表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
才能ないね  作者:
PR
4/6

「降りだした雨の中」

「降りだした雨の中」


右斜め前方より、さっきから、んちゃんちゃ、耳障りな咀嚼音がする。

30分程前に昼休憩に入った白井が食べる、カツ丼の音だ。

蓮は事務所の小さな冷蔵庫で冷やしておいた、サンドイッチのビニールをピリピリと引っ張る。

だがしかし、んちゃんちゃが、かきこむ様ながっ!がっ!に変り、流石になんなんだと思い、視線をやると、白井は、食べ終わったカツ丼の容器と割り箸を事務所の共有テーブルへ放り投げ、椅子を後方へ飛ばすようにやおら立ち上がると、ペットボトルの水をぐびぐび一気飲みし、だむ!とそれもまた乱暴にテーブルへ置く。

蓮がハムタマゴをビニールの包みから引っ張り出したところで、白井は、テーブルを半周回り込み、ギリギリ滑り込みで間に合った、というように性急に話し掛けてきた。

「ちょっ、ちょっと、いいっすか?」

蓮は答えずにティッシュを広げると、サンドイッチの包みを開く。

「無視しないで下さいよ、ちょっとだけっすから」

懇願するように言ってくる。

「示現展の話なら昨日も、今朝も聞きましたけど、断りましたよね?」

蓮は視線を上げ、横に立つ白井を見る。ソースかタレか、口の右端がべっとり汚れている。

「いや、まぁそうっすけど・・・。や!つーかあれ?もしかしても立花さん、何か誤解してません?」

休憩時間は短い。白井と話している間に終わってしまう。本当は、白井が見ている前で食べるのは嫌だったが、仕方なく、蓮はサンドイッチを頬張りだす。

「別に俺、変な気持ちから誘ってるんじゃないっすよ。ただ、今度の示現展には俺の仲間も来るし、立花さんに紹介したい人だっているんすよ。だから一緒に行けたらなぁーって、ほんと、純粋に、ゲイジュツについて語らい合いたいだけです」

そう言って胸を張る。

「そうですか。ではお友達と語らってきて下さい。わたしは遠慮しておきますから」

その言葉にあからさまにうなだれ、休憩時間が終わり、事務所を出て行こうとする白井に蓮は声をかけた。

「口。そんなので出て行ったら、また磯崎さんに怒られますよ」

言われて、白井は、慌てて店の制服の袖で汚れを拭おうとする。蓮は立ち上がって、その手を掴む。

「制服で拭かない方がいいです。これ、あげますから」

持っていたポケットティッシュを胸元に押し付けると、白井は驚いたように蓮を見た。一瞬、至近距離で目が合う。蓮はすぐに座ると白井を促す。

「お礼はいいから、遅れないように行って下さい」

最近、白井は遅刻が多く、磯崎に時間にルーズだと怒られている。

寝不足なのか目が充血している。

「いや、感激っす。あざっす!」

壊れるのではないかというほど勢いよく扉を開けて白井が出て行く。拍子に、蹴飛ばされた椅子が狂ったように回転する。

それを手で押さえて止めると、テーブルに放りっぱなしのカツ丼の容器と割り箸を見て蓮は溜息をつく。

あの夜の告白から、多少、しおらしくなるかと思っていたが、白井は全然変らない。

変わらずの、バカ。

そう思ったら、笑えてきた。白井とは行く気になれないが、蓮は、示現展自体は行ってみようと思っていた。展覧会としての規模も大きいし、正直、白井がどんな絵を描き、特選を獲ったのか、確かめてみたかった。



