「深い眠りから覚めて」
「深い眠りから覚めて」
これからどれほど描いたところで、お前ごときの才で、何を成せるわけでもないだろう。
それなのにお前、勘違いしてないか?
世界に自分が生きた証(作品)を残したいなど、身の程が過ぎるというもの。
そんな事は、一部の人間にのみ、許された特権だ。
本当は…気づいているんだろ?
哀れな女だな。
何よ、あんたの言う通りにしてやったのに。わたしの味方じゃなかったわけ?
味方? 自惚れるな。わたしはただ、お前が己れの才能のなさに絶望して、そうして腐っていくのを楽しんでいるだけだ。
嫌な奴。
それはどうも。これは趣味でね。
尾を一振りすると、虎は去って行く。
*******
…。
目が覚めると、暗い部屋に同心円が回っている。いつもの眩暈。
いつものあいつ(虎)。
これで幾夜続いた?
あれからずっとだ。
一晩に一度は何かしら、嫌味を言わないと気が済まないのか、あの虎は。
暖房に熱せられ、乾燥した空気に口を開くと、打ち上げられた魚のように、渇いた音が出て、痰が絡んだ。
冬なのに、全身汗をかいている。
台所まで行き、無意識に冷蔵庫の取手に手をかけ、あぁ、なんも無かったんだと思うが、勢いがついていて、そのまま開けてしまう。
暗い部屋に、扉の中より小さな光が丸く広がる。
あっ…。
いつ、来てくれたのか。
気づかなかった。
「起きたら、食べて。リンゴジュースも冷えてます。また、来ます」
ラップされた、肉じゃがの入った皿を抱え、わたしは、台所で跪く。
ひらひらと、メモが落ちる。
「また、来ます」の、また、と、来ます、の間が妙に空いていて、その余白に、拓也の躊躇や気遣いを感じて、こんなにも心配させ、迷惑をかけ、なのに、たった一つの誠意も愛情も、返せてないと思う。
芸術が、聞いて呆れる。
実際は、寂しくて、誰か、手を伸ばしてくれなきゃ、生きることさえ、ままならない。
もう何日も着替えてないスウェットのズボンをつかむ。シワシワで、絵の具だらけで、なんだよこれ、きったねーなぁ…笑えてくる。情けなくて。
あの日、美術館で別れてから、拓也とは会っていない。拓也どころか、誰とも会っていない。部屋に戻ったら、どこか心のスイッチが切れてしまった。
わたしは自分で自分のこと、もっとしっかりした女だと思っていた。
絵だけ描いていくなんて、拓也に啖呵を切ったくせに、実際は、筆を持つ気にさえならず、ナマコのようにひたすら眠り続け、逃げ続けている。
だってわたしは気づいてしまったのだ。
これからどれだけ努力しても、たかがしれている。
創美会の会員規約を眺めれば、その絶望が分かりやすい文言となって示されている。
一回の出品につき、0.5点。
佳作は1点。
ほとんど不可能に近い特選ですら、3点。
会友は、8点以上かつ、2名以上の審査会員の推挙を受け、準会員とする。
わたしは今、1点。
あと、何年、かかる。
準会員になるのさえ。
何もかもが、どうでもよくなった。
描いたところで、無駄だ。
才能のある人間が、競えばいい。
そこに挑もうなんて、どうかしてた。
ふと思う。
もし今わたしが描くことの全てを諦めて、その手に腕に、背中に縋りついて、もう何もわがままは言わないから、お嫁さんにして下さいと泣けば、拓也はもらってくれるだろうか。
ナマコのように、いや、ナマコにさえ劣る。逃げて、終日、そういう妄想ばかりしている。わたしは、汚い女だ。
知ってるさ、お前はもともと、そういう女じゃないか。
虎が、嗤う。
口が、というより、喉が痛い。
一年半ぶりに咥えた懐かしい銘柄。
ブランクがありすぎて、会社の喫煙所の場所も知らない。
だから、昔からの、ここで吸ってる。
誰も居ないと思ったから。
なのに…。
そういえば、昔から妙に勘のいい女だった。
「愛する女の事で、悩む男の横顔ってのも、悪くないわ」
おまけに、減らず口ときた。
「茶化すなよ。気分じゃない」
言って、手すりの向こうへ煙を吐き出す。
「ここ、禁煙よ」
チラッと見ると、聡子はタバコのパッケージを振って笑った。
「共犯に、なってあげるわ」
手すりを掴むと、マッチを磨る。
風に火が煽られる。
やがて、長く、煙を吐き出す。
「もう、やめたら? そんな面倒な子」
空っつーのは、こんな青かったんだな。手すりの向こうに広がる住宅街、遠く聞こえる踏切の音。微かに見えるのは、線路か。それを白い光で包むような丸い空。
