戸から自分の家へと駆け戻ったカイは、一直線に裏庭の灰捨て場へと向かった。

昨晩の宴で使われた焚き火の残骸が、まだ微かに白い煙を上げながら山になっている。カイはその中から、完全に灰になっていない、黒く炭化した硬い木片を素手で拾い集め始めた。

「熱っ……」

時折、まだ熱を持った炭に触れて指先を赤くしながらも、カイは夢中で形の良い木炭を選り分けていく。麻の服の裾を広げて前掛け代わりにし、そこに次々と放り込んでいくと、あっという間に服も顔も真っ黒な煤だらけになった。

(なぜ、こんなことを知っているんだろう)

木炭を集めながら、カイの頭の片隅で冷静な疑問が浮かんでいた。

木を不完全燃焼させて作る炭は、村でも冬の間の貴重な燃料として使われている。だが、それが「水の汚れや臭いを吸い取る」という性質を持っていることなど、村の大人たちでさえ誰も知らないはずだ。それなのに、カイの脳裏には「多孔質(目に見えない無数の小さな穴)の炭が不純物を吸着する」という理屈すら、はっきりと理解できる形で刻み込まれていた。

まるで、遠い昔に高度な知識を持った誰かが、自分の頭の中にそっと設計図を置いていったかのような感覚。

だが、カイはその出処不明の知識に対して、不気味さや恐れは抱かなかった。むしろ、この小さな手で村の役に立てるかもしれないという静かな興奮が、彼の手を動かし続けていた。

木炭を両手で抱えきれないほど集めたカイは、次にそれらを石で叩いて細かく砕き始めた。大きすぎる炭では隙間ができてしまい、水がそのまま通り抜けてしまうからだ。コン、コン、と庭石の上で炭を砕く音が、昼下がりの静かな村に響く。

炭を指先ほどの大きさに揃え終わると、カイはそれを木の桶に移し、今度は村の脇を流れる小川へと向かった。

小川の水も、数日前の大雨の影響でまだうっすらと茶色く濁っている。

カイは川岸にしゃがみ込み、そこにある砂と小石を集め始めた。これもただ集めるだけではない。泥が混ざったままの砂を使っては、ろ過するどころか逆に水を汚してしまう。カイは集めた砂と小石を浅いザルに入れ、何度も何度も川の水ですすいだ。

濁った水がザルから抜け、砂と石だけが残る。最初は泥水が出ていたザルも、十回、二十回とすすぐうちに、やがて透き通った水だけが落ちるようになった。

「ふぅ……」

冷たい川の水に手を浸し続けていたため、指先はすっかりふやけて白くなり、腰はパンパンに張っていた。

カイは額の汗を手の甲で拭った。煤と汗が混ざり、彼の顔は泥棒猫のように真っ黒になっていたが、その表情は充実感に満ちていた。

指を鳴らせば一瞬で世界が変わるような魔法など、ここにはない。

水を綺麗にするというたったそれだけのことのために、炭を砕き、砂を洗い、腰を痛めて何時間も労働しなければならない。それはひどく手間で、退屈で、非効率的な作業のはずだ。

けれど、カイはこの「時間がかかる」という事実そのものが、途方もなく愛おしかった。自分が動いた分だけ、世界がほんの少しだけ良い方向へと形作られていく。その確かな手応えが、カイの心を満たしていた。

材料が揃うと、カイは家の中から底に小さな穴の空いた古い竹筒を見つけ出してきた。かつて穀物を保存していたが、割れ目ができて使われなくなったものだ。

カイはまず、竹筒の一番底、穴の空いている部分に、母親の裁縫箱からこっそり貰ってきた清潔な麻布を丸めて詰めた。これが最後のフィルターとなり、ろ過材が流れ出すのを防ぐ。

その麻布の上に、先ほど洗って乾かした細かい砂を敷き詰める。

その上に、細かく砕いた木炭を厚く敷く。

さらにその上に細かい砂を重ね、最後に一番上に、洗った小石を敷き詰めた。小石は、上から水を注いだときに、その勢いで下の砂や炭がえぐれてしまうのを防ぐための役割がある。