ラーメンとセットで頼んだ餃子が5個、くっついている。様子を伺うように飛んでくる蝿を払い、箸で餃子をひっぺがしながら、拓也は聡子に尋ねた。

「しかし、校正部っていえば、専門部署だろ?こういう言い方したらアレだが、そこのトップのお前が何で今更雑誌の編集に回れることになったんだ?」

拓也の勤める共栄ニュース社は、築地市場のすぐ近くにある。そこから歌舞伎座の方へ5分ほど歩いた路地にある中華屋の店内は狭く、昼時ともあって、混み合っている。

隣りで八宝菜をつついているのは、同期で、今は校正部にいる山口聡子だ。

「そこはアレ。言うじゃない、蛇の道は蛇って。詳しく聞く?」

グラスのウーロン茶をカクテルのように、2本の指でつまんでフラフラ振りながら聡子が周囲の喧騒を避けるように、顔を近づけてくる。グラスをつまむ爪はうっすらとした桜色にネイルされ、ラメで光っている。仕事は勿論バリバリやって、お洒落も抜かりませんよ、か。内心でごちて、拓也は苦笑する。

「いや、やめとくよ。それより今日は何だ?念願だった編集部行きを俺に自慢しにきただけか?」

「嫌ね。昔はそんな言い方しなかったのに。今日は、あなたにも良い話を持ってきたの」

ようやくバラけた餃子はしかし、油断すると盛大に肉汁が飛び出す。おまけに熱い。それを少しずつ齧りながら、拓也は聡子の話を聞いていた。

「拓也、あなた、次の人事で、校正部へ異動してみない?」

「まるで、人事を自由に出来るみたいな言い方だな。それに、ラテ編集の俺が簡単に行ける部署でもないだろ」

何かと思えば、そんな話か。異動に伴う、後任探し。どこの会社でもよくあることだ。それにしたって、俺に白羽の矢を立てるのは見当違いだ。

「それがさ、出来るんだなー。ちょーっと、わたし、人事のほら、斎藤さんっておじさんいるでしょ、仲良くなっちゃって」

聡子がいたずらっ子のように笑いながら言う。この笑顔が、あの頃は魅力に思えて、実際、随分振り回されたものだ。

「仲良く、ね」

今度こそ、あからさまに苦笑した拓也に怯むことなく、聡子はやや口調を改めると言った。

「まぁその辺はさ、色々清濁あるわけよ。でも、拓也も雑誌編集希望よね。このままやってても編集なんて行けないわよ。校正部に移ってくれたら、何年後かにはわたしが必ず、雑誌の編集に呼ぶから。ね、悪い話じゃないでしょう?」

「悪い話ではないが、気乗りはしないな。それに、校正部は別名、花の園。あの女所帯でやっていく自信はないね」

拓也は即答する。

「そう、残念だなー。まぁ、仕方ないか。そういうところが、拓也のいいところでもあるしね」

あっさりと提案を引っ込めると、若干冷めて、食べ頃になっていた拓也の餃子をつまむと聡子は話題を変えた。

「ところで、」

「おい、勝手に食うなよ」

目の前で餃子をさらわれ、拓也はむっとして言う。何か、勘違いしていないか。もう自分と聡子はそんな気安い関係ではなくなったはずだ。

「あら、いいじゃない。細かいなぁ。眉釣り上げて大きな声出しちゃって。そういうの、もてないよぉ。それよりさ、どうなの、あちらの方は。絵描きの彼女とは上手くいってるの?」

「あちらもこちらもあるかよ、最後の一個を食うなよな」

やはり、この話、この昼飯、巻き込まれるだけ損だったか。後悔の念と共に、拓也が口をつぐむと、聡子はさすがに悪いと思ったのか、声の調子を落とした。

「ごめんごめん。うまくいってるならいいんだ。でも、拓也には、フツーの子がいいと思うんだけどな。ゲージュツカ、の子じゃなくて」

「それこそ、余計なお世話だよ」

言い返すと、それもそうかと、聡子は楽しげに笑うと、ご馳走様と席を立った。

「おい!」

「このくらい奢ってよ。昔のよしみでさ」

手を振って出て行く、痩身で背が高く、ハイヒールの良く似合う聡子の後ろ姿は、中華屋には全く似合わない。あの身体に我を忘れた過去もあったな、そんな自分自身にも苛立ち、拓也は一つ大きく舌打ちをついた。

