ヴィンセント編 5話
宮殿に帰ってきた私は、頼まれた本を抱え、ヴィンセントの部屋の前に立っていた。
いつも通り扉を小さく叩く。すると、中から声が聞こえてきた。
「どうぞ」
「…失礼致します」
扉を開けた先には、本革張りの椅子に座り、重厚な机に向かうヴィンセントの姿があった。羽軸の根元に銀の金具が嵌められた白鳥の羽根を走らせている。
私は部屋の中へ足を踏み入れ、そっと扉を閉めた。
銀の筒に羽根を収め、手元の紙を書類の束に重ねるヴィンセント。
そんな彼の前で、私は足を止めた。
「ただいま戻りました」
抱えていた本を差し出すと、
「ご苦労様」
ヴィンセントは微笑み、それを受け取った。
背凭れに寄り掛かり、ペラペラと頁を捲る。
「道、迷わなかった?」
「はい。ヴィンセント様が描いてくださった地図が分かりやすかったので」
「そう。なら良かった」
端正な口元が緩む。空っぽでも、悪意がこもったものでもない純粋な笑顔だった。
その笑顔を見ていたら、
「…本、お好きなんですか?」
自然とそう問いかけていた。
(……………え?)「え?」
私の心の声とヴィンセントの声が重なった。
菫色の瞳と視線が交わる。頭の中では、
『君は、彼のことが知りたいんだね』
先程フレディに言われた言葉が響いていた。
(いやいやいや、違うから!別にこいつのことが知りたいんじゃないから!これは、その………そう!ただの世間話だから!!!!)
「んー、どちらかというと好きかな。昔はよく王宮図書館に行ってたし」
「王宮、図書館……」
──王宮図書館。
限られた人間しか入れない、王宮の敷地内にある図書館のことだ。
「あ、そういえば、君に読み書きを教えたのもあそこだったよね」
「…っ、え、ええ…」
(オフィーリアに読み書きを教えたのは、ヴィンセントだったんだ…!)
「えっと、もう行かれないんですか?」
「ああ。あそこに置いてある本は全部読み終わっちゃったから」
「へぇ……ぇえ!?」
突然の大声に、菫色の瞳が見開いた。
机に手を置き、私はぐいっと身を乗り出す。
「読み終わっちゃったんですか!?全部!?」
「う、うん…」
「でも、あそこって、この国で一番大きな図書館ですよね?かなりの蔵書数だったと思うんですけど…」
「いや、うちは学問に力を入れてないから、あそこでも五万冊くらいしかっ…」
「五万冊!?五万冊はしかじゃないですよ!え、すごいすごい!」
「……………」
自分がオフィーリアであることを忘れ、私はヴィンセントを褒めた。
けれど、言われた本人は照れることも謙遜することもなく、ただ目を丸くしていた。
「なんだぁ、ちゃんと好きなんじゃないですか~」
思わず笑みをこぼした。その時、
「わっ」
少し開いていた窓から強い風が入り込んできた。
机の上の書類が舞い上がり、ヒラヒラと落ちる。辺り一面が真っ白に染まった。
「た、大変…!」
慌ててしゃがみ込んだ私は、長い髪を耳に掛け、書類を拾う。一枚、二枚、三枚、四枚目を手を伸ばした瞬間、自分と同じくらい白い手が書類に触れた。
顔を上げると、椅子に座っていたはずのヴィンセントが床に膝をつけ、書類を拾っていた。
「あ、ありがとうございます……」
「ははは、それは僕の台詞だよ」
長い睫毛が持ち上がり、弧を描いていた菫色の瞳に私が映った。
「ありがとう、オフィ。…いつも君は僕の欲しいものをくれるね」
「欲しいもの…?」
床へ視線を戻したヴィンセントは、再び書類を拾い始め、ゆっくりと口を開いた。
「…君の言う通り、僕は本が好きだよ。でも、好きだから読み始めたんじゃない。僕はただ──」
手に取った書類を握り締め、顔を上げた。
「父上に、褒められたかったんだ」
いつも通り、ヴィンセントは私に笑いかける。
けれど、その笑顔はどこか寂しそうに見えた。
(それだけのために、こいつはあそこにある本を全部読んだっていうの…?)
ズキリと、胸に痛みが走る。
自然と胸元で手を握り締めていた。
「あはは、馬鹿だよね。どんなに勉強しようが、どんなに剣を振るおうが、父上が僕を見るわけないのに。褒めるわけないのに。どうせ……………」
「どうせ?」
「……………ううん、何でもないよ」
そう言って、ヴィンセントは最後の一枚を拾い上げ、すっと立ち上がった。
トントンと机で書類を揃える彼の背中を見上げながら立ち上がると、今度は柔らかい風が入り込んできた。
パラパラと音を立てて、机に置かれていた分厚い深緑色の写本が捲れる。
最後に開かれていたのは──
薬草の画が描かれたページだった。




