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才能ないね  作者:
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「花束なんていらない」

「花束なんていらない」



くるり、くるりと。

爪先で床を蹴って。

無人のバレエの舞台の上のように、蓮は回る。紺の長いスカートが、その度、呼吸のようにふわっ、ふわっと揺れる。

平日の美術館。公募展のブースは人もまばらだ。

「どうしたの?蓮」

のけぞるように振り返ってふふと蓮は笑う。肩甲骨あたりまで伸びた髪がふらーんと垂れる。

「目指してた入賞だもんな」

拓也の言葉に一瞬、訝しげな顔をすると、蓮はスタスタと拓也のそばまで戻ってきた。

「それはですね、関係ないです。拓也さんとここに来れたこと、それが嬉しくて仕方ないだけです」

言って、照れ隠しのようにニッと笑うと、周りを確かめるように左右に視線を走らせて、拓也の胸に額をそっと押し付けた。

「拓也さん、忘れないで下さいね。わたし、ここでこうしてるだけで幸せなこと」



美術館のダウンライトが蓮の前髪に当たって、白く跳ねている。

ブースG‐12。燃える虎の絵の前。

蓮は軽く下唇を噛んで、しかめっつらで絵の中の虎と睨み合っている。腕でも組んで何かごちれば、そのまま巨匠のように、何かお決まりのポーズ感もあって、茶化したくなるけれど、そっと伺う横顔は真剣そのものだ。

拓也は視線をずらして、改めて蓮が出品した絵を見る。

様々な色が混ざり合い、最終的にそれらをまるごと黒で塗り潰したような暗い背景は、下から上へ、絵筆で激しく抉られ、それ自体揺らぐ炎のようにも見える。粗く塗られた背景は、塗り残してキャンバスの白が残っている箇所もある。暗い炎の中央に、現実の虎の色彩とは程遠い、極彩色のカラーリングを纏った一匹の虎。赤、紫、黄色、緑、執拗に重ねられた色彩の線は虎の輪郭の中で曼荼羅のように渦を巻き、それで飽き足らず、はみ出して毛のように、四方へ跳ねている。頭を下げた視線はまっすぐこちらをねめつけている。

絵の横に貼られたタイトルの上には、佳作を示す青い小さな札がピンで留められている。

蓮は先程の姿勢から動かない。拓也は何か感想を言おうと思い、すんでのところで、それを飲み込む。もしかしたら、こんな時、こちらから感想を言うのが礼儀かもしれないけれど、そうではなくて、この絵を描いた蓮の言葉がまず聞きたいと思った。アロンアルファで時がそこだけ止められたように、息を詰め、動かずに絵を睨んでいた蓮が、遠く出かけていて、そうだここではないと思い出して戻ってきたように、ゆっくり拓也の方を向いた。

「少し、混ざっちゃいました」

それだけ言って、最初から興味のなかった花の前を過ぎるように、もう一瞥もくれず蓮は次の区画へと歩き出す。

「おい、写真とかさ、撮らなくていいの?」

拓也は慌てて後を追う。

「あ、ごめんなさい。拓也さん、撮りたかったですか?」

変なことを聞くなというように蓮が立ち止まって振り返る。

なんだか、会話が噛み合わない。

「いや、そうじゃなくて、ほら、蓮、すっごいこれ頑張って描いてたじゃない?それで入賞できてさ、だから記念というか、撮ったらどうかなって。それにもっとなんか、話も聞きたいよ、せっかく一緒に来たんだし」

蓮がじっと拓也を見てくる。

「何?俺、何か変なこと言った?」

蓮は拓也の前を過ぎ、絵のところまで戻ると、さっきとは違う、おだやかな目で虎を眺めながら言った。

「拓也さん、見えますか?」

「虎でしょ?凄いよね。何か渦巻いてて」

ふふっ。蓮は拓也を見上げると短く笑った。なんだか、愚にもつかないいたずらをした、小さい我が子に微笑む母親のように。

「拓也さん、拓也さんには、わたしの中に棲んでる、こいつが見えますか?」

そう言うと、返事を待たず、拓也の指先をそっと握ると、歩き出した。



あんみつどころ、「みはし」。

美術館がある公園を過ぎて、繁華街をしばらく歩くとある、老舗の甘味処だ。

午後から、夕方にまたがる中途半端な時間は、一服したいと思う人も多いのか、広くはない店内は込み合っている。先ほどの蓮の言葉が気になっていた拓也はここでもう一度ゆっくり話したいと思っていたから、相席にはなりたくないなと思っていた。その願いが通じたか、運よく2人席に通される。