何だか、無性に蓮の声が聞きたかった。



バイトを終えた夜中、国道と並行する外灯もまばらな旧道を白井は自転車で走っていた。ラレーの安いロードレーサーだ。しかし、コンポは上位グレードに換装してある。手元のシフトレバーを人差し指でクリックすると、足元に重みが加わる。一瞬息をつめて踏み込むと、細いクロモリフレームの自転車は、身じろぐようにしなりながら加速する。そのまま右へ倒しこみながら、横道へ逸れる。しばらく行くと、道沿いにプレハブ小屋が見えてくる。

灯りがついている。

この時間に居るとなれば、榊理香だろう。

プレハブの外壁にもたれさせて自転車を止めると、白井は暗闇の中、デジタル表示を光らせて腕時計で時刻を確認する。0:26。飛ばしてきたが、やはり0時を過ぎてしまうか、これから描けるのは、3時間くらいか。明け方寝るとして…明日はまた羅願堂のバイトがある。流石にもう遅刻はまずい。

「修!お疲れ!」

プレハブの入口に小柄な人影が見えた。中の灯りにわずかに照らされた鮮やかな赤い髪がここからでも分かる。

「おう!おめーもまだ居たんかよ」

近づくと、染めた髪をさらに、ドレッドのように複雑に編んでいるのが分かる。セットに一時間かかるそうだ。その時間に少しでも描けよと以前言ったが、これも気合を入れる戦闘前の儀式だと返された。

「今日も掛け持ち?バイト?」

「まーな。絵は金がねーと描けねーからな」

白井は心配そうに見上げてくる榊の肩を叩くと、中に入る。

15畳のスペースの、入口から左奥の壁際には、大小様々なキャンバスがラックに整然と並んでいる。板張りの床や壁には絵の具が飛び散っている。

旧式のエアコンが咳き込むようにゴンゴン唸っているが、さして暖かくはない。白井は靴下をぬぐと、思い思いの場所に立てられたイーゼルを避けながら、描きかけの絵が掛けられた、自分のイーゼルの前まで歩いていった。

展覧会は当分ないが、このプレハブを共同アトリエとして借りているメンバー、白井と榊を除いて、あと3人。来春にこのメンバーで個展を開くことにしていた。その作品作りに白井達は追われていた。

「修」

ザッ、ザッと、筆がキャンバスを抉る小気味いい音が止まり、白井と背中合わせで描いていた榊が声を掛けてくる。

「バイトで食べる時間なかったんでしょ? わたし、何か簡単なもの、作ろうか?」

「いいって。時間ねーんだ。んなことに気遣うなよ。おめーもバイト上がりで疲れてるだろーが」

白井は言って、笑う。

「修、ちょっとこれ、見てくれない?ここ。むしろもう何も塗らないで、抜いたほうが説明過ぎなくていいかなぁ?」

白井は振り向くと榊の絵を眺める。

点描法の風景画だ。油絵具で色が重なり、輪郭は抽象化されている。問題は榊の指摘する場所じゃないなと白井は感じた。

「ここがよ、重くねぇか?手前に濃い色がどかっときすぎだろ。だから奥が薄く感じて感覚的に、浮いちまうんじゃねーか?」

「でも、そうしないと画面締まらないから…」

その言葉に少し考えてから、白井は告げた。

「そうかよ、なら榊の思うようにやんな。俺に初めて会った時、言ってたじゃねーか。先生に言われたようにしか描けなくて、自分の絵を忘れそうだって」

その言葉に榊は唇だけで猫のように笑って白井を見上げる。その時だけ、髪型のせいか、釣り上がった目元が緩む。

「んだよ?」

「いや、やっぱ修に聞いて良かったなーって」

「バーカ。んな、褒めてもウルトラマリンの30はもー貸せねーぞ。俺も少ねーんだ」

「そんなんじゃないって」

榊は再び筆を持つと描き始める。それを確かめて、白井も改めて自分の絵と向き合う。油絵具が主体だが、細い線をボールペンや、サインペンでも執拗に描き込んだ異形の阿吽像。金剛力士像は身体のみ、色が乗せられ、上腕二頭筋の隆起した腕と、握られた金剛杵にはまだ色がついていない。

