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才能ないね  作者:
3/6

「星流れる河へ」

「星流れる河へ」


この坂道を見上げるたび、蓮は光琳の「紅白梅図屏風」の、紙面を切り裂くように、野太くうねる河を思い出す。

始まりは細いのに、一度大きくターンしながら、徐々に道幅を広げ、勾配をきつくしていく坂道。アスファルトに刻まれたスリップ止めの模様が、坂道の下から眺めると渦巻く河の流れのように見える。

蓮のアパートは、この坂道の途中にある。画材屋 羅願堂でのアルバイトの帰り、蓮は、坂道の下まで来ると立ち止まり、コートのポケットに手を突っ込んだ。

今日、もう何度目だろうか。

携帯を確認する。

(どうしますか?今度の日曜日。)

2日前に拓也へ送ったメールへの返信は、ない。

ため息を飲み込んで、蓮は歩き出す。



変態の態が旧字になっている。

テレビ局より送られてきた原稿に目を通しながら、拓也は、机上のブックエンドに立て掛けてあるラテ専用辞典へ手を伸ばす。新聞のテレビやラジオ欄には、使用してはいけない漢字や言葉というものがある。それを調べる辞典だ。

この仕事をやる限り、繰り返し使うので、箱とカバーはとうにどこかへいってしまって、辞典の端はそり返っている。けれど、手に馴染み、ザアッと捲り、ピシッと指を入れるだけで、だいたいの場所が開ける感覚が身についている。

態の旧字はやはりNGだ。

局へ、出し直し依頼の電話をして席を立つ。

フロアの外にあるトイレへと向かいながら、携帯を取り出す。

(どうしますか?今度の日曜日。)

このメールの文面を、もう何度読んだだろう。読み過ぎて文字数が頭に入ってる。14文字。句読点は使えないから、外して、Gコードを入れて2行体裁でピッタリか。いやいや、何を考えている。

こんな短い文章の中にもちゃんと蓮がいて、その声が聞こえてしまうから、何も考えたくない。

れん。

たった一言、本当は、そう、声に出して呼びたい。

ずっと後悔してる。

あんなこと、言わなきゃ良かった、しなきゃ良かったって。俺は女々しい男で、しかもそのくせ、まだどこかで、それでも自分の言ったことは間違ってないなんて思ってる、ずるい男でもあるんだ。

そのズルさや汚さを、蓮、君は知ってるか?



そうしていれば、蓮が翻意するとでも思っているように、羅願堂の主人、磯さんこと、磯崎は、さっきから、シフト表の「23」をぐるぐると丸で囲ってる。

バックヤードの狭い事務所の中。

蓮は磯さんと向かい合って、事務用の小さな椅子に座る。どこに行ったのか、背もたれが外れていて、ない。しかもくるくる回るので、動かないようにつま先を立てて力を入れている。

「この前も聞いたけどさ、23日の日曜日、出てくれない?来月初めに示現展があるでしょう?その出品作の額装が大量にくるのよ。勿論僕も出るけど、白井君だけじゃ不安で。彼、まだ新人でしょ?蓮ちゃんが手伝ってくれれば助かるんだけど」

答えを渋ってる蓮に磯崎は畳み掛ける。

「やっぱりダメ?まぁ無理なら仕方ないけどさ、あのさぁ、蓮ちゃんは長くやってくれてるし、こんな事、言いにくいんだけど、最近、お客さんの入りもアレだから、平日は正直、あまり人、必要ないんだよね。もしかしたら、シフト、減らさなきゃいけないかもしれない。いや、勿論ね、そうならないように最大限やるつもりだけど…」

そこで言葉を切って、伺うように蓮を見る。そして、芝居がかったように、後ろに伸びをして、言葉を継ぐ。

「まー、あれだよ。うちも慈善じゃないからさ、で、その代わりといっちゃなんだけど、日曜入ってくれるなら、こっちも助かるし、蓮ちゃんのシフトだって減らさず済むし」

ぐるぐるし過ぎて、23がただの3になり掛けてる。このまま黙っていたら、最終的には、ただの黒い丸になってしまうのではないかと、蓮はどうでもいい不安にかられる。そこまでしなくていいのに。笑えてきたら、心が決まった。