蓮、今、見てるか? この空を。
それともまだ、あの部屋を締め切って、寝てるのか?誰も受け付けようとせず。
お前の傷が癒えたなら、また、まぐろ、一緒に食いに行こうなぁ。
お前があの日言ったように、俺には絵の事なんて分からないし、一緒に居ても、お前を苛つかせるばかりなんだろうな。
「最近、連絡も取れないんでしょ?」
ごめんなぁ、折角あの時、あの美術館のカフェスペースで、俺の事を見てくれたのに。拓也さん…そう声をかけてくれたのに。気の利いたことひとつ、言ってやれなくて。お前を怒らせて。
「山口さん…つーか、誰もいないからこう呼ぶか、聡子」
久しぶりの煙草はやはり苦い。気を抜くと咳き込みそうだ。
「お前は、いい女だよ。美人でスタイルも良くて仕事も出来て。そういや、料理も、色々教わったな。カレーとか肉じゃがとか。あれ、結構、役に立ってるんだぜ」
シッと、投げた吸殻は、うまいこと排水溝の隙間へ吸い込まれていった。
「他の女に、尽くす為に教えたんじゃないわよ。…口説くなら、もっと上手にやってよね」
言い捨てて去って行くヒールの音を聞きながら、もう一度、手すりの向こうへ視線をやる。眩しくて、目を細める。
空って、青いじゃない。丸い、なんだな。そのことを、蓮に話したい。
そんなことを、蓮と話したい。
…響く。知ってる。聞こえる。
「拓也さん、あんみつあんみつ」
「拓也さん、花火」
「拓也さん、わたしのこと、ちゃんと見てて下さいね」
拓也さん、拓也さん。
いっぱい、何度も、呼んでくれてたんだな。
蓮、俺、お前に惚れてるんだぞ。
早く、戻って来い。
掴んだ手すりが、ギシリと鳴る。うな垂れて、つぶった目の裏で、初めて会った時と同じ、髪を揺らして蓮が笑ってる。
尻ポケットから、取り出して眺めてまた突っ込む。3回に1回は舌打ちまで漏らす。
「白井君、落ち着かないね。そのポケットティッシュに何か恨みでもあるわけ?」
朝からやたら繰り返すその仕草に、磯崎が聞く。
「これ、立花さんから貰ったんすよ」
その言葉に一瞬、不快そうな表情を見せ磯崎は自分のデスクに向き直る。
「彼女も困ったもんだよ。一週間も無断欠勤して。まぁ長く働いてもらってたから?こっちも大目に見てるけど、それだって今週が限度だよ」
苛立った時の癖で、磯崎はシフト表を意味もなくボールペンで叩く。
「いや、それは俺が悪いんす。この間の示現展で、立花さんに会ったんすけど、俺、来てくれたのが嬉しくて、俺の友達とトラブってたことなんて知らなくて、余計なこと言っちまったから」
「わたしはねっ!君らのプライベートの事なんてどうだっていいんだよ! ただ、仕事はしっかりやってくれないと」
磯崎の背中を眺め、密かに白井は溜め息をつく。
あの日、榊から蓮が来てると連絡を受け、慌てて行ったのだ。嬉しくて、そういや、雨が降ってたっけ。そんなことも、気にならなかった。だから、蓮の表情が、あんなにも硬かったこと、それにも気づかなかった。
………。
思わず手を掴んだ白井に蓮は言った。
「離してよ」
美術館のエントランスを出たすぐ。いつの間にか、鈍色に変わった空からは、小さな分身のように細い雨が落ちてきていた。
「や、折角だから、会って下さいよ。榊って友達も来てるんす、あいつもすげぇ絵を描くんすよ」
「離してって」
蓮は腰を引く。その頑なな態度に白井は言う。
「あ、もしかして、立花さん、ショック受けちゃってます?俺の絵があんまり凄いもんだから。かなわないって、おうちで泣いちゃうとか!? なら仕方ないですねー」
そう言って、あの時俺は笑ったのだ。ほんの、冗談のつもりで。
悪気なんか、なかった。
パンッ! 雨の雫が、弾けた。
蓮は、身体を反転させ、空いた左手て、白井の頬を張った。
「聞こえない? 離せよ」
雨で濡れてるはずなのに、蓮の髪が逆立って、揺らいで見えた。そんなはず、ないのに。
「立花、さん…?」
見返した、蓮の目の色が、いつもと違った。
その日、俺が来る前に何があったのか。
追いかけてきた蓮の彼氏から聞いた。
榊を責めたところで、仕方ない。
それに、流石に榊のそれは、言い過ぎだとは思うが、彼女の言うことにも一理はある。
別に、肩を持つわけじゃない。ただ、結局俺も、「こっち側」の人間、というだけだ。心のどこかで、蓮をバカにしていたんだろ。いや、そうじゃない、俺の絵を見て欲しかった、そして、俺を見て欲しかった。
拓也さん、あんたに、何が出来る?
