春
気がついたら、コーデリア様がいた。それだけではなく第二王子クロード様も、こちらを凝視している。
けれど驚いたのは、扉の前にあの人の姿を見つけたからだった。ずっと心配だった、会いたかった人が。
「兄、様……」
「アーリエ!」
同じ髪と瞳。兄が、そこにいた。彼は私の名を迷わず呼んで、抱きしめてくれる。
「無事で良かった……。怪我はないか? 一体、何があったんだ」
「にい、さまこそ。ぶじ、なの?」
声が震える。何度も頷く兄の姿に、目頭が熱くなる。良かったと伝えようとした、その時。足音がした。
一段飛ばしどころではない。何かを蹴倒しながら登ってくるような、乱暴で、急いた音だった。
背中をさすってくれていた手が止まる。顔を上げると兄がこちらを見て、少しだけ困ったように笑った。
「……ああ。来たな」
最上階の扉が、内側へ吹き飛んだ。
彼の紺色の髪が乱れている。上着の袖口は裂けていた。
銀色の瞳が、部屋を薙ぐように走って、私のところで止まる。
「アーリエ」
「シュヴァルツ様」
互いの名前を呼ぶ。彼は五歩で距離を詰めて、私の前に膝をつく。伸ばされかけた手が、途中で止まった。
「……触れても、いいか」
こんなときにまで、この人は。
返事の代わりに、私から手を伸ばした。包み込むように掴まれた手は、震えている。
「怪我は」
「ありません。本当に、どこも」
長い息が吐き出された。それから彼はゆっくりと立ち上がり、部屋を見回す。床に伸びた男たち。真っ二つに割れた黒いドールハウス。取り落とされた斧。
空気はまだ張り詰めている。
「――ハーゲンは、どこだ」
低い声だった。敵に向けるときの声だと、直感でわかる。扉のそばに寄りかかったミシュカが、小さく肩をすくめた。
「落ち着きなさい、シュヴァルツ。というより、貴方が落ち着かないと話が進まないの。城の騎士を十六人伸ばしてきた男の言うことなんて、誰も聞かないわよ」
「十六人?」
「数えていたもの。門で四人、中庭で七人、塔の前で五人。魔法の騎士人形もあったけど、それも入れると三体で、合計十九」
「……あとで弁済する」
真顔で言うから、ミシュカはもう一度肩をすくめた。
「まあ待て、シュヴァルツ。俺から話す」
そう言ったのは、兄だった。シュヴァルツ様の動きが止まる。銀色の瞳が、真っ直ぐに兄を捉えた。
「……ローディス」
「久しぶり、親友。心配かけた」
「お前」
言葉が続かないようだった。兄は苦笑して、シュヴァルツ様の肩を軽く叩く。
「元気だぞ。デュシエル家の飯は上等だったからな。文句を言ったら菓子まで用意された。果物の砂糖煮とかな」
「……当然だ。俺が伝えた」
「お前かよ」
部屋の隅で、エルンスト様がわざとらしく咳払いをした。
∮
コーデリア様と兄、シュヴァルツ様とミシュカと私で応接室に向かう。兄の説明は、短かったけれど驚くべきことばかりだった。
兄とコーデリア様は、以前から関わりがあったこと。どうしてハーゲン様はコーデリア様と兄が恋仲だったと言い出したのか。デュシエル家に移されたのが罰ではなく保護であったこと。クロード様とコーデリア様が、この数か月ずっと動いていたこと。
シュヴァルツ様は口を挟まなかった。ただ最後に、一度だけ短く尋ねた。
「お前は、無事だったんだな」
「さっきも言っただろう、無事だよ。……お前がアーリエを助けてくれたことも聞いた。ありがとう」
「当然のことだ」
やりとりはそれだけだった。それ以上は言葉が必要ないかのように、二人は頷く。
コーデリア様からも、ハーゲン様や、彼の行っていたことについて聞いた。彼女が壊したドールハウスのような魔道具は箱庭と言われていて、若い魔法士の訓練に使うものであるらしい。