「分かりました。23日、出ます。平日のシフトがダメな分は、他の日曜日も出ますから、そちらへ回して下さい。それでいいですか?」

今、シフトを減らされるのは痛い。家賃も払わなきゃだし、何より、絵は、お金がかかる。

「本当に?いや、何か悪いね。いや、ほんと、助かるよ、うん」

自分で頼んでおいて、何を大袈裟な。心の中で苦笑しつつ、蓮は席を立つ。ストッパーを急に失って、椅子がくるくる回る。それを手で抑えて止めると、蓮は事務所の扉へ向かった。

拓也さん。

拓也さんが悪いんですよ、連絡、待っていたのに。



売り場へ戻ると、新人の白井が100号キャンバスと格闘していた。棚に収納するには、あれは、コツがあるのだ。角で立てて、駒のようにそこを軸にして動かすのだ。そうでないと、側面に傷がつく。

「それ、力じゃ無理ですよ。白井さん、そちら支えていて下さい。少し傾けますから」

蓮の姿を見ると白井は慌てて頭を下げる。合わせるように耳の金色髑髏のピアスが頭を振ってる。

「あ、あざすっ。ちょ、これ重過ぎじゃないっすか、マジ、潰れるかって思い…」

「いいから。白井さん、そっち、両手じゃないと危ないです。いきますよ」

白井は片手で作業着からタオルを出して、額を拭う。

「オッケーっす。俺が立花さんの全部を、受け止めます!」

蓮は黙ってキャンバスを倒す。途端、向こうで、うぎゃと唸る声がする。

実地で学んでもらうのが一番だ。

蓮はキャンバスの裏側に回り込むとつま先で角に力を入れて回転させると、その勢いで垂直に戻した。

3番の棚の正面ピッタリ。あとは入れるだけ。

「やー助かりましたよ、マジ。こんなん簡単に入れられるなんてマジ、立花さん、俺、リスペクトっす」

「慣れですよ。それより白井さん、チューブタイプの水彩絵具は一部サンプルで出しておかないと。磯さんから言われませんでした?あんなに詰めてしまうと、お客さんも取りにくいし」

蓮の言葉に白井は金色に染まった前髪を掻く。無造作に、でもその無造作ヘアを一生懸命ワックスで作りました的にウェーブした髪がくしゃくしゃとなる。

「あー、すんませんっ。いっやー俺、バカだから。覚えらんなくて。何か画材屋さんて、仕事沢山すよね。なんつーかなーこの店に入る前の俺の画材屋さんのイメージ?言っていいすか?」

「言わなくていいです。白井さんは、12号のキャンバス、バックヤードから出しておいて下さい。あれは1人でも大丈夫だと思うから」

今日は顔彩と新色の水彩のPOPを描かなければならない。その前に掃除と品出しだ。立ち去ろうとする蓮に白井が言う。

「キャンバスのPOPはどうします?」

「あとでわたしが描きます」

「それ、俺に描かせてもらえません?」

振り返った蓮に白井が言う。笑っているのか、僅かに唇が上がっている。

「どういうこと?」

「いや、立花さん、創美の人ですよね?この間の展覧会で入賞したって、磯さんが言ってましたよ。いっやーマジ、リスペクトっす。創美は、層、厚いすもんね」

財団法人創美会。蓮が所属している、美術団体だ。しかし、何を言いたいのか。蓮が何も言わないのをみると、白井はまた話し出す。

「そんな怖い顔しないで下さいよ。俺、示現会なんです。今度、展示されます。特選でした。あ、俺、こういうの自分で言っちゃうタイプなんすよ!だから嫌われるのかな!あははは!だって、嬉しくないすか。ま、それはいいすけど、だから、俺も、絵、結構、描けるんすよ?描かせてくれません?」

示現会。絵の世界にも流派があるが、示現と創美は、大きな括りでは同じだ。しかし会員の規模などは、圧倒的に示現会の方が大きい。創美の層が厚いとは、皮肉を言ってくれたものだ。

しかし、そこで特選となると…確か白井は美大を出たばかりのはずだ。よほど権威のある先生についたか、実力があるか。いや、有力な先生につけるのも、その人の実力のうち。少なくとも展覧会とは、そういう世界だ。

「分かりました。キャンバスのPOPはお願いします。紙は…」

「あーざす!やー嬉しっす!俺、立花さんがバイトの先輩で良かったっす。紙は事務所の磯さんの机の右の二番目の引き出しっすよね。それだきゃー俺、覚えたんす。もう描きたくて描きたくて。へへ」