「ねぇ、そういえば、あの人はどうなった?示現展、修と来るの?」

暫くして、榊が思い出したように聞いてきた。

「あぁ…それな、誘ったけど、来ないってよ」

白井は絵筆を一旦置くと、一度は油絵で塗り潰した、阿像の輪郭と胸筋を上から切り込むようサインペンで再度描きこみ始めた。これで、迫力が増すはずだ。

手首で、短く電子音がし、夜中の2時を知らせていたが、白井の耳には入っていなかった。



夜に森で舞う小さな蝶のように、イエローとブラックに塗装されたシャープな形状のバイクは軽やかに国道の信号を左折した。アクセルに反応し、すぐさま車体を立ちあがらせると、搭載されたDOCH4バルブエンジンから搾り出された狼の遠吠えに似た甲高い咆哮を深夜の住宅街に反響させ、緩やかな上り坂を一気に加速していく。住宅街に紛れてある、昔ながらの小さな酒屋の角を左折すると、坂道は蛇行しながらさらにきつくなる。

拓也はその手前でホーネットのエンジンを切ると、ローにギアを入れたまま、傾斜面に慎重にスタンドを立てた。見上げたアパートの蓮の部屋の灯りは消えている。バイクのハンドルに付けたデジタルクロックを光らせると3:20を表示する。正真正銘、夜中だ。サプライズにはうってつけだが、最近の2人のぎくしゃくを思えば、拒まれる可能性だってある。だがそれならそれで、いい。そうならば、それまでの2人だったということだ。決心すると、再びエンジンをかける。CBRと同系の超高回転型パワーユニットを持つ、この250CCの小さなバイクはエンジンが掛かれば、乗り手のセンチメンタルな感情などお構いなし、いつだって元気一杯だ。今も、狼煙のごとく、派手なエキゾースト音をあげる。深夜の住宅街にはふさわしくないが、これはむしろ好都合かもしれない。蓮はどこか、野生動物みたいなところがある。きっと、この音に気づく。拓也には妙な確信があった。


蓮は普段から眠りが浅い。嫌な夢を見ることが多く、わずかな物音でも目が覚める。不思議と拓也のそばにいると、熟睡できるのだが。そんなシチュエーションは、最近めっきりない。そもそも、訪ねてこない。掃除の、というか家事全般苦手な蓮の部屋にはゴミが溜まっている。出そうと思って、出し忘れるというのはよくある話だが、それ以前に、蓮の場合、燃えるゴミの日だとか、プラだとか、曜日を覚えられない。以前、拓也が冷蔵庫に貼ってくれた、ゴミ出し表は、どこにいったか・・・・・・ピクッと、反応する。意識より先、おそらく耳が。毛布にくるまったまま、蓮はみじろぎする。顔にべったりかかった長い髪をかきあげる。その時には、意識は半分以上覚醒していた。聞き慣れた音。時間を確かめると夜中の3時を回っている。同じバイクに乗る人がいるのだろう。そう思って背中を丸めて、改めて眠ろうとすると、階段を上る音。今度こそ完全に目が醒める。布団から起き上がると、すぐに冷気が身体を包む。その中で、じっと身体を硬くする。その間にも、足音は近づいてくる。ブーツだ。鈍くコンクリに響いている。染みのような恐怖が、腰のあたりから広がる。

「蓮!」

扉の向こうから、押し殺した声。

拓也さん!?

慌てて扉へ走る。暗闇の中、何か踏んだ。痛い!くっそ、もう片付けてないからな、そんな場合じゃない。

薄く開けた扉の隙間から、ライダージャケットを身につけた拓也の姿が見えた。ヘルメットでペッタリした髪をかきあげて、蓮が何か言う前に

「まぐろ、食べに行こう。用意して」

そう言うと、笑った。

「まぐろ?」

この夜中に? この真冬に? バイクで? 温かい要素、ゼロ。むしろ積極的に寒くなりにいっている。凍えにいっている。拓也はいつも冷静なのに、時々むちゃくちゃで、ひどく強引だ。でも思い出した、そこが、そういうとこが、好きなんだ。