「魔道具の中に閉じ込められるんだけど、屋敷の出口を探すには、魔力の痕跡を辿る必要があって……。さらに魔力を込めることで障害、たとえば嫌な思いをさせる幻覚とかを、中の人間に見せることもできるの。自分で出口に辿り着くか、箱庭を壊せば魔法は解除されるわ。本来は魔力を探知する訓練に、使われるものなの」
魔道具を指定の空間と繋げたり、特定の人だけを招き入れることもできるみたい。だからきっと、教会からいきなり移動したり、アーリエさんだけを閉じ込めたりも出来たのでしょうね。
コーデリア様が魔道具を壊した理由に納得していると、シュヴァルツ様もなるほどな、と頷く。
私が魔道具に閉じ込められてすぐ、シュヴァルツ様とミシュカは、教会に戻っていたらしい。先ほどまでの場所が王城であったことから大急ぎで城に向かい、離塔で魔力の気配を感じたのだと、ミシュカは話してくれた。
階段から、また足音がした。今度は静かなものだった。
「――話は終わったか」
現れたのは、クロード第二王子殿下だった。
「兄様、ハーゲン兄様は」
「見つけた」
クロード様は、一度だけ天井を見上げた。
「西の回廊で倒れていた。魔石は一つも残っていない。全部砕けていた」
「そう。……きっと、魔法の反動ね。魔法士でもない人間が、あの規模の魔道具を維持していたんだもの。大量に魔石を魔法士たちから奪ったとしても足りなくて、尽きたあとも、魔道具は動き続けていた。……魔力を持たない人間が代わりに差し出せるものなんて、自分自身くらいしかないわ」
一つ頷いて、クロード様は淡々と続けた。
「意識はある。話も、まあ通じる。ただ、髪が白くなっていた。医師は、生きていること自体が幸運だと言っている。後遺症は残るだろうと。……箱庭の暴走の代償だろう。自業自得だな」
誰も、なにもろ喋らなかった。
あの人の姿を思い出す。悠然とソファに座り、宙を舞う茶器を見せつけ、これが俺の力だと両腕を広げた人。国王にして魔法士である、俺の栄光を、と叫んだ人。
「……少なくとも、王太子はもう無理だ」
クロード様の声には、勝ち誇るような色も、憐れむような色もなかった。ただ、事実だけを並べていく。
「王位継承権は剥奪にさせる。両陛下が戻られたあとの手続きは要るが、覆ることはない。クラウシャとの縁談も、俺が王女の婚姻相手に代わるか破談になるか……。あちらの返事次第になるだろうな」
「私も許さないわ。絶対に。あの人が玉座に着くことは、私が許さない」
コーデリア様が、はっきりと言った。緑の瞳が、こちらを向く。まっすぐな視線だった。
「アーリエさん。……あいつを、どうしたい?」
え、と声が漏れた。
「今回の件は、王太子が決して行ってはいけないものだった。王家を憎んで当然だわ。あなたにも、ローディスにも。その権利がある」
本当にごめんなさい、と彼女は深く、頭を下げた。
この事態を公にすれば、王家は当然信用を失うでしょう。我々はそれを避けたいとは思うけれど、そんなことを言っていられる立場でないことも、わかっているの。
王家の人間として、あなたにできる限りの償いをします。だから教えて。あなたは王家やハーゲンに、何を求めるのか。
彼女が話す間、誰も言葉を挟まなかった。クロード様も、兄もひどく静かに、私を見つめている。
考えようとして、うまくいかなかった。
兄を返して欲しかった。心配で仕方がなかった。手首が痛むたびに、目隠しの暗さを思い出すたびに、手のひらを握りしめたはずだった。
――なのに、どうしたい、と言われると。シュヴァルツ様やミシュカ、オトゥールの人々の顔ばかりを、思い出してしまう。
「……なにも」
自分の声は、思ったよりも小さい。
「なにも、望みません。王家を憎むなどあり得ません。コーデリア様とクロード様は、兄を助けてくださいました。王族の中にもこの件を解決してくださろうとした方がいるのに、どうして王家を恨むことができるでしょう。ハーゲン様も、そのような状態なら、これ以上は私からは、なにも」
公表も望みません、と言葉を続ける。