メニューを見るより先に運ばれてきた熱い緑茶を、猫舌?そんなことないねといわんばかりに両手で抱え込んで、すいすいと蓮は飲んで、どこぞより今帰還しましたといった態の長い息を吐いたりしている。

「お茶好き?」

「抹茶が好きです」

「苦くない?」

「それもまた人生の妙味です」

いや待て違う違う。確か、こんな会話がしたいわけではなかったはず。作戦を練り直せとの脳内の指示に従い、拓也はメニューをしばし眺めたのちに、王道「白玉あんみつ」を頼む。蓮は何度か来たことがあるのか、メニューも見ずに「ところてん黒蜜がけ」を頼んでいる。

あんみつ屋なのに!ところてん!そのチョイスに少なからぬ衝撃を受けつつ、だがしかし、今はそこに突っ込んでいる場合じゃない、ぐいと平静を装う。

「ところてんね」

「ところてん、好きなんです」

「舌触りとか?」

「いや、そうではなくて。ちょっと言ってみてください。ところてん。響きが」

語呂だった!チョイスの理由、なんと語呂だった!味とかですら、なかったこれ。

俺、もしかしてこの子のこと、わからないかもしれない、にわか湧きつつあるそんな疑念をなんとか手で払いのけ、何があっても動じず、ほがらかに、「ケーキ、入刀です!」など笑顔で高らかに、宣言する結婚式の司会のごと、半ば強引に拓也は話題を変える。

「しかしさぁ、なんかこう、あれだ、あまり美術館とか行かないから」

「疲れちゃいましたか? ごめんなさい。つき合わせてしまって」

「いやいや、そうじゃないよ、蓮の絵も見れたしさ、それはもう、凄い良かったんだけど、聞いていい?」

「はい」

蓮は中身が半分ほどなくなった湯飲みを暖でも取るかのように両手で包んでうつむいている。その姿を眺めながら、拓也は言う。

「わたしの中の虎が見えますかって聞いたよね?あれはどういう意味?」

その言葉に、蓮は次のラウンドコールを聞き、椅子から立つボクサーのように、すっと顔をあげ、拓也のシャツの胸あたりに視線を据え、静かに話し出す。

「そのままの意味です。わたしの中に、あいつが棲んでいるんですよ。全てを食い尽くして、なお、いつだって空腹で苛ついているんです」

「信じられないな。こんな可愛い顔してるのに」

拓也は腕をのばすと、蓮の頬にかかった髪を指先で弾いた。その指を手の甲でそっと払うと、少しはにかんで、でもはっきりと蓮は言った。

「今は、そういうこと、やめてください。可愛いとか関係ないですから」

「や、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ。でもなんか、意外だったから。あれだろ、誰だって驚くよ、ギャップっていうか、うん」

慌てて言ったら、何だか自分でも何を言っているのか分からなくなりかけたが、でも、間違ったことは言っていないはずだ。そんなに、人の内面まですぐ分かれるはずがない。それを見えるとか見えないとか、どだい無茶な話ではないか。

「分かってます。拓也さん、あんみつあんみつ」

先ほどの硬い表情から一転、蓮は場を和まそうとするように笑って言うと、ささと、先に運ばれてきた拓也のあんみつを食べろと促してくる。

「いいえ、ただいま、ところてん待ちです。ところてん、ところてん。言ってみましたがしかし、言うほどですかね、この語感、蓮さん」

蓮の口調を真似して拓也が茶化すと、どこかほっとしたように蓮が笑った。



キャリー・イマガン。

蓮の好きなバンドだ。

北欧の氷雪に覆われた青いツンドラの大地に、地球から突き出た巨大な針のように聳える針葉樹林。鋭く細い無数の葉のひとつひとつに薄く重ねられた雪。自然の成す執拗にして丁寧な化粧が、出来すぎた絵葉書のような光景を脳内に浮かびあがらせる。