蓮は拓也を見つめる。

「拓也さん」

拓也も見つめ返してくる。吐き出す白い息が口元を隠している。

「・・・会いたかったです」

それだけ言って、蓮は目を逸らした。これ以上、見られたくない。寝起きだし、髪もめちゃくちゃだし、おまけに泣いたりしたら、最悪だ。

「30分だけ、待ってください」

言って、扉を閉めた。



お互いのヘルメットに付けた無線インカムから蓮の声が聞こえてくる。骨電動の最新式だ。ホーネットは2人を乗せ、真冬の冷気を切り裂きながら、青が連続する深夜の国道を疾走する。

「わたし、この子好きです」

「この子って?」

「この、バイクです」

「あぁ、ホーネットね。型落ちの中古だよ。蓮が塗装手伝ってくれたから綺麗だけど」

3車線の国道、前方は緩いカーブ。

拓也はアクセルを少し戻して回転を合わせると、チョンッとギアをひとつ落とした。一瞬、ぐうと車体が縮む感覚。溜めをつくってから、アクセルをギッと開くと、バイクはカムギアトレーンの金属的な金切り音を炸裂させ、弾かれたようにもう一段加速する。湾岸エリアへ向かう、大きなRの最右レーンを傾斜しながら旋回していく。

メット越しでも風切り音が耳に痛い。蓮は拓也の腰に巻きつけていた腕の力を少し緩めると、上体を軽く反らし、メットのウィンドウをあげた。風に叩かれ、すぐに涙が滲むが、開けていられないほどじゃない。夜明け前の街のネオンが涙で乱反射していた。わたし、いま、拓也さんのそばにいるんだ、そう思った。



威勢のいい掛け声と共に、湯飲みをタン!とカウンターに置かれる。中身がはねて、ちょっと零れる。わわっと思っていると、

「はい、ねーちゃん、ちょいごめんねー」と、野太い声がして、四角い椅子を詰めて、左側から市場の卸業者らしき前掛けをした男が割り込んで座ってくる。もう、自分のスペース、わずか50センチくらい。「まぐろ かん乃」の店内、「ロ」型のカウンターは人でぎっしりだ。そのほとんどが、築地市場で働く人達で埋まっている。振り返ると、朝日に濡れたように光る車道には、車の代わりに、まぐろの頭をごろりと乗せたターレーが走っていく。

蓮は肩をすぼめて、右隣りの拓也の方へと身を寄せる。頭上には、お祭りのように、紅白の幕が貼られ、うねる墨書でメニューがぎっしり書いてある。そのメニューの札の群につっこむように、壁掛けのテレビがあり、早朝のニュースが流れている。しかし、怒鳴るように話す周りの人の声で、ほぼ、聞こえない。キョロキョロしている蓮に、慣れた様子の拓也が聞いてくる。

「ここはさ、まぐろの漬け丼がうまいから。それに半トロ乗せてもらおう」

メニューを見ていてもこれだけあると迷うだけだ。蓮は値段だけ確認する。予想より、だいぶ安くて安心する。

「あの、拓也さんにお任せします」

そう言って小さく頭を下げると、注文の為、店のおばちゃんと大声で話し始めた拓也を横目で眺めながら、お茶を飲んで一息つく。このそばに、拓也の会社があるらしい。だから、拓也は何度かこの店にも来ているらしい。市場は早いから、朝早くから開き、午後にはこの辺の店は閉まってしまう、らしい。

全部、今日初めて聞いたこと。

拓也さん、いつもこういうところで、お昼を食べているの? 一人で? 会社の人と? 女の人もいたりする? あぁわたし、何も知らないんだ。いつも自分の事知ってもらいたいばかりで、拓也さんの話、聞こうとしてなかった。

「蓮?」

呼ばれて我に返る。

「何考えてるの?」

横を向くと、すぐ近くに拓也の顔があって、慌てる。という事は、わたしもこの距離で見られているということで、意味もなく蓮は前髪を押さえる。何だか、こんなそばで、拓也のことを久しぶりに見た気がする。いつも剃り残されている髭は、今日はない。