先ほどの不敵な表情はどこへやら、一転、おちゃらけている。

「あー!覚えたっていえば立花さんの名前、入って俺、ソッコー、チェックしましたよ。すっげー可愛い人いんじゃん!と思って」

声が大きい。

蓮は無視すると、今度こそ自分の持ち場へと向かった。



風呂から出ると、テーブルに置いた、携帯が光っていた。

慌てて、下着をつけ、絵具が飛び散った部屋着の白のパーカーを羽織り、バスタオルで髪をまとめると、携帯を取り上げる。

5分前。拓也からの着信だった。

今度の日曜日のことか。

少し気が重くなりかけながら、蓮は髪をしっかり乾かしたあと、思い切ってリダイヤルした。

長いコールのあとに、ふっと繋がった、拓也の声はどこか掠れていた。

「蓮。久しぶりだね。電話、ありがとう」

「いえ。拓也さん、大丈夫ですか?」

「何が?俺は大丈夫だよ」

電話の向こうでふっと笑うような気配。

「それより、メール返さなくて、ごめん」

「いえ…。忙しいのだと思っていましたから。気にしないで下さい」

何故、こんな核心を避ける会話をしているのだろう。結末はどう回り込んでもたいして変わらず、しかも、それは贔屓目に見てもきっとそれほどいいものじゃないはずなのに。それを知ってるのに。手の内のカードをここにきて隠して何になる。

「ゴッホ展。約束でしたね。日曜日」

蓮は自ら斬り込む。駆け引きは苦手だ。

「うん。その約束は、まだ生きてるのかな?だとすると、嬉しいのだけど」

来たか。

「ごめんなさい。アルバイト、入れてしまいました」

向こうで、一瞬息をのむような沈黙がある。

「入れたって…。俺との約束があったのに?」

僅か、気色ばむ拓也の声。

蓮は正直だ。どうしたって、懇願され、半ば脅しのような形で、店長に入れられたのだと言うことなど出来ない。事情がどうあろう、最終的に飲んだのは、承諾したのは自分だ。約束を破ったのは、自分だ。それを誤魔化せない。

「ごめんなさい」

「いいよ」

そう言ったきり、沈黙が広がる。

この部屋と、拓也のいる部屋。そこまで、細い透明なチューブがあって、そこに孤独という砂が今、サラサラ注がれてるんだ。そのうち、砂に邪魔されて、声は届かなくなる。

「まぁ、それも仕方ないか」

呟くように拓也は言うと、小さく息を吐いて、改めて声をかけてきた。

「なぁ、蓮」

「はい」

「蓮は、もう俺のこと、好きじゃないんだろ?だったら、言ってくれないか。もう、電話もメールもしないで下さいって。じゃないと俺は、蓮のこと、嫌いになれない」

その言葉。砂を突き破り、針のように耳に刺さり、脳まで届いた。届いた瞬間、ビシリと何か、割れた気がした。

「…嫌です」

やっと、それだけ言って、蓮は通話停止ボタンを押し、携帯の電源を切った。

嗚咽が絶対漏れないように、唇を強く強く噛んで目を瞑ったら、口の中へ血の味が少しずつ広がっていった。



キャンバスを擬人化した女の子が笑顔でセールの告知をしている。ロゴもカラフルで大胆だ。キャラクターとのバランスも絶妙で、動きがある。

結果から言えば、白井の作ったPOPは見やすく、しかも今まで蓮が作ってきたPOPとも雰囲気が似ていた。

絵を描く者なら分かるが、オリジナルを出すより、誰かの作風を意図的に真似ることの方が高度な技術を伴う。

「やー、やっぱ、統一感って大事じゃないっすか!それに俺、言ったでしょう?立花さんのこと、リスペクトしてるって」

それを蓮から描き方の説明を何も受けず、今までのものを見ただけで、サラッと白井はやってのけたか。何でもないことのように。そう思った瞬間、似た匂いを嗅ぎ取ったように、ザラッと、蓮の中の虎が身じろぎした。

「はいはい、ありがとう。10時に作品の搬入あるから裏の…」

「開けてあります。在庫を隣りの棚に移したので、スペースもオッケーです。磯さんと額も出しておきました。早出っすよ、早出、これ、金貰えるんすかね?」

白井は、尚も得意顔で報告する。

「面出しも、表の掃除も終わってます、ちゃんと看板も拭きましたよ。水拭きで、雑巾替えて乾拭き。オッケーす。ピカピカっす。やー日曜稼ぎ時っすもんね。俺、日曜、いつも磯さんとじゃないっすか?でも今日は立花さんいるから、テンション高いっす」