きっと優しさなどではない。でも、酷い思いをした、許せないと言うには、オトゥールでの日々はあまりにも優しくて、楽しかった。
コーデリア様はしばらく黙って、それから小さく頷いた。
「……そう。ローディスは?」
「俺が貴女や王家を憎むわけが無いって、分かっているでしょう」
貴女の婚約者に対しては文句は山ほどありますが、と、あっさりとした返事だった。
ありがとう、とコーデリア様はぽつりと呟く。
それはきっと、この件を公表しないと伝えた、それだけではなかった。
∮
「ひとつ、聞いてもいい?兄様」
クロード様も、コーデリア様の隣に座る。私が尋ねると、何でも聞いてくれと兄は頷いた。
「どうしてお兄様は、コーデリア様のことを、一度も話してくれなかったの?」
兄から彼女と親しいと聞いたことは、一度もない。イニシャルだけを並べた書類も、他の人に話さなかったことも。ずっと引っかかっていたことだった。
兄は少し困った顔をして、コーデリア様のほうを見た。
「言っていいか?」
「………………いいんじゃない」
「うわ、嫌そうな顔。そうだな」
兄は椅子に座り直して、私を見た。
「彼女の名前をどこにも残さないでくれって、コーデリア王女自身から言われたんだ」
「名前を……? どうして」
「孤児院も、退役した騎士の見舞金も、全部コーデリア王女が始めたことだ。俺は人を繋いだり、話を運んだりしただけで。……なのに彼女は、全部クロード殿下の功績ということにしろと言った」
記録にも、口頭でも、この人の名前は出さない。文書に残すときはイニシャルとか分からないようにする。
紙一枚、証言ひとつ残さない。そういう約束だった。
「どうして、そんな」
「そのほうが早いからよ」
あっさりとした返事だった。返事をくれたコーデリア様は、右手をひらりと振る。
「事業の成功を、全部クロード兄様の功績にしたかったの。積み上がれば積み上がるほど、兄様は玉座に近づくわ。……そこに私の名前が一つでも混じったら、どうなると思う?」
男漁りが趣味の散財姫が関わった事業。そう言われて、価値が下がるだけよ。
「だったら、いない方がいいでしょう。私の痕跡なんて、一つも残らないほうが」
ローディスにも散々嫌な顔をされたけれど、これだけは譲らなかったわ。彼女はそう言って、少し笑った。
兄は肩をすくめる。
「…………コーデリア」
「に、兄様」
驚くほどに低い声。声の主はクロード様で、妹を凝視する彼は、恐ろしいほどの無表情だった。なのにこめかみに青筋が浮いている。
――憤っている。恐ろしいほどに。
「後でよく話そうな」
「良いですね。俺も今までのことを踏まえて、これからについて話したいとずっと思っていたんです」
「ひぇ」
兄と婚約者の言葉に、コーデリア様が小さく呟いた。助けを求めるように周囲に視線を向けるが、兄はそっと首を振った。
「あ、の。私からも、話したい……。というよりも、お願いしたいことがあるんです」
コーデリア様も含めて、皆がこちらを向く。緑の瞳と、目が合った。
「謝罪は望みません。けれどこれからのオトゥール辺境伯領への、瘴気だまりから湧く魔獣対策の支援を、していただけませんか」
言葉にすると、思っていたよりもすんなりと声が出た。
「あの土地では、毎年冬に魔獣が出て、人を襲います。シュヴァルツ様はずっと、その被害を抑えるために、尽力されていました。領民が、冬を怯えず乗り越えられるように。今は私も、そうなって欲しいと願っています」
「なので、辺境伯に魔法士の方を派遣して頂けませんか。誰も魔獣に殺されない冬のために。……どうか、お願いいたします」
深く頭を下げる。アーリエ、とシュヴァルツ様は小さく呟いたが、止められることはなかった。
コーデリア様は目を丸くして、瞳を細めて笑った。今まで見たどの姿とも違う、年相応の笑い方だった。
「もちろん」