「はいよー。見つめ合ってないでちゃっちゃっと食べてね。うちは、鮮度が命なんだから!」

店のおばさんが丼をトトンと2人の前に置く。丼の中身は、切り身の花が咲いたようだ。

綺麗・・・。思わず声が出る。だろ? しかも、うまいから。拓也が笑う。

まずは、少し醤油をかけて、えーっとわさびわさび。あ、横のおじさんの・・・向こうにあって、わさび、取れない・・・。んーわさび、いいかなぁ。でもなぁ。蓮が悩んでいると、同僚らしき男性と話し込んでいた、隣りのおじさんが、ノールックで、わさびの入った陶器を蓮の方へ滑らせてくる。

「ねーちゃんにはさっき、席、詰めてもらったからな。でもそんな、しおらしくしてちゃ、ダメだぜ。ここはさ、がさつなのばっかなんだから、ガンガン言わねーと何も伝わんねーぜ」

「がさつはおめーだろ」

隣りの男性がまぜ返して笑う。お礼を言う蓮に手だけ振ると、おじさんはもう男性との会話へ戻っている。ふうっと蓮は息をつく。なんか、すごいとこ、連れてきてもらったな。でも、心地いい。

冬に食べるマグロ丼が、こんな美味しいとは思わなかった。無言で食べ続ける蓮に拓也が聞いてくる。

「うまいだろ?」

「はい、おいしいです」

ごはんを頬張ったまま蓮は答える。

「違う違う。うまいだろ?」

「え?あの、はい。おいしいです」

「違うって、ちょっと蓮。もう一回聞くからね、今度は頼むよ」

拓也が笑って顔を寄せてくる。

「蓮、うまいだろ?」

何なに?

「え、拓也さん、おいし・・・」

「いや、だからそうじゃなくて、う・ま・い・だろ!?」

拓也が大きな声で被せてくる。そうか、そういうことか。言わせたいのか。

「はい、うまい・・・です」

小さい声で答えて俯くと、拓也は満足そうに上を向いて、そっかー良かったーと笑っている。耳が熱くなる。あーもう、やだ。拓也さん、嫌いです。小さい声で抗議すると、わしゃわしゃと髪を撫でられた。



帰る前に少し、温まっていこうと店を出ると拓也は、築地場外市場を歩き始めた。左右に小さな屋台のような店が並び、食べ物の湯気と、臭いが立ち込め、そこを行きかう無数の人達の呼気も混ざって、空気が朝日に膨らんで溢れている。歩いているだけで、心が浮き立ってくるような場所だ。

通りに面して置かれた大きな寸胴から盛大に湯気が立ち、風に乗って通りに流れている。臓物の独特な臭気。モツ鍋屋。

モツが沢山入った白いプラスティック容器を拓也が渡してくる。

「ありがとうございます。まぐろもご馳走になったのに・・・」

先日出たシフトは、やはり休みが多く、厳しいし、画材も揃えなくてはいけないし、お金、助かったな、そんなことを思いながら、蓮は頭を下げる。

「いいよ」

拓也は、はふはふ言いながら、早速かきこんでいる。

「拓也さん、今度のお休み、一緒に行きたいところがあります」

蓮は切り出した。今まで、他の社中展を観に行くのに、拓也を誘ったことは無かった。それは、こっちの領分、これは拓也との領分、絵と、拓也、どこかで分けていた。でもそれでは、ずっと埋まらないし、分かってもらえない。今、2人の間にある、大きな河の幅と深さにたじろぐのでなく、いや、たじろいだとしても、対岸に居る愛しい人に向かい、共に歩きたいのだと言う事はできるはず。その勇気を持て。

「ヒゲンテン?」

よほどモツが熱いのか、拓也は舌足らずな言葉で聞き返して来る。しかし、さらに示現展のことを説明しようとする蓮を手で制すると、拓也はようやくモツを飲み込んだのか、はっきりした口調で言った。

「いいよ。蓮が行きたいなら。俺にも教えてよ、絵のこと」

拓也の言葉にほっとして、思わず息が漏れる。

そっとモツ煮を口に入れると、それはまだ、全然熱くて、慌てて蓮は上を向いて口を開けた。それを見て、笑う拓也の笑顔が、視界の隅で揺れる。



海洋に棲む、巨大な生物の背のように、壁面は襞状のデザインで、波打っている。表参道から近い、海外招聘アーティストの企画展もしばしば開かれる、都心の大きな美術館。その2F、3F全ブースを使い、示現展は開催されていた。