「ノルウェーの出身だっけ?」

「そうです。ブルハックの。これ、暖炉の前でキャラダンが弾いていたメロディだけが最初あったみたいです。レコーディングぎりぎりまで歌詞がつかなくて」

「そんで焦ってつけたら、こんななっちゃったわけ? 何よ、恋人を燃やして僕も凍土へ埋まろうってどういうこと?」

「分からないです。純愛ですかね?」

「・・・違うと思うよ」

蓮はそうですかと呟くと、拓也の部屋に敷かれた毛足の長いホットカーペットの上をころころしている。ちょうどうつぶせになった蓮の弓なりにゆるく反った背中を拓也は掌で抑える。

「蓮にとって、絵を描くってどういうこと?」

しばらくそのまま蓮は考えていたが、もぞもぞと身体を反転させ仰向けで拓也を見上げた。

「無理やり飲み込まされた世界をもう一度吐き出して、味を確かめる行為です」

「それは反芻みたいな?」

「そうかもしれません」

「描くとすっきりする?」

「そういう時もあります。悲しくなったり、余計分からなくなったりもしますけど」

「拓也さん」

蓮が下から腕をのばしてくる。拓也がその手を握った瞬間、強く引かれた。鼻が触れそうなほどの距離に蓮の顔がある。奥二重の蓮の黒目の端が、欠けたように蛍光灯で白く光っている。凄いな、意味もなく拓也は思う。体重を支えていた肘をゆっくり伸ばす。体が触れると、蓮が背中に腕を回してくる。頬にかすめる、蓮の細い髪が上下してくすぐったい。思わず、はねのけたくなるけれど、それをじっと耐える。臑に何か感触があり、ふっと視線を下にずらすと、蓮が足首を鋭角に曲げて、足の指で、猛禽類が獲物を掴むように、ぐっと拓也のけい骨を掴んでいる。木の枝に止まる鳥のように。そういえば、寝る時もこんな格好だよな、思い出して、笑いそうになる。

拓也が、蓮の身体の脇のラインに沿って、手を滑らすと、僅かに避けるような反応がある。その手を身体の真ん中へずらす前に拓也は蓮の耳元で囁く。

「いいの?」

拓也のシャツに隠れて、蓮の表情は見えない。息を吐くような音と、感触だけ胸元に伝わってくる。何も言わないのを了解と受け取って拓也は手を動かし始める。

「あの」

消えそうな蓮の声。

「お願いがあるんですけど」

「灯り消す?」

「いえ。あの、もう少しだけこのままで居てくれませんか。そうしたら、あとはあの、あの…いいですから」

途中消えかけた声。恥ずかしいのか、拓也の胸に顔を押し付けて話しているせいで、よく聞き取れない。もうこれ、半分、俺のシャツを噛んでるんじゃないのか。そう思ったら笑えてきて、愛しくて、これじゃ触れないよ。電波の悪い、遠い場所からようやく届いたようなその声を聞きながら、拓也は蓮の髪を撫でていた。