迷いのない返事だった。
「もちろんよ。むしろ――私もずっと、そうしたかったの」
∮
王都での日々は、思っていたよりも長く続いた。
あの後、倒れていた男たちは運び出されて、割れたドールハウスの破片は、ミシュカが一つ残らず拾い集めていた。
目を輝かせて箱庭と壊れた騎士人形を持って帰っていいかと聞く彼女は、王都の魔道具を調べたり魔法士達と関わったりして、とても忙しそうで、けれど楽しそうだった。
ハーゲン様の一件は、国もアルエット公爵家も、公にしないことを選んだ。けれど公にしないからと、何もなかったことにはならない。
王城の兵士の負傷は魔法士によってたちまち治療されたけれど、今も起き上がることも出来ない王太子様は同じようにはいかない。
彼の変化はこの国の発展のために魔法の研究に手を出し、魔法が暴走してしまったゆえのことにされた。
両陛下が外遊から戻られたのは、あの一件から一週間ほど後のことだった。
クロード様とコーデリア様の、そうして両陛下の間で何を話されたのかは知らない。けれどその数日後、王太子様の廃嫡と王位継承権一位の変更が、正式に決まった。
クラウシャ公国との縁談についてはまだ折衝が続いているらしく、クロード様は毎日、恐ろしい量の書簡と向き合っているらしい。
あと特筆すべきことは、書類の上では、兄が罪に問われた事実そのものが消えたことだろうか。私とともに屋敷に戻った兄を見て、母は兄を抱きしめて、声を押し殺して泣いていた。父は何も言わずに、肩を強く二度、叩いていた。
そうしてその夜、久しぶりに家族で食卓を囲んだ。シュヴァルツ様とミシュカも同じ席について、六人で。
兄はずっと、楽しそうに笑っていた。必要ならしばらく滞在させるという話だったのにどうしてアーリエとシュヴァルツが偽装結婚しているんだとか、いつの間に恋仲になっていたんだとか。兄のシュヴァルツ様への追求は長く続いて、母も話を聞きたがったから、シュヴァルツ様はずっと、眉を寄せた困った顔をしていた。
辺境伯への支援の話が具体的に動き始めたのは、その翌週のことだった。
オトゥール辺境伯領への魔法士の常駐や、瘴気だまりの調査計画。クロード様とコーデリア様に呼び出されて紙を捲るうち、シュヴァルツ様の表情も変わっていくのを、隣で見た。
「……この数日で組めるものではないな」
「一年前から、コーデリアとローディスが作っていた」
あっさりとした返事だった。
「……感謝する。本当に」
声は、いつもより低くて掠れていた。
「頭を上げてちょうだい、オトゥール辺境伯。礼を言われることじゃないわ」
コーデリア様は困ったように笑って、それから少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「これは償いですらないの。私たちがやりたかったことを、やっと出来るようになっただけ。……だから今、本当に嬉しいわ」
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教会の石畳を踏む音が、あの日と同じようによく響く。隣を歩く人の手は、私の手と繋がれている。
銀糸の刺繍が施されたドレスと、どうしてもあなたがつけるところを見てみたいの、と母から借りたアルエット家の家宝である髪飾りを身に付けて。これから私達は、神に結婚を宣誓する。
教会での誓いの言葉は、昔から伝わるものだ。
常に互いを支え、離れずにあることを、神と国、そうして女王セイレアに誓うか。
神父様の言葉に、二人で顔を上げる。
「「誓います」」
声は、自然と重なる。
次の冬には、魔獣に誰も殺されない季節が来るのだろうか。 間に合わないかもしれない。その次も、そのまた次も。
それでも、必ず迎えてみせる。
オトゥールを愛する人たちのために。
あの場所を愛する人たちと、私と貴方で。




