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その後。
一緒に暮らし始めたリースは、ティナの無知ぶりにほとほと驚かされた。
人と深く関わる事なく逃げ隠れて暮らしてきたせいだろうか。
呆れたことに、ティナは悪ぶっていたくせに実際には裏社会のことなどほとんど理解していなかった。さりげに仄めかした人身売買や、娼館の話題や、悪い薬の話も全く噛み合わない。よくよく考えてみれば、ティナの父親が彼女に身売りを教えるわけもないけれど。だからと言ってここまで知らないでいられるものなのだろうか。
まったくこのお嬢さんは。
リースは話せば話すほど頭を抱えた。
これまで無事だったことが本当に奇跡に思えた。
さらに馬鹿正直に罰を受けたがるティナに、まさか本当に鞭うつわけにもいかず、リースはなんとか刑法が変わったと説明をして、納得させた。
リースはティナを屋敷に連れ帰ると、自分の隣の部屋を与えた。
*
「リース兄様!」
早朝。
自室から出てきたばかりのリースを見つけたティナが、少し怒ったように駆け寄ってきた。
リースは立ち止まり、ティナが追いつくのを待つ。
「おはようティナ」
にこりと微笑めば、通りすがりのメイドの怪訝な目がこちらに向けられた。リースの笑顔を気味悪く思っているのだろう。家でも外でも、リースが表情を緩めることなど無かったのだから、無理もない。いつも血なまぐさい事件に関わり、冷酷な噂をまとったリースに、屋敷の者たちは皆恐れながら、従っていた。そのリースが、笑っている。メイドは見なかったことにしようとしたのか、さっと廊下を過ぎていった。
ティナはそんな屋敷の使用人たちに気づくこともなく、リースに詰め寄る。
「おはよう兄……じゃ、なくてリース様」
呼び方を改めたのは、もうお互いに子供ではないからだった。
リースはティナに優しく首を傾げる。
仕事の為、ここ数日顔を合わせていなかったことを思えば、なにか暮らしに不自由があったのだろうかと心配になった。
「どうしたの?何か困ったことがあった?」
「ううん、皆さん良くしてくれて、困ったことなんてないけど、でも、あの!話が違うわ!私ここで働かせて貰えると思ってたのに」
真新しいドレスに身を包んだティナは、おどおどと両手を握りしめる。
なんだそのことかと、リースは素知らぬ顔で廊下を進んだ。
「働かせてあげるよ。でも今は人がいっぱいだからね。空きを探してるんだ」
「そう言ってもう一ヶ月よ」
わざと速く歩けば、ティナは雛鳥のように小走りでついてきた。リースは口元だけでこっそりと笑う。
「その事なんだけど。おじさんが遺した財産を今取り戻す手続きを踏んでるところなんだ」
「お父様の……?そんなものあるの?」
マレンカの侯爵家から奪い返した財産は、没収後、全て国庫に入ってしまった。
引き出すには時間と手間がかかる。ティナをティナと証明する手立てが残されていないからだ。ティナには他に親戚もなく、身分証も燃やしてしまっているという。だからリースは、ほうぼうを駆け回っていた。
「あるよ。必ずティナに返すからね」
「……あ、ありがとう」
喜んでくれると思ったのに。
どうしてかティナの声からは覇気がなくなった。
「ティナ?」
「あ、あの、お父様の財産ってきっと大金なんでしょう?」
「まあ、それなりには」
と、ティナは更に俯いてしまう。
「……そんなのきっと私は上手く遣いきれないから、リース様に預かってほしいわ。ううん、全額受け取って欲しい。リース様にできるお礼なんて、それくらいしかないもの」
「礼なんて……」
「だって、本当に助かったもの。リース様にはいくら感謝してもしきれないわ」
「うん……」
「ありがとう」
リースはふと立ち止まった。
虚しい。深いため息までつきそうになる。
こんなにも愛情を示しているのにちっとも進展している気がしない。ティナはリースの行為を、全て親切心だと勘違いしていた。
(ああそうだった)
リースは思い出した。この娘が、とてもとても鈍感だったことを。
リースは腹を括った。
家督は継いだ。
邪魔な両親は隠居させた。
多少の身分の差もどうにか出来る地位も築いた。
ティナにはストレートに伝える他ない。
「あのさ、ティナ」
「なに?」
「お礼なんていいから、俺と結婚してくれないかな」
言えば、ティナの両目がぱちぱちと瞬きを繰り返した。その仕草があんまり可愛くて、面白くて、ついつい、その目尻に唇を寄せる。
と、フリーズしていたティナが「わっ」と言って後ずさった。
一部始終を目にしていたらしいメイドが顔を真っ赤にして目を背ける。
呼びに来ていた従僕がそっと気配を消す。
リースは外野には構うことなく、身を引こうとしたティナの手を取り引き止めた。
「返事は?」
「……あ、あ、結婚、結婚って」
「俺とじゃ嫌?」
ティナの攻略法は心得ていた。
少しばかり寂しそうに笑えば、作戦通り、彼女は困ったように首を振る。
「い、嫌じゃない」
「じゃあいいよね。一生大切にするよ」
「で、でもどうして」
「そんなの、君が大好きだからに決まってるだろ」
きゃっと遠くからメイドの高い悲鳴が上がった。それも、複数。
けれどリースはティナを抱きしめることに夢中でそんなの少しも気にはならなかった。
ティナを抱き上げながら、リースは思う。小さい頃に、こう言っていれば良かったのかもしれない。兄妹なんてまわりくどい提案をせずに。
「ティナ、ティナ、愛してる」
耳元で囁いてやれば、ティナは顔を真っ赤に染めた。
明るい未来を予感して、リースも数年ぶりに声をあげて笑った。
***
それからしばらくたって、リースの部隊の噂は少しずつ変わっていった。
変わらずにリース達は罪人を捕らえ続けはしたが、初犯であればその事情を親身になって聞き始めたという。
冷徹だとか残虐だとか口にするものは減り、代わりに街の英雄にすら成りつつあった。
加えて、リースが愛妻家だという噂まで広がっていった。
そんな二人を伯爵家の使用人達も裏で表で、いつまでも温かく祝福するのだった。
読んでくださってありがとうございました!