俺なら、彼女と共に、上を目指せる。
俺と彼女の前には、絵という、同じ風景が見えている。
揺り椅子が、しなってギッと鳴る。
六朗は、傍らに置いた白い小さなリモコンを取ると、ボタンを押した。
ピピッとエアコンが音を立てる。
画廊の控え室は、既に充分暖房で温まっている。いや、若干暑くさえある。
「いやいや…最近は、エコだなんだって煩いだろう? 僕も気にして…こうしてまぁ、時折温度を下げてるんだよ、寒かったら、言ってくれ」
そうして、また椅子を揺らす。
「しかし…珍しい客が来たもんだ。ここで個展をしたのは何年前だっけ?そうか、まだそんなものか。いや、歳を取ると、月日の感覚が鈍ってね、や、まぁそれを飲みなよ」
蓮はひとつ、頭を下げると先ほど出された湯飲みに手を伸ばす。熱い。
「出した手紙が…返事がないのは寂しいか、蓮」
六朗は唐突に尋ねる。視線の先の本棚には、資料と、画集が詰まっている。
蓮の返事を待たずに続ける。
「しかしなあ、芸術なんていうものは、返事など、求めてはいけないのさ」
「はい…」
軽く頷くと、六朗はまたゆっくり話し出す。
「ところで蓮、昔、私が、何の為に描くのか?と聞いた時、君はすぐにこう答えた。理由などない、勝手に描いてるだけだと。私はね、その言葉を聞いて、この画廊で君に個展を開かせてやろうと思ったんだ」
「実に、楽しそうじゃないか。そんな者が描く絵は」
蓮は視線を下げて、じっと六朗の言葉を聞いている。
「今日、ここへ来て君は、描き方が、分からなくなってしまったと言った。嘆かわしいことだ」
六朗は立ち上がると窓際へ歩き出す。
「尋ねる者を、間違ったんじゃないのか? 何を買い被っているのか知らないが、私はもう、単なる老いぼれの、画廊主に過ぎない。その問いの答えは、私ではなく、昔の君自身に聞いたらいい」
再び椅子へと戻ると、六朗はゆっくり揺らし、目を閉じた。
潮時か。
「ありがとうございます」
頭を下げて、蓮は立ち上がる。扉へ向かう蓮に六朗が声をかけた。
「そうだ、ひとつ、付き合ってくれないか?」
振り返った蓮に言う。
「貰い物の、羊羹がある。年寄りの一人暮らしでは、もてあますばかりだ」
六朗は、蓮が頷くのを見ると、さらにこう言って笑った。
「ついでにお茶を、もう一杯、淹れてもらえるとありがたい。いや、歳を取ると、厚かましくなっていけないな」
立とうとする六朗を制する。
「分かりました。ご用意してきます。場所は、覚えていますから」
爪楊枝で羊羹を刺しながら、六朗が苦笑する。
「蓮や」
「はい」
「絵筆は巧みに使うのに、包丁は苦手か?」
向かい会って座ったテーブルの皿には、蓮が切ってきた羊羹。厚みはバラバラで、まっすぐ切れてないから、直立しないものもある。
「はい…」
言われて、顔が赤くなる。
「それから…これは抹茶か何かかね?」
六朗が湯飲みを覗き込む。
「すいま…せん」
恥ずかしくて、蓮は肩をすぼめる。
「少し、茶葉が多すぎたな。何、それはそれでいいものさ。蓮、顔をあげなさい」
「はい」
正面から、六朗と目が合う。しばらく、六朗は蓮を眺めていた。
「少し…やつれたか?」
「いえ…」
「ちゃんと食べているか?」
答えに迷う。だが結局、嘘がつけない。
「…いえ。最近は、あまり…」
「そうか…。せっかくのいい女が、台無しだぞ。おっと、こういうのは、セクハラとやらになるんだったか」
そう言って六朗は笑う。
「蓮」
「はい」
「上手くなる為の努力はすればいい」
「はい」
「だがな、何の為に上手くなりたいのか、それを忘れるな」
「はい」
「君は、自分には才能がないと言ったが、まぁそうかもしれんな、今の君では」
インターバルを置くつもりか、渋い顔のまま、お茶を一口飲んで、六朗は、例えるなら、「い」に濁音がついたような奇妙な声を発し、黙ってしまった。
おい、そんなに苦いのか、不味いのか、わたしが淹れたお茶は。語りを、中断させるほどの威力なのか。
さっき、それもまた良し、みたく言ってくれたのに。慌てて謝ろうとして、何故か蓮は笑ってしまう。