店内に赤い提灯が揺れている。

昭和の居酒屋を模した内装がサラリーマン受けをしている、最近会社のそばに出来た飲み屋のカウンター。

使い古されたように塗装された木の、大きな傷と凹みに目をやりながら、拓也は同僚の言葉を聞いていた。

「それはお前、いいようにあしらわれてるだけだよ」

「いや待て待て。なんと言っても、拓のカノジョはゲージュツカだから!」

空のグラスを突き上げて、別の同僚が声を張り上げる。

「それよそれ!なんだぁ、芸術家っての、高尚だもんだから、そんないやらしいことはしません!ってか。ぎゃはは。あーも、俺にはわっかんねーな」

拓也は努めて冷静に言い返す。

「そんな事ないですよ。少し変わったところはあるけど、普通の子ですよ」

「あのさぁ、お前、どれだけ付き合ってるんだっけ?」

隣りの同僚が顔を寄せてくる。うっとおしい。

「一年半くらいですけど」

「あ、一年半!」

叫んで、小皿より、キュウリのぬか漬けをつまんで口へ放り込んだのち、

「一年半ですけど?じゃないですけど?だよ。お前、あのな」

改めて顔を寄せてくる。鼻息も伝わりそうな距離。

「いい大人が一年半付き合って、そういう雰囲気になって、それでも、そういうことがないってのは、お前、どういうことよ?それはちょっとピュア過ぎやしませんか?」

「こっちの勝手でしょう、そんなことは」

牽制のつもりで横目で睨んでビールを煽る。何だってこんな話になったんだ。根は悪い人達ではないが、ここまで酒癖が悪いとは。

「わかったあれだ!」

世紀の発見のように向こうからがなり声。

「お前がモデルになって描いてもらったらいいじゃん!」

「男のヌード?」

ぎゃはは、それはエグいわ、お前、それだきゃーやめとけよ、な、な。肩を抱いてくる。いや、部長、だからこそ、いいんすよ、それで、そういう雰囲気に持ち込んで…

「やめてくださいよ!」

ダン!と、カウンターを叩いた。

勢いで、立ち上がって、何か言おうと思ってたはずなのに、肝心の言葉は一つも出てこなかった。ぐっと詰まって、白けたような同僚の視線を跳ね飛ばすように睨んだあと、ガラッと店の扉を開けて、外へ飛び出す。

くそっ!格好わりぃ、最低だ、こんなの。

全然酔ってないのに足元が定まらず、ふらふらと駅へ向かいながら、無意識に携帯のボタンを押していた。



マナーモードに設定されている携帯が、机に散らばった鉛筆達に混ざってカタカタ揺れていた。

その僅かな音に、蓮は、デッサンの手を止めてディスプレイに目を走らせる。

拓也さん…

一瞬迷って蓮はそのままデッサンを続けた。終わったら掛け直そう。

切れかけた集中をもう一度繋ぐ。鉛筆を軽く握り直す。やがてまた、室内には、シッシッと鉛筆が紙を引っ掻く音だけが響き出す。

それから一時間ほどして、再び携帯が震えた。今度は迷わず出た。



「蓮?」

「拓也さん、どうしました?さっき出られなくてごめんなさい」

「いや、いいんだ。この時間はいつもデッサンしてるの知ってるから」

「何か、ありましたか?」

電車の走り過ぎる轟音が受話器から響いて、拓也の声が途切れる。

「…今から部屋に行ってもいい?」

「今からですか?」

蓮は部屋を見渡す。

「あの、散らかってますけど、いいですよ」

受話器の向こうから、駅のホームのアナウンスが漏れてくる。拓也は黙ったまま。

「あの、拓也さん?」

「ごめん、やっぱりいいや。悪かったね、邪魔して」

蓮が何か言う前に、一方的に電話は切れてしまった。

拓也さん? 慌てて掛け直した電話は、何度試しても、通話中になるだけだった。



蓮を初めて見たのは、小さな画廊で開かれていた、彼女の個展だ。それまで絵に興味はなく、大きな展覧会が開催されていても見に行ったことなどなかったのに、その時はなんの気まぐれか、人をこばむような西洋風の装飾がされ、すりガラスで中の伺えない小さな画廊の扉を押したのだった。

あれは冬だったか、画廊の中は暖房で、外から入っても一瞬躊躇うような温度に暖められていて、コートを脱ごうと手をかけた時、奥の控え室から、臆病なうさぎが顔を覗かせるように出てきたのが、蓮だった。黒いTシャツに、白いロングスカートをはいていて、蓮はちらっと拓也を見ると、いらっしゃいませでも、ありがとうございますでもなく、八重歯を見せて、ふふっと笑った。耳までの短い髪が楽しげに跳ねていた。

「暑いですよね、ここ。オーナーが、すんごい寒がりで。北海道出身なのに」

その時は、初対面なのに、よくしゃべる子だなと思ったが、ほとんど見に来てくれる人がなくて、やっと来てくれたと思ったら、なんだかむすっとした感じの男の人だったから、緊張しすぎてわけがわからなくなりかけていただけ、というのは、のちのち、聞いて知ったこと。

「確かに。何度設定なの?」

「驚異の28度です」

「初夏じゃん」

「そろそろ蝉鳴きそうです」

「しれっと2度ほど下げよう」

「ばれます。オーナーの温度感知センサー凄いです」

「なんか、こまかーい、絵を描くんだね」

いきなり話題を変えた拓也に、笑顔でうなづくと、ひとつひとつ展示してある作品について説明してくれた。あの頃の蓮は、今のように油絵具ではなく、サインペンとボールペンが主体で、白黒の細密画のようなものを描いていた。

