12:核心に迫る者
夜の帳が降りる頃、根津は書斎のデスク前に身を沈めていた。
カーテンの隙間からは、街灯の光がぼんやりと差し込んでいる。机の上には、書き損じた資料とプリントアウトされた画像、破棄された投稿のログが散らばっていた。
ディスプレイの向こうでは、静かに情報の洪水が流れている。
画面を覆うのは、行政が繰り返し発信してきた「水道水の安全性」を信じる声だった。
《市長の冷静な対応に感謝します》
《根拠のないデマに惑わされないようにしましょう》
《不安を煽る行為は、犯罪に近い》
誰が打っているのかもわからぬ文言が、均質な肯定の波となって連なっていた。
その合間に、別種の投稿が目を引いた。
《“あの投稿”の主を特定すべきだと思う》
《誰か知ってる人、いないの?》
《告発者=反市民》
――告発者を探せ。
そう明言された言葉に、根津の呼吸がわずかに乱れた。
不意に、かすかな冷気が背中を這い上がる。もはや、事実や論理は“流れ”の前では意味をなさない。真実を伝えようとすればするほど、その発信者は異物として排除される。
根津は、握っていたマウスから手を離し、そっと膝の上に置いた。
その指先が、わずかに震えていることに、自身でも気づいていた。
「……どうすれば、いい」
言葉は声にならなかった。
ペンを取り、メモを開く。あらゆるルート、あらゆる手段を再確認しようとするが、紙面に広がるのは既に試した策と、打ち切られた矢印ばかりだった。
まるで、封鎖された水路の中で、独りもがくような感覚。
遠くの台所から、美保が食器を洗う音が響いてきた。
生活は続いている。だが、その水の透明さを、根津はもはや信じることができない。
***
夜半、根津の自宅にはまだテレビの青白い光が灯っていた。
画面には市の公式広報番組が流れ続けている。「水道は安全です」。
同じ文言が繰り返されるたび、言葉が意味を失っていく感覚が、根津の胸に染み込んでいった。
スマートフォンが震えた。
「白石優菜」――数時間前にアカウントが凍結されたはずの彼女からだった。
「……今、大丈夫ですか?」
声は抑えられていた。
いつもよりもひときわ低く、警戒心を滲ませていた。
「はい。何かあったんですか」
「見ていただきたい資料があります。すぐに、直接お渡ししたいものです」
「今から?」
「はい……できれば人の目につかない場所で。庁舎の裏口にある駐車場、今夜1時。そこでお待ちしています」
通話はそれだけで切れた。
根津は一瞬躊躇したが、すぐに立ち上がり、レインジャケットを羽織って玄関を出た。
***
白石が指定した場所は、庁舎裏手の古い職員駐車場だった。照明のほとんどが落ちており、周囲は不気味なほど静かだった。夜露の匂いと、アスファルトに染みついた油の臭気が交じり、空気は澱んでいた。
駐車場の片隅、白石はシルバーの軽自動車のドアに背を預けて立っていた。
小さな紙袋を胸に抱え、その顔には、すでに“告発者”としての覚悟が宿っていた。
「……ありがとうございます、来てくださって」
紙袋の中には、厚みのある紙資料が綴じられたバインダーが二冊、そしてUSBメモリが一本入っていた。
「これ、旧水質モニタリング報告書と、坂井環境開発が市に提出した“再開発土壌調査報告書”の写しです。いずれも公文書管理規程上、閲覧には部長決裁が必要ですが、私が直接システムから……コピーしました」
言い淀んだが、目は真っ直ぐだった。
根津は無言で頷き、膝に置いた資料をめくり始めた。
**
最初の異変に気づいたのは、報告書に並ぶ「数値の書式」だった。
「ここ……この項目、“0.013 mg/L”って書いてあるが……」
根津は指でなぞりながら言った。
「これは、以前の下書きでは“0.13”になってたんじゃないのか?」
白石は無言で頷いた。
「私、以前このファイルのバージョン管理画面を確認したことがあるんです。そこでは、入力直後の数値が『0.13』でした。それが、1日後に修正されて『0.013』になっていた。しかも、訂正理由の欄は空白のまま」
続いて水質測定報告書。
こちらには特定化学物質名の記載が一切なかった。
「トリクロロエチレンは?」
根津が問うと、白石は首を横に振った。
「揮発性有機化合物として一括処理されています。しかも、全て“ND(不検出)”と書かれていました」
「検出していたのに?」
「……はい。元の測定ログには、微量ですが、0.008〜0.015mg/Lの値が確認されていました。それを“ND”と表記しているんです。“基準値未満”ではなく、“検出せず”。これは、データを加工したというより、削除されたという意味です」