つられたのか、六朗も笑いだす。
「才能など、どうでもいい話だ。描きたければ描き、やめたければそれもいい。蓮、お前を縛っているのは、誰だ?虎など、どこにも居はしないだろ」
よく晴れた日曜日。そうか、今日、日曜日だったのか。久しぶりに、朝まで眠れた。
カーテンを開けて、思う。
世界は、青い。
長い水の中から、久しぶりに水面へ顔を出した気持ちだった。
スウェットの襟に鼻を近づける。だいぶ、仕上がってるな、この匂いは。多分、今なら、おっさんの加齢臭に勝てる。
何日ぶりかに、携帯を入れると、着信が何件もあった。
拓也からのものが、一番多い。
ずっと、出られなかった。
何て出ればいい。何て、詫びればいい。わたしといると、わたしのせいで、苦しませてばかりだ。
拓也からの、最後の着信はおとついの夜。
伝言が残っている。
少し躊躇って、再生ボタンを、押す。
(蓮…)
携帯の向こうから響く声は、それだけ言うと、止まってしまった。
録音が続いているのを示す、デジタル表示だけが進んでいく。
その一言、その声だけで、あぁ、ずっと探してた。わたし、この声をずっと探してたんだ、暗いどこかで。そう気づく。
(……好きだ)
長い長い、沈黙のあと、声はそれだけ告げると、ブツッと切れた。
涙が、溢れた。
何も構わず、泣いた。
待ってくれていたこと、信じてくれていたこと、たくさんかけた迷惑のこと、心配。
わたしも、拓也さんが好きだ。ただそれだけ、まっすぐに思ったら、涙が止まらなかった。
深い眠りから覚めて。
そんな歌詞があったな。
久しぶりに入った風呂は、全然、シャンプーの泡が立たなくて、どんだけ汚いですか?わたしの髪。我ながら、驚きだ。
人って凄い、寝てるだけで、結構な臭気。拓也さん、会いたいです。それでまた、こんな馬鹿な話を、したい。
なのに、緊張し過ぎて吐き気がした。
実際、電話を掛けようとしたら。
冗談ではなくて。握りしめ過ぎて、携帯、曲がるかと思った。最近の携帯、薄さに注力し過ぎ。
ちょっとね、ちょっと、これは練習でね、そんなつもりで、「通話」の表示に指を近づけたら、僅か、触れたのか、あっけなく、呼び出しが始まり、あっ!となる。
反応、良過ぎ。
近頃の携帯、反応良過ぎ。
しかしもう、今更切れない。
この向こうに、拓也がいる、そう思ったら、本当、吐き気が…いや、ここにきて、吐き気とか言ってられない。
平常心、平常心。…無理でしょ…。
「蓮」
ハスキーで、古いオルガンの音色みたいに落ち着くその声。
何も答えられず、必死で唇を噛みしめていた。だってそうしないと、堪えた嗚咽が、聞こえてしまうから。
「久しぶりだね」
お願い。もうやめてやめて。
自分からかけておいて思う。
「あの」
絞り出した声は、あんなに我慢したのに分かりやすいほどの泣き声で、自分の喉の裏切りっぷりが、嫌になる。
拓也は、しばらく黙っていた。
「お帰り。待ってたよ」
もう絶対泣かないと、神とか仏とか、とにかく誓いの対象になりそうなものには片っ端から誓ってから、掛けたのに。
しゃくり上げながら蓮は言う。
「拓也さん、またそばで、そう呼ばせて、下さい」
「蓮が、そう呼んでくれること、ずっと待ってた」
もう、ダメだった。
その言葉に、安心して、申し訳なくて、声をあげて、蓮は泣いた。
せっかくだから、久しぶりにこれから会おうと言う拓也に、蓮は天気がいいから、外で会いませんか?と言った。
「いや、部屋がいいな。だって、そうじゃなきゃ、すぐに蓮を抱きしめられないだろ」
その答えに乙女は酷く、赤面した。(5話終 6話へ続く)
こんにちは。臨です。
5話、お読み頂き、ありがとうございました。シリアスな場面でふざけるのは、作者の悪い癖です。どうぞご寛容に。え?最後の一文は、もろパクリだろうって?いやー知らないですね、走れメロスなど。
では、恐らく、次が最終話になるかと思います。年内完結を目指しております。
最後まで、お付き合い頂ければ、幸いです。




