13:島村が残したもの
午後十一時を回った室内は、空調の切れた静けさに満たされていた。
カーテンは半分しか閉じられず、路地から差し込む街灯の光が、床に鈍く伸びていた。
根津は、手元のスマートフォン画面が凍結通知で真っ白になったまま動かぬのを、無言で睨みつけていた。
リビングの隅、テレビはつけっぱなしだった。音声は落とされていたが、画面の中でアナウンサーの表情が、明らかに通常のニュースとは異なることを物語っていた。
根津はリモコンを取り、音量を上げた。
> 「……繰り返します。本日午後、〇〇市郊外の資材置き場で、男性一名の遺体が発見されました――」
一拍遅れて、頭蓋の内側で警鐘のように何かが鳴った。
画面には現場周辺を映した空撮映像。警察の立入線と、ターポリンに覆われた遺体。
隣に写るのは、さびた建設機材と、見覚えのある赤茶けた軽トラック。
――見覚えが、ある。あの荷台のフェンス。ステッカーの位置。
根津は画面に顔を寄せた。
> 「遺体は市内在住の男性、島村健一さん(61)。死亡推定時刻は昨夜から今朝方にかけてと見られ、警察では自殺と他殺の両面で調べを進めています」
名前が口にされた瞬間、根津の背筋に冷水を注ぎ込まれたような感覚が走った。
心臓の拍動が一度、耳の奥で跳ねる。
島村。昨夜、電話をかけ続けても応答がなかった、あの声の主。
「……ウソだろ」
思わず口をついて出た声が、部屋に孤独に響いた。
根津はテレビを凝視したまま動けなかった。
アナウンサーは変わらぬ表情で、次の項目へと原稿を読み上げていく。
しかし根津の視界は、赤茶けた軽トラックの荷台に残る、金属片のような反射光に縫い止められていた。
あの場所で、彼は何を見たのか。
なぜ、彼が死なねばならなかったのか。
その瞬間、心の底に沈んでいた「恐れ」が、確かな輪郭を持って浮かび上がった。
これはもう、ただの水の問題ではない――。
それは、意図的に始まり、何かが、それを隠し通そうとしている。
そして、島津は、その“何か”に触れてしまったのだ。
テレビの音声が遠のき、根津の頭の中にはただ一つの思いだけが残った。
――俺も、そろそろ危ないのかもしれない。
***
通夜の会場は、郊外にある質素な集会所だった。
祭壇には白菊が並び、中央に飾られた遺影の島津は、作業着姿のまま穏やかに笑っていた。
だが、その笑みを今、根津の胸に穏やかに迎える余裕はなかった。
受付で名を告げ、香典を渡し、焼香を終えた根津は、弔問客の少ない一角で静かに立ち尽くしていた。
どこか場違いなほど静かな空気が、葬送の儀式というよりは、封じられた何かの存在を際立たせていた。
島村の妻、千佳子が声をかけてきたのは、そんなときだった。
憔悴の色は濃いが、姿勢は凛としていた。根津が深く頭を下げると、千佳子は小さく頷き、ぽつりと口を開いた。
「……最後に、変だったの。夫が」
根津は黙って耳を傾けた。
「前の晩、夕飯のあとに電話をしてたみたいなの。小声で。聞こえなかったけど……『これ、やっぱり出しちまった方がいいかもな』って、独り言、言ってたの。何のことか聞いても、『明日話すから』って笑って」
千佳子の声は、まるで記憶をなぞるように震えていた。
「そのあと、夜中に急に起きて、『やっぱりアレを確認しに行く』って、車を出したの。でも、それっきり……朝になっても帰ってこなくて……」
根津の背筋に、冷たい感覚がじわじわと這い上がってくる。
「アレって……?」
「わからないの。だけど……夫、こないだ、家の裏で古いノートを探してて。『あの現場、前にも変だった』って……。何か思い出したみたいで」
言葉の途中で、千佳子の目に涙がにじむ。
根津はそっと頭を下げ、礼を言った。これ以上、喪主に重荷を背負わせるべきではない。
だが、確信はあった。
島村は――何かを掴んでいた。
それは、汚染の核心に近い情報だったか、あるいは、もっと踏み込んだ“証拠”か。
いずれにせよ、それを取りに行った晩、彼は命を落とした。
死因は報道では「事故または自殺」とされていた。
しかし、島津は現場で自ら命を絶つような人間ではなかった。