そう言って白井は堪えられなかったのか、自分で笑う。

「立花さん、ぶっちゃけ今、俺のこと、ちょっと見直しました?」

言って流石に照れ臭くなったのか、鼻を掻いている。

「バカ」

「一つ、頑張ったご褒美くれません?」

「そういう事は、磯崎さんに言って下さい」

「いーや、これは、立花さんじゃなきゃ絶対ダメなんすよ。おっさんじゃ無理なんす」

「何?」

「今日、バイト終わったら、俺と飯食いに行って下さい」

「嫌」

短く答え、蓮は着替える為に、バックヤードへ向かった。

午前中、要領を得ずに遅い白井のレジを時折り手伝いながら、蓮は、搬入作品の書類チェックと、額装の準備を進めていた。午後、ようやく休憩に入ると、携帯にメールが入っていた。

友達の早紀からだ。

ご飯の誘いだった。久しぶりで、嬉しくてなんて返そうか、画面を見つめていたら、遅れて入ってきた白井がその姿を見て言った。

「休憩っすか?」

「そう。白井さんは?」

「俺はさっき取ったんで。立花さんはゆっくりして下さい。フロアは俺がバシッと仕切っておきますんで」

胸を張る白井に苦笑する。

「まぁ、いいですけど。レジの打ち間違いで金額合わないと残業だから。ちなみに、残業代は出ませんよ」

「げー。もしズレたら、立花さん一緒に残って下さい。ほらー俺、まだ新人じゃないっすかー?分からないこと多いしー」

急に白井が甘え声を出す。

「わたしは帰ります。約束があるから。磯崎さんが残ってくれますよ」

その一言に白井が食いつく。

「約束?なんすか?俺の誘いを断ってまでのもんすか?あー!彼氏っすか?今、携帯見て笑ってたのも絶対そうだ。やだなー、そういうの、見せつけないで下さいよ、マジ、仕事中なのに、テンション下がるわー」

蓮は後ろでよろめいてる白井を無視して、早紀に返信する。

19時頃、いつものスタバで。



仕事帰りの早紀は少し遅れてきた。

パンプス姿がよく似合ってる。

軽く茶色に染めた長い髪を緩くカールさせ、唇のピンク色のルージュが艶々していて、ちょっと、女でも見とれてしまう。

お酒も飲みたいし、河岸を変えようと、スタバから移った、駅前のイタリアン。

外観から、高そうと思っていたら、そうでもなくて蓮は内心、ホッとした。シフトもどうなるか分からないし、出来るだけ節約はしたい。早紀に言わせると、最近はこういうリーズナブルで安いオシャレなお店が増えているそうだ。

フォークで巻いたパスタをスプーンに上手く乗っけられず、おたおたしている蓮に、もういいから、そのまま食えや!と笑って早紀は言うと、蓮ちゃんもさ、もう大人の女なんだから、絵もいいけどね、ちょっとはオシャレな雑誌見て、勉強すること。ピシリと言われて、先日の拓也のこともあって、返事が小さくなる。

改めて店内を見回すと、カップルも多い。女の子は、誰も当たり前のようにバッチリ化粧をして、リキッドとファンデくらいしかやらない蓮には分からないが、目元も凄い。アイシャドウとハイライトが入りまくりだ。早紀の言葉に従えば、今や時代は「二重は作れる」だそうだ。

蓮は奥二重だが、頑張ってアイペンシルで描いたところで、元が元だしと思うとやる気にならない。やったところで、絵が上手くなるわけではない。

でも、そっか。こんなだから、拓也さんも愛想が尽きたんだな、周りにはオシャレで可愛い子っていっぱいいるもんね。若い子ならともかく、25にもなって、絵具だらけの女なんてやだよね。ごめんね、恥かかせて。