そのあとすぐに、知り合いのような男女が数人来て、蓮はゆっくり見て行って下さいと頭を下げると、そちらへ歩いていった。

本当なら、その時のそれだけで終わる関係のはずだった。



見えない針で、ピタリとアスファルトに留められた蟻か、焼きついた影のようなわずかな黒い線が、伸び、曲がり、繋がり、増殖し、飛躍していく様。

絵というものが白い紙から、生まれ出てくる瞬間は、静かにファンタスティックだ。長い髪をバシリと留めて肩から前へさげた蓮が、シリシリとボールペンを動かしている。

テレビからは、午後のニュース番組が流れている。

頭を鈍器のようなもので数回殴られ、遺体の頭蓋骨は陥没しており、強い殺意が・・・警察では殺人事件を視野に入れ・・・。

「あの時ですか。わたし、拓也さんのこと一瞬思い出せなくて。でも、雨が降っていたから搬出、助かりました」

蓮と初めて会ってから数日後、個展の最終日の夕方、拓也は仕事を抜け出して、再び画廊を訪れたのだった。

「これ、何描いてるの?」

拓也の部屋のカーペットに座り込んでいる蓮の後ろ、ソファに座って覗き込んでいた拓也が尋ねる。

「これですか、リリーです」

「リリー、誰?」

「リリーはですね、八頭身で、膝に目がある化け物で、嘘を見抜き、嘘をつくと串刺しにされます。これでこう…」

そうして、ススッとペンを動かし、槍のようなものを書き込んでいく。

「膝が弱点?」

「撫でると眠ります」

「猫のようだね」

「そうですね。でも嘘つくと、串刺しです。拓也さん?」

「はい?」

「わたしに何か言うこと、ないですか?」

描きかけのリリーをぴらっと持つと、蓮は自分の顔の前へかざした。

お面のように紙で顔を隠したまま言う。

「この前の夜のこと、話して下さい」

拓也しばらく首をめぐらせ、考えるふうだったが、思い出したように話し始めた。

「あぁ、あれはさ、うん、酔ってたから。俺もびっくりしたんだ、酔いが醒めて、あら、こんな時間に電話しちゃってらぁって悪いことしたなぁって、もうだから全然内容覚えてなくて、え?何かエッチなことでも・・・」

蓮は滔々と話し続ける拓也を遮る。

「拓也さん、こっち見て下さい。わたし、リリーです、串刺しですよ」

「その脅しやめれや」

拓也が紙を奪い取ると、口調とは裏腹に、蓮は、不安そうに拓也を見ていた。それに焦って拓也はさらに言う。

「いや、ほんと、あれは何でもないんだ。仕事の仲間と飲みに行って、ちょっと蓮とのことを茶化されただけで。まぁ確かに、あんまりしつこいんで、怒ってしまったんだけど、今思えば俺も大人気なかったと思ってる」

じっと蓮は拓也を見ていたが、拓也がそれ以上何も言わないのを見ると、そうですか、とだけ告げ、ソファに置かれた描きかけの紙を取ると、再びペンを走らせだした。

「蓮?」

「何ですか?」

「何か怒ってる?」

「怒ってませんよ」

「じゃあ、今の話、納得してくれた?」

「全然ですけど。でも、仕方ないです。拓也さんがそう言うなら、そうなんだろうって、思うしかないですから」

何かを描いている時、蓮の身体は極端に右側へ傾いている。ペンを持つ利き手の右手。それが、肩甲骨から紙へ向かって落ちるようにずり下がっている。右に傾いた猫背というか。その体勢、描きにくくない?と、かつて聞いたことがある。わたし、右手が肩から指先まで一本のペンになればいいと思っているんです。そうして脳と連動すればいい。

今も右に傾いて、後ろからだと、指先は、肩に隠れて見えないが、シカシカと紙をペン先が削るようなわずかな音だけ聞こえ、呼応するように肩先がピクピク小刻みに動いている。まるで、肩で描いているようだと思う。