そして、現場に残された軽トラックの中には、見つかっていない私物があると報じられていた。
「出しちまった方がいいかもな」――それは、何かを公にする覚悟だったのかもしれない。
根津は、控室に戻る足を止めた。
資材置き場。島津が最後に向かった場所。そこに、まだ何かが残っているかもしれない。
人が命を賭けた情報が。
その夜、根津は帰路につきながら、風にかき消されそうな声でつぶやいた。
「……もう一度、あの現場を見に行く」
そしてそのつぶやきは、自らをさらなる危険へと導く引き金となることを、根津はまだ知らなかった。
***
島村の通夜の翌日。
灰色の雲が空を覆い、町は週末の静けさに沈んでいた。
根津はひとり、旧工業団地の脇にある、島村の会社の資材置き場に立っていた。
入口のチェーンは外され、警備もいない。
施錠もされていないプレハブ小屋には「休業中」の紙が、外れかけたガムテープで貼られていた。
作業車が一台だけ、プレハブの陰に止められている。白い軽トラック。ナンバーも見覚えがあった。
――あの日、島村が乗って行った車だ。
根津は辺りを警戒しつつ、そっと助手席のドアを開けた。
埃っぽい空気と、かすかに油の匂いが鼻を突いた。
シートの上には、破れかけた地図、作業記録の入ったバインダー、そして泥の付着した軍手が一対。
ダッシュボードの中には、予備のマスクと懐中電灯。
手がかりになりそうなものは、どれも島津が普段から持っていた日用品ばかりだった。
それでも、諦めずに運転席側に回る。
足元のフロアマットの下に、何かが引っかかっていた。
小さな、黒いUSBメモリだった。
根津はそれを手に取ると、ポケットに滑り込ませ、周囲をもう一度見渡した。
誰もいない。だが、妙な静けさが、空気を不自然に緊張させていた。
自宅に戻り、古いノートパソコンを立ち上げ、ウイルス対策を施した上で、USBを挿入する。
データは一つのフォルダにまとまっていた。
中には、日付入りのJPEGファイルと、音声ファイル、そして一つのメモ書きテキスト。
画像ファイルを開いた根津は、言葉を失った。
それは、夜間撮影されたものと思われる旧浄水場の地下空間。
赤茶けたコンクリートの壁、埋設途中のドラム缶の蓋が半分露出している。
缶の表面には、化学薬品の警告マークがはっきりと写っていた。
次の画像には、崩れかけた旧配管の接合部が映っていた。
その根元から、白く濁った液体が滲み出していた。
さらに別のカット。
配管の内側を覗くように差し込まれた内視鏡カメラの映像らしき画像。
管の内壁には黒ずんだ沈着物が付き、断面には乳白色の膜が層を成していた。
最後の画像。
地面に転がる青いドラム缶の蓋と、それに貼られたラベル。
かすれていたが、そこにはこう印字されていた。
「トリクロロエチレン(TCE)」
根津の呼吸が浅くなる。
島村は、現場で汚染物質の名称が記された証拠そのものを見つけていたのだ。
次に、メモ書きファイルを開く。
《memo_20250704》
根津さんへ。
もし俺に何かあったら、このデータを見てほしい。
あの配管、死んでなかった。地下タンクの更新工事で、一度“逆流”してる。 やっぱり、あの水は普通じゃない。
あの缶のマーク、ヤバい。調べたら“TCE”ってやつらしい。 人体に入っちゃいけないもんだ。誰かが意図的に埋めたんだ。
写真は、昨日の夜に撮った。
今夜もう一度、管の奥まで行ってみるつもりだった。
でも……もし、これが最後になるなら、根津さん、頼む。
これは、ただの汚染じゃない。
誰かがやったことだ。
島村健一
手の震えが止まらなかった。
このデータがあれば、決定的だ。
だが、それは同時に――島村が命を落とす理由にもなり得た。
「……やっぱり、お前……見つけてたんだな」
根津はつぶやいた。
その瞬間、PC画面の背後で、スマホが震えた。
白石からの通知。
> 《拡散の準備はできています》
根津は、USBを強く握りしめた。
もう、迷いはなかった。
次は、自分が踏み込む番だ。
島村がたどり着いたその場所へ――そして、真実の中心へ。