「っておーい!何を1人で落ち込んでるんだおめーは!」

少し酔いかけてるのか、おじさん化してきている早紀に促され、蓮はこの前の拓也との電話のことを話した。

「それは、あいつがダメだな」

聞き終えて、バッサリと早紀は言った。

「わたしのかわいー妹を泣かせやがって、しょうがねー奴だな」

勿論、早紀とは、実際の姉妹ではないが、知り合ってからずっと、妹のように可愛がってくれる。

「だいたい、男はみんなそう!」

早紀の男嫌いは結構年季が入っている。また始まったと思いつつ、何か、気持ちのいい啖呵を聞くようで、蓮は嫌いではない。

「やらせろと言ったり、恥じらってみせろと言ったり。身勝手なんだよ。てめーの反応と違って怒るくらいなら初めから手を出すなよな。それにさ、返信が遅かったのは拓也の方でしょ?それを棚にあげて、あんたを責めるなんて、お門違いも甚だしいよ」

「あ、あの早紀さん、声が…」

興奮すると声が大きくなるのが早紀の欠点だ。しかもだいたい内容が際どいので、今までも何度周りから白い目で見られたか。

「あ、ごめんごめん」

早紀はトーンを落として聞いてきた。

「で、蓮ちゃん、あんたはどうしたいのさ?」

「どうって…」

言い淀んでいると、早紀が重ねて聞いてくる。

「別れたいのかどうかってことだよ」

「わたしは別れたくないです。でも、拓也さんが嫌なら仕方ないと思ってます」

「「わたし、仕方ないと思ってますぅ」じゃねーわ」

身をくねらせて言うと、ハンカチを噛むような仕草を見せる。早紀は続けて「昭和の女か、おめーは」と切り捨てた。

「そんな、そんな言い方してないじゃないですか」

「どんな言い方だっていいんだよ。いいかい?蓮ちゃん、あんたのその、いじらしさはね、そりゃーわたしなんかにはない、武器だよ。男はね、そういうの好きだから。でも、ちゃんと決めな」

「だから別れたくないって…」

「そう、じゃあ、今、ここで拓也にそう電話しようか」

えー!勝ち誇ったように腕を組む早紀を蓮は睨む。

「そんなんしてもダメだよ。さ、携帯!」

渋々テーブルに出した携帯が光っている。

2人で覗き込む。きっと、思っていたことは同じだろう。

だが、着信の主はそれとは違った。

ディスプレイには、「羅願堂」の文字。

早紀に断って、店から出て掛け直すと、焦ったような白井の声が飛び込んできた。

「すんません。あの、レジ、どーしても金額、合わなくて。もうあの、俺」

言わんこっちゃない。天を仰ぎたくなるのをこらえて、冷静に蓮は聞く。

「ちょっと落ち着いて。オーナーはいないの?」

「磯崎のおっさんは急用で帰っちゃって、一人なんすよ!マジ、俺、計算とかすんげー苦手で、だってぶっちゃけ九九の七の段とか…」

「分かった、分かったから。今から、戻るから。レジの設定は初期化しないでそのままで。売上金は全て出しておいて」

電話を切ると、蓮は早紀に謝って店へ戻った。



…蓮が店へ戻って2時間後。

レバーを下げると、旧式のレジスターはウィーンと何ともアナログな音を立てて、初期化を終えた。

吐き出された、ログシートと合計も合っている。パソコンの専用ソフトに金額を打ち込んで保存を終える。

結局ズレは白井のバーコード外の商品の、単純な打ち間違いと計算ミスだった。

後ろから蓮を見ている白井に、これで精算作業は終わりだと告げると、拝むような仕草で礼を言ってくる。

「ほんと、すんません。デートの最中に!この埋め合わせはほんと!あの!」

「埋め合わせは要らないです。それと、デートじゃないから。じゃあ後、電気と戸締まりお願いします」

立ち上がって、コートを取ろうと歩きかけると、手首を掴まれた。

何となく、予感があったからか、それほど驚かなかった。

蓮は足を止めてゆっくり振り向くと、白井を見つめた。

意外だったのは、白井の表情がどこか追い詰められたように歪んでいたこと。いつもあんなふざけてるのに。

「用がないなら、離してくれる?」

これで退いてくれると楽なんだがと思いつつ告げると、白井は、蓮の手首を強く握ったまま思いつめたように言った。

「俺、立花さんのことが好きです」

白井の必死の告白を、蓮は、手首、強く握り過ぎだよ、痛いよ、と思いながら聞いていた。

全体に、男の人の手首の耐久性がどうなのか知らないが、女の手首は男が思ってるより、やわい部位だ。それをこんな強く握られたら、どんな愛の言葉でも、手首が痛い、という印象しか残らない。