「蓮」

「はい」

「ちょっと描くのやめてこっち向いて」

拓也はソファから降りると、蓮の隣りに座った。

ペンを置いて向き直った蓮に、拓也はいきなり口づけした。

うっと、短く呻いて後ろへのけぞる蓮の背中へ手を回して、逃さないようにすると、拓也はさらに強くした。

そうして今まで、ずっと触れなかった場所へと手を伸ばす。

蓮は最初、声をあげただけで、あとはじっとしている。

そんな蓮の様子を見て、拓也は始めた時と同じく突然身体を離すと怒鳴った。

「何で抵抗しないんだよ!?」

「普通、こんないきなり、嫌だろ、何か言えよ!やめてとかさ。俺、蓮が分からないよ。本当は心の中じゃこいつバカだなぁって、ずっと蔑んでるんだろ」

拓也は何か勢いがついたように、あるいは堰が切れたようにまくしたてる。

「そうだよ、俺は別に蓮みたく何か取り柄があるわけでもなく、絵心があるわけでもないもんな。蓮がどれだけ一生懸命、絵を描こうが、アドバイス一つしてやれない。そのくせ、一丁前に彼氏面して、こういうことはするんだなーって、今のはそういう目だろ。そうならそうで、はっきり言ったらいい」

蓮はうつむいたままそれを聞いていた。

「拓也さん、それが、この前の夜、言いたかったことですか?」

「違うよ! でも、分からないけれど、これはずっと思ってたことだ。蓮は俺がいなくても絵があれば生きていけるだろ」

蓮は何かを耐えるように、唇を噛み締めていたが、吐き出すように短く答えた。

「そうですね」

「じゃあ、俺は要らないってことだな」

「なんで・・・そんな」

すがるように蓮は拓也を見る。

「だってそうだろ。絵を描いていれば蓮は満たされていて、そうなら、俺の居場所なんてどこにもないだろ」

顔をあげて蓮は言う。

「でも、拓也さんが、わたしの居場所です」

「おためごかしの、おべんちゃらを言うな!!」

拓也は怒りに任せて一喝する。

「おべんちゃらなんかじゃないです。なんて言えば信じてくれるんですか。わたしがいなくなればいいですか。拓也さんがそう望むなら、わたし、今すぐいなくなりますから。こんなこと言われてまで、信じてもらえないままで、わたし、拓也さんのそばにいる意味なんてない。あんな、あんなことされて、嫌だったら、拓也さんじゃなかったら、死ぬ気で抵抗してますよ!! なんで、なんでそれ、分かってくれないんですか…」

それだけ言うと、蓮はうつむいてしまった。握りしめた、拳。掌の、爪が食い込んだ部分が白くなっている。耐えるようにきっと口を結んでいる。


蓮は思う。

また失うのか。

やっと出会えたと思ったのに。

小さい頃からそうだった。

欲しいものは、手に入らず、好いた人達は離れて行った。

おかしな子、変わった子とバカにされ、周りとうまくやるのが苦手だった。

描くことだけ、握りしめて生きてきた。そうして、これからだってそうだと誓って生きてきた。その中で、出会った。丸ごと自分のこの世界へのズレもなにも含めて掬ってくれた人。

ずっと外を歩いてきた。だから、そこはあたたかくて、安心できて、解けぬよう何度も念入りに結んだ靴の紐が、緩んでしまった。緩んでも、よいのだと、裸足で歩いてもいいのだと、安心してしまった。拓也さん、バカだったのはわたしです。不相応な願いが叶いそうな気がして、拓也さんなら叶えてくれる気がして、舞い上がっていただけ。わたしの中に巣食う凶悪な虎は消えず、きっとずっと、こいつと一蓮托生で生きていくしかない。やるかやられるか。描くか、死ぬか、それしかないはずなのに、とっくに知っていたのに、そうでない何か、甘い爽やかな風が吹く世界があって、そこをわたしも歩けるかのように錯覚してしまった。ほんとう、バカみたい。


「帰ります」

蓮は立ち上がると、扉へ向かった。

放心したように、それを拓也は眺めている。(2話終 3話へ続く)


「みはし」は実在するあんみつやです。

白玉クリームあんみつ、おすすめ。

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