根津は深く息を吐いた。
「つまり……これが、市役所の内部で通過してるってことか」
白石は視線を落としたまま、唇を結んだ。
「はい。上長決裁のもと、電子印が押され、“正式な報告書”として公開されました。……誰も見ていないふりをして、書類の“数値だけ”が、正常値に変えられた。あの地下のドラム缶が何を示していたかなんて、報告書上は一切、存在していないんです」
静寂が落ちた。
遠くで猫の鳴き声がした。風が止まり、世界が密室のように閉じていた。
根津は、手元のUSBを見つめた。
「……この中には?」
「ファイル更新履歴のスクリーンショットと、データの原本です。それと、メールログ。訂正を指示した上席の名前も残っています」
「誰だ?」
白石は答えなかった。だが、唇は微かに震えていた。
「……あなたがこの資料を持ち出したこと、危険だって分かってるな」
「はい。でも、もう持っていることが一番の防御です。これで、あとは……出すかどうかだけですから」
根津はその目を見つめた。
不安も、恐怖もあった。だが、それ以上に、火が灯っていた。
資料を胸に抱えたまま、白石はうっすらと笑った。
「……この町の水、きれいだと信じてたんです。でも、本当は最初から――誰かが汚していたんですね」
根津は、その言葉を黙って飲み込んだ。
それが、この夜の核心だった。
――そして、次にやるべきことは、もう決まっていた。
***
夜明け前、まだ月の残る空の下。旧浄水場の裏手、地面には複数の重機跡が硬化して残っていた。島村は一人、膝をつきながら湿った土を掘り返していた。金属製の探針棒を地面に突き刺し、手の感触に注意を払いながら、沈黙の中で作業を進めていく。
「……ここだろ」
呟いた声は空気に吸われるように小さく、周囲の冷気にすぐ飲まれていった。
先日、根津とともに現地を訪れた際、重機のバケット痕の中に不自然な水溜まりと、土壌の異臭があった。それがどうにも気になって、彼は一人戻ってきた。
地面を十数センチ掘ると、乾いた土の下から粘土質の層が現れる。その先はすぐに黒ずんだ砂利。そして――金属に触れる独特の“カン”という音が、手元に響いた。
島村はシャベルを捨て、素手で慎重に土を掻き出す。
次の瞬間、土の中から顔を覗かせたのは、半分腐食したドラム缶の縁だった。金属の表面は泡立ったように腐食し、ぬめりを帯びている。その周囲の土からは、刺激臭がかすかに漂っていた。
「……マジで出てきたか」
一瞬、背中に冷たい汗が走る。
ドラム缶の腹には、黄色いラベルの切れ端がまだ貼りついていた。剥がれかけながらも残っていたその紙を、そっと引き抜いてみる。
【産廃識別票】
文字の一部は消えかけていたが、「TCE」「危険物」といった単語がはっきり読み取れた。さらに小さく、管理番号と企業コードが記されている。それは、島村が過去に土木工事で何度も目にした坂井環境開発の廃棄物管理コードだった。
「終わったな……こりゃ、アウトだ」
もう一度、缶の腹を照らすと、腐食した表面からうっすらと液体が染み出していた。それは土に混じっていたせいか乳白色の膜を帯び、照明に当たるとわずかに虹色の光を放った。
咄嗟にスマホを取り出し、缶の様子を複数角度から撮影。
シャベルの柄に識別票を引っ掛け、証拠として写真に収める。その奥、土にまぎれて一枚の紙片が泥に濡れていた。それを拾い上げると、古びた作業日誌の断片だった。
《9/14 坂井監督 現場急ぎ指示あり。缶臭強い。水混入注意。写真厳禁。報告は口頭》
字は雑だが、内容は明確だった。
島村の背後の森が、風で揺れた。
――カサッ。
振り向いた。誰もいない。
それでも、空気の流れが変わったような気がした。明け方に近づくにつれ、微かに鳥の声が混じり始めていた。
島村は急いでラベルをポケットにしまい、日誌の断片を工具箱の底に押し込んだ。スマホには画像データを保存し、バックアップ用に別アカウントへ送信しようとする――が、通信が不安定だった。
「……ここじゃ、ダメか」
現場を離れようとしたその時だった。
不意に背後で「パキ」と、枝の折れる音が響いた。
島村は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
そこには何もなかった。だが――気配だけは、はっきりと残っていた。
彼は小さく息を吐き、工具箱の取っ手を握り直す。
この証拠を持って帰れば、すべてが繋がる。
そう信じて、静かに現場をあとにした。