だから、蓮はそのまま言った。

「ありがと。気持ちは嬉しいけど、手首痛いから、離して」

白井は、その言葉に弾かれたように身を引くと、自分のしたことに急に気づいたか、物凄い勢いで何度も謝ると、店を飛び出していってしまった。

ため息をついて、店の電気を消しながら、蓮は何をやっているのかと思う。

携帯には、早紀と、拓也からの着信が一件ずつ残っていた。

もう、今日はどちらへも掛け直す気力がない。

店を出る前に、忘れ物がないか、もう一度事務所を見渡す。

すると、磯崎のデスクの影になっていて見えなかったが、B5サイズのノートが落ちていた。近寄ると、ノートではなく、スケッチブックだ。表紙に、癖のある右に跳ね上がった字で、「白井修一(現代の天才ゴッホ)」と書かれている。白井が忘れていったのだろう。

バカだなぁ。

そう思うと同時に、ゴッホという言葉に、久々に餌を見つけたように、蓮の中でまたザワと毛を揺らす何かがいる。最近、大人しかったのに。

そもそも、本当なら今日、拓也と行くはずだった、ゴッホ展。蓮はこの不遇にして希代の画家が大好きだ。

蓮の今の作風も、ゴッホの影響を大きく受けている。白黒の世界から、油絵具に切り替えたのも、ゴッホのような強烈なインパクトを自分の絵にも持たせたいと願った為だ。

ゴッホ、その言葉に惹かれて、するっと結んであった紐を解いて、スケッチブックの表紙をめくったのは、言い訳をするなら、蓮の中の虎の仕業だ。

敵か味方かは知らないが、同族の匂いがする。実力を確かめろ。そういう声にならぬ声。

小さなスケッチブックの中は、どぎつい色彩で溢れていた。抽象画のようなものから、祟り神のような奇怪な生き物まで。水彩で描かれているのに、タッチと色遣いがそのまま白井の呼吸だ。急くように、線に余裕はないが、その分、勢いがある。そして蓮は気づく。

これ、全部、下書きをしてない。

いきなり色をつけての、一発描きだ。

もう、だいたい分かった。

蓮はスケッチブックを途中で閉じて、紐を結び、事務所の共有のテーブルへ乗せて、店を出た。



「俺、立花さんのことが好きです」

さっきは、何も思わなかった言葉が、帰り道、響いていた。あの絵のせいだ。

拓也さん…。

縋るように、着信のリダイヤルをしたが、留守電に切り替わるだけだった。

いつもの坂道まで来て、見上げる。

息が白い。

渦巻く河の天上から、星が降って来ている。

星夜の紅白梅図屏風だ。河に、星の煌めきが流れてくる。

ふと蓮は思い出す。

いつだったか、この坂を拓也と上った時のこと。夏で、暑くて、坂の向こうには入道雲が聳えていた。

それに感動して、蓮は、この紅白梅図屏風の話を拓也にしたのだ。

絵が好きな人なら知っている有名な屏風だが、そうでない人は知らないかもしれない、勿論、蓮もそう思っていた。だから、今まであえてその話はしなかったのだ。でも、その時は碧空に生き物のように立ち上がる雲と、そこからどろりと溶け出したような坂道の対比が素敵で、思わず語ってしまったのだ。

今なら思う。

あの時、拓也は蓮の画材道具を運ぶのを手伝ってくれていて、それはとても重くて、何往復もしてくれていて、疲れていて、だから、仕方なかったのだと。むしろ、タイミング悪くそんなことを言ったわたしが悪い。今だってそう思ってる。

けれど。

返ってきた言葉は。

今も、忘れられない。

「あっそう」

その一言だった。



けれど、何回だって言う。

仕方なかったんだ。

そう、別にわたしはそんな一言で拓也さんを嫌いになったりしない。今だって、一番に思うのは拓也さんだ。

けれど。

白井なら、この景色を共に見て、なんて言ってくれる?

そんな事、考えたくない。

だから、出てよ、電話。拓也さん。

蓮は携帯を握りしめる。

拓也さん、電話に出て、声を聞かせて下さい、今すぐ。

頼んだのに。わたしのこと、ちゃんと見てて下さいって頼んだのに。

酷いですよ、拓也さん…。

思ったら、ずっとずっと飲み込んできた涙が一粒だけ、星流れる河へ、落ちていった気がした。(3話終 4話へ続く)

「紅白梅図屏風」は一度、生で見て欲しい。

光琳の気迫と美学が画面の隅々にまで漲っている。

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