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謎の子  作者: Mr.Ara、mata
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春のある日

その夜、石川博は、人生で一番“静かなはずの時間”を過ごしていた。


六十歳。

製薬会社を退職したばかり。

二人の息子はとっくに独立し、家には妻の亜希と二人きり。


——ようやく、何も起きない生活が始まるはずだった。


「……ねえ」


午後九時を過ぎたころ、亜希が眉をひそめた。


「今、聞こえなかった?」


「何が?」


「子どもの声みたいなの」


博は耳を澄ます。


……たしかに聞こえる。


玄関のほうから、か細い泣き声。


「猫じゃないか?」


「猫にしては、人間っぽすぎるのよ」


「人間っぽい猫って何だよ」


そう言いながらも、博は立ち上がる。


妙に、いやな感じがした。


「そういえば昔、同じように猫が来たことあったな」


「ええ。あのあと大変だったわよね」


——あのときも、“勝手に入り込んできた”。


その記憶が、妙に引っかかる。


「……五分以上鳴いてるし、見に行くか」


玄関のドアを開けた、その瞬間だった。


「——っ!」


小さな影が、勢いよく飛び込んできた。


三歳くらいの女の子だった。


顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、博の足にしがみつく。


「えっ……」


それしか言葉が出ない。


遅れてきた亜希も、同じ顔をしていた。


「……あの、君は?」


問いかけても、女の子は首を振るばかりで、さらに強く抱きついてくる。


外を見る。


誰もいない。


本当に、誰も。


風の音だけが、やけに大きい。


「……この子、どうする?」


博の声は、少しだけかすれていた。


「……警察、かしら」


亜希の言葉も、いつもより遅い。


迷い猫ならぬ、迷い子。


——いや、それで済ませていいのか?


あまりに泣くので、とりあえず家に入れる。


温かい飲み物を渡すと、女の子はようやく泣き止んだ。


そして。


じっと、博を見上げた。


——まるで、「知っている人」を見るような目で。


その間に、亜希が警察へ連絡を入れる。


「ええ、知らない子なんです。玄関の前で泣いていて……はい、はい……」


電話を切ったあとも、女の子は動かない。


ただ、博の服をぎゅっとつかんだまま。


離そうとすると——


また、泣く。


激しく。


異様なほどに。


やがて警察官の佐藤がやってきた。


事情を聞きながら、じっと博を見る。


「……本当に、心当たりはないんですね?」


その視線が、妙に冷たい。


「ありません。隠し子なんて——」


そこまで言って、背中に別の視線を感じた。


振り返る。


亜希が、無言でこちらを見ている。


「……いや、違うからな?」


なぜか弁解している自分に、博は内心でうろたえた。


だが、問題はそこではなかった。


警察官が女の子を引き離そうとした瞬間——


「いやあああああ!!」


叫び声と同時に、蹴る、叩く、暴れる。


まるで“連れていかれること”を知っているかのように。


結局——


「……今日は、こちらで預かっていただけますか」


そう言われてしまった。


警察が帰ったあと。


さっきまで暴れていた女の子は——


ぴたりと泣き止んだ。


そして何事もなかったかのように、また博に抱きつく。


「……ねえ」


亜希の声が低い。


「まさかとは思うけど」


「違う」


即答した。


だが、間が悪いことに、次の瞬間。


二人の声が、ぴたりと重なった。


「俺の隠し子じゃないからな」


「私の隠し子でもないからね」


沈黙。


そして、ため息。


亜希がしゃがみこんで、女の子に目線を合わせる。


「ねえ、あなた。どこから来たの?」


少し間があって、女の子は言った。


「……知らない」


初めての言葉だった。


「お父さんとお母さんは?」


首を横に振る。


「じゃあ……この人のこと、知ってる?」


博を指さす。


女の子は、また首を振った。


——知らない。


——でも、離れない。


その矛盾に、博はようやく気づく。


(なんだ、この子は)


不思議なはずなのに。


なぜか、ほんの少しだけ。


胸の奥が、軽くなっていた。


女の子は、ふと部屋の奥を見た。


仏壇の横にある、家族写真。


そこに映る——若いころの夫婦と、二人の息子。


女の子は、指をさす。


「……これ」


「ん?」


「だれ?」


「これはな、昔の家族写真で——」


その瞬間。


女の子は、小さくつぶやいた。


「……ちがう」


「え?」


だが、すぐに何も言わなくなる。


——今のは、聞き間違いか?


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