最寄り駅から直通のエスカレータに乗り、その独特な建物の外観を目にし、拓也はすげぇなと呟いた。蓮も頷く。創美の社中展とは規模も、もっと言えば、お金の掛かり方が違う。展覧会を、会場で判断し、勝った負けたを言うのはナンセンスだが、どれだけの場所を借りられるか、それはその社中の人が出すお金と繋がっているわけで、ひいては、会員数とも比例している。


蓮と拓也がブースを進んでいくと、白井の作品の前には、一人、先客がいた。流れてきた客が、過ぎていっても、その一人だけは、まるで絵を守るように、もしくは、白井の絵の案内人かのように、動かない。

白井の作品は、蓮の予想に反して、柔らかなタッチで描かれた、水彩の人物画だった。バストアップの女性の横顔。主題は平凡だが、表現方法は独特だった。背景は白だが、女性は白のワンピースを着ていた。既にこの色の組み合わせが、尋常ではない。ワンピースが織り成す、皺の陰影や、光の反射を上手く描きこみ、生地の柔らかさを表現すると同時に、背景に埋没するのを避けている。どころか、まるで背景からふわっと浮き出てきたような清冽さがある。どこか、血の気の無く、薄い唇だけたっぷりした朱で塗られた女性の表情にも描き手の繊細さを感じる。以前見た、スケッチブックの絵から、蓮は油絵具を使用した、もっと生々しい作品を想像していた。白井の作品はその予想を見事に裏切ってみせ、なお、確かな技術を示していた。剛柔合わせ持つ、ってことか。蓮は内心で呟き、思わず、見とれていた。

それに、技術だけではない、キャンバスの大きさ。このサイズのものを描くには場所がいる。そして、キャンバス自体の金額、他、絵具などを揃えることを考えると、それなりの金額になるはずだ。とても、蓮の今の羅願堂のバイト代だけでは出せないだろう。技術、環境、経済面、白井は全て、今の自分を上回っている。

「素敵ですよね、この絵。男性が描かれたんですよ」

先ほどから白井の絵の前にいる、小柄な女性が話しかけてきた。

「ええ、知っています。わたし、彼とはアルバイト先が同じなんです」

答えた蓮の言葉に、女性が反応する。

「もしかして、立花さんですか?」

驚いた蓮に女性は自己紹介をした。自分は榊理香といい、白井とは友人で、有志で共に絵を描いていること。蓮のことは、白井からよく聞いていること。そして、蓮にこう切り出した。

「立花さんも描かれるんですよね? 確か、創美の方だと、修から、あ、白井君から聞きました」

なんとなく、自分が白井と親しいのだとアピールするような話し方。

「この前の、創美展で、佳作だったって聞きました。おめでとうございます」

そう言って軽く頭を下げて笑うと榊は言葉を切った。

「まぁでも、修・・・白井君は、特選ですけどね、この、示現展で。でも、白井君にとっては当たり前というか、通過点なんです、ここも。修は、白井君は、この団体のてっぺんを獲って、すぐにここから出て行くと言っています。世界で勝負するなら、こんな国内の一団体の賞レースでまごまごしている暇はないって。これ、夢物語だと、立花さん、あなた、思います?」

強い視線で蓮を見つめる。その視線を見つめ返して、蓮は視線をそらす。

「修って、言ったらどうですか? その方が、言いやすいなら。白井さんから何を聞いているのか知りませんが、わたし、なんでもないですから」

「調子に、のんなよ、おめぇ」

低い、小さな声。しかし、蓮にははっきり届いた。思わず顔を見返すと、僅かに笑っている。こちらが聞き間違えたかと本気で思うほどに。

「失礼しました。確かに、立花さんには関係ない話ですね。あたなたはずっと、そうやって、そちらの・・・彼氏さんですか? そうして仲良くちゃらちゃらやって、絵は、趣味で描いていけばいい。でも、一つ言っておきたいのは、間違っても、修やわたしと、自分が同じだなんて、同じところにいるだなんて、思わないで下さいってことです。わたしや修は、本気で絵、やってますから。本気でやる為の、その環境を整える為の努力だってしてる。あなたの、趣味の延長と同じにされると、迷惑です」