(よし、これで完成だ)

カイは泥だらけの手で、自作の「簡易ろ過装置」を持ち上げた。重さはそこそこある。

彼は庭の切り株の上に木でできた綺麗な椀を置き、その上に竹筒をセットした。そして、隣に置いてあった桶から、問題の「茶色く濁った井戸水」をゆっくりと竹筒の上部へと注ぎ込んだ。

ジョロジョロ、と音を立てて濁った水が小石の層へと吸い込まれていく。

カイは息を詰め、竹筒の底の穴を見つめた。

一秒、二秒、三秒。

水はすぐには出てこない。小石の隙間を抜け、細かい砂の層を通り、木炭の無数の穴に不純物を絡め取られながら、ゆっくりと、ゆっくりと下へと浸透していくのだ。

やがて。

ポツリ、と。

竹筒の底から、一滴の雫が椀の中へと落ちた。

続いて、ポツ、ポツ、と規則正しいリズムで水滴が落ち始める。

椀の底に溜まっていくその液体を見て、カイは思わず目を丸くした。

それは、先ほどまで茶色く濁っていた泥水とは似ても似つかない、朝露のように無色透明で、キラキラと太陽の光を反射する「澄み切った水」だったのだ。

カイは震える手で竹筒をどけ、水が半分ほど溜まった椀を持ち上げた。

鼻を近づけてみる。あの嫌な泥の臭い、カビのような臭いが、完全に消え去っている。

カイは椀に口をつけ、その水をゆっくりと飲み込んだ。

「……あまい」

思わず、声が漏れた。

冷たく、雑味がなく、むしろ炭のミネラル分が溶け出したのか、井戸水本来のまろやかな甘みが舌の上に広がった。完璧な、美味しい水だった。

カイは小さなガッツポーズを作ると、竹筒と濁った水の入った桶を抱え、村の中央の広場へと駆け出した。

***

夕刻が近づき、村の広場にある共同井戸の周りには、夕食の準備のために水を汲みに来た大人たちが集まっていた。

「困ったねぇ。まだ泥が沈んでいないよ」

「これじゃあ、せっかくの麦粥も泥臭くて食べられたもんじゃない。子供たちも嫌がって飲まないしね」

村の屈強な農夫であるザックが、腕組みをしながら桶の濁った水を見てため息をついている。周囲の女たちも、困り顔で頷き合っていた。

そこへ、顔から服まで真っ黒な煤だらけにしたカイが、大きな竹筒を抱えて走ってきた。

「ザックおじさん! 皆!」

「おや、カイじゃないか。どうしたんだい、その真っ黒な格好は。山で転びでもしたのか?」

ザックが目を丸くして笑うと、周囲の大人たちもドッと笑い声を上げた。

カイは息を切らしながら、井戸の縁に竹筒と空の椀を置いた。

「これ、見てて!」

カイは大人たちが止める間もなく、ザックの持っていた桶から茶色く濁った泥水をひしゃくですくい、自作の竹筒の中へと勢いよく流し込んだ。

「こらこら、カイ。何をしてるんだ。水遊びなら川でやりなさい」

ザックが苦笑いしながら窘めようとしたが、カイは「下を見てて!」と椀を指差した。

大人たちが怪訝そうな顔で竹筒の底を覗き込む。

やがて、ポツ、ポツリと、竹筒の底から水滴が落ち始めた。

「……ん? おい、水が……」

ザックの目が、驚きに見開かれた。

椀に溜まっていく水滴が、まるで湧き水のように透き通っていたからだ。周囲の大人たちも、その異変に気づいてざわめき始めた。

「嘘だろう……さっき入れたのは、あの泥水だぞ?」

「どうなってるんだい、あの筒の中は……」

椀に水がいっぱいになると、カイはそれを両手で持ち上げ、ザックへと差し出した。

「飲んでみて」

「お、おう……」

ザックは半信半疑のまま椀を受け取り、恐る恐る口をつけた。一口飲み込み、彼の動きがピタリと止まる。

「……ザック? どうしたんだい?」

周囲の心配そうな声に、ザックはもう一口、今度はゴクゴクと勢いよく水を飲み干した。そして、信じられないものを見る目でカイを見下ろした。

「臭いがない……いや、それどころか、ものすごく美味いぞ、この水! どうやったんだ、カイ!?」

「本当かい!?」

「私にも一口飲ませておくれ!」

他の大人たちも次々と竹筒に泥水を注ぎ、ろ過されて出てきた水を回し飲みし始めた。

その度に、「信じられない」「泥水が生き返った」という感嘆の声が広場に響き渡る。騒ぎを聞きつけて、カイの母親や、村の長老までもが家から出てきた。

長老はカイが作ったろ過された水を一口飲むと、深く、深く息を吐き出した。

「……見事だ。これは魔法などではない。石と砂、そして炭が持つ自然の力を借りた、生きるための知恵だ。カイよ、お前はこの仕組みをどうやって思いついたのだ?」

長老の問いに、カイは少しだけ首を傾げた。

「わからない。でも、炭には小さな穴がいっぱいあって、それが悪いものを捕まえてくれる気がしたんだ。砂と小石は、大きなゴミを止めるため。それだけだよ」

カイが竹筒の中身の構造を説明すると、大人たちは感心したように深く頷き合った。

「こりゃあ、たまげた。十歳の子供に教えられるとはな」

ザックが大きな手で、カイの煤だらけの頭をガシガシと撫で回した。

「ありがとうよ、カイ! おかげで今夜は、泥臭くない美味いスープが腹いっぱい飲めるぞ!」

「カイ、お前は村の救世主だよ!」

大人たちが次々とカイの肩を叩き、笑顔で感謝の言葉をかけてくる。母親は涙ぐみながら、真っ黒なカイをきつく抱きしめた。

その中心で、カイの胸の奥底に、これまでの十年の人生で感じたことのない、強烈で暖かな感情が込み上げていた。

世界中の人間をひれ伏させ、命を弄び、すべてを思い通りに支配したとしても、決して得ることのできなかったもの。

それは、他者の役に立ち、誰かの顔に純粋な笑顔を咲かせたという、ただそれだけの、あまりにもちっぽけで、途方もなく温かい「喜び」だった。

(……あぁ、そうか)

カイは、大人たちに揉まれながら、心の中で静かに理解した。

(これが、心が満たされるってことなんだ)

百年前の悪魔は、すべてを持っていたからこそ、退屈と虚無に食い殺された。

しかし今のカイは、ステータスはすべて「1」。力も、権力も、何一つ持っていない。だからこそ、自分の小さな知恵と両手を使って作り出した結果が、こんなにも尊く、心を震わせるのだ。

その日の夕方。

カイの指導のもと、村の男たちは巨大な木の樽を使い、井戸の横に巨大な「ろ過装置」を完成させた。これで、雨が降って川が濁った日でも、村の人々はいつでも澄んだ美味しい水を飲むことができるようになった。

夜。

質素な夕食を終え、藁のベッドに横になったカイは、月明かりに照らされた自分の両手を見つめた。

木炭を砕き、冷たい川の水で砂を洗い続けた手は、小さな傷ができ、あちこちが煤で黒く染まっていた。決して綺麗な手ではない。魔法使いのような、白くて滑らかな手でもない。

けれど、カイはこの泥臭くて傷だらけの自分の手が、たまらなく好きだと思った。

「……明日は、何をしようかな」

明日への期待。それは、かつての魂が決して抱くことのなかった、未来への希望そのものだった。

木々の葉が風に揺れる心地よい音を聞きながら、10歳の少年は、満ち足りた微笑みを浮かべて深い眠りへと落ちていった。

静かで、優しいスローライフの夜が更けていく

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