それだけ言うと、今度はしっかり頭を下げて、榊は2人のそばを離れていった。



アイスティーはとうに飲み干して、空になったグラスの底に転がる氷をストローでつつきながら拓也は繰り返す。美術館1Fのカフェスペース。

「なんだ、あの女。失礼な奴だよな。蓮がどれだけ絵を一生懸命やっているか、知らないくせにさ。気にするなよ、あんな奴のこと」

拓也の言葉に頷きながら、蓮は考えていた。白井が最近、いつも眠そうな理由。それも、なんとなく、分かった気がした。わたしが寝ている間も、きっとあいつは描いている。そしてあの、榊という女性も。

てっぺんを獲る。通過点。そう言っていた。堅牢にして巨大なピラミッドを成す、日本の絵画界、会派、その頂上を取るのがどれほど困難か、いやむしろ、会派にいるほとんどの人間がそこにしか目を向けていないはずだ。そして、それさえ叶わず終わっていく。しかし、白井や、榊は、さらにその先を目指すという。では、自分はどうだろう。どれほどの覚悟とビジョンがあるだろう。確かに先の創美展で、初の入賞を果たした。美大で絵の経験はあったといえ、創美に入ってからは数年、それでも凄い進歩だ。同じ会の友人も、拓也も、褒めてくれる。持ち上げてくれる。才能だね、努力しているもんね。だが、本当だろうか。

先ほど見た白井の作品。才能とは、努力の結晶とは、こういう絵のことを言うのだ、よく見ておけ、半端者。あれは、白井からの、榊からの、メッセージではないか。小さな場所で持ち上げられ、うぬぼれて、いっぱしに芸術家を気取っていた、自分への。

「拓也さん・・・」

蓮は顔をあげる。

「蓮、気にするなよ。あんな奴の言うこと。白井って人の絵だってさ、そんなたいしたものか? 俺は、蓮の虎の絵のほうが好きだな、迫力あって」

拓也は、必死で今、自分を慰めて、励ましてくれている。だから、言うな言うなよ・・・止まれ、止まれ、自分・・・その制止を意に介さず、極彩色の毛を纏った一匹の虎が蓮の中で立ち上がる。背を反らして、ひとつ、のびをする。毛が、炎の如く、燃えている。お願い、やめて、やめて。今はおとなしくしていて。

「拓也さん、拓也さんには、わからないですよ。あんな絵? あの、白井って人の絵は、わたしのなんかより、ずっと技術的に上なんです。そんなことも分からないくせに、知らないくせに、気安く慰めないで下さい」

あっけにとられたような拓也の顔。

・・・やめてって、言ったのに。

いつも、小さい頃から、ずっと、そうだ。

わたしの大切なものを壊して、楽しいか、お前。

いっそ、一緒に死ぬか、お前殺して、わたしも死ぬから。

なぜ、止まれない? なぜ、黙っていられない? なぜ、自分が制御出来ない?

つくづく、嫌だった。甘く、そのくせ自己中心的な自分が。

「ごめんなさい」

それだけ言って、蓮は席を立つ。申し訳なくて、拓也のそばに、もう一秒だっていられない。こんな言葉を吐いておいて、いられるはずなかった。

おい、これで満足だろ? そんで、ひたすら絵を描いていれば、白井だろうが、榊っていうあの女だろうが、目障りな奴はぶっ潰して、そうして描き続ければ、満足なんだろ? 分かったよ、もう、お前の言う通りにしてやるよ。

描くこと以外、何も望むなってことだろ?

「立花さん!」

思いつめて、エントランスを抜けようとした蓮に向け、いつからだろう、降り出した雨の中、傘も差さず、笑いながら白井が手を振っていた。(4話 終 5話へ続く)


とりあえず、ホーネットはいいバイク。

絶版が惜しまれる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