『消えた港』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
夜。
灯台の外では、
吹雪が弱く続いていた。
白い。
静かな雪。
だが。
灯台内部の空気は重い。
誰も、
さっきの鐘を忘れられなかった。
暖炉の火だけが、
ぱちぱち鳴っている。
ユキは、
暖炉の近くで膝を抱えていた。
炎の音だけを、
じっと聞いている。
ミツコが、
静かに隣へ座った。
厚手の毛布を、
そっと肩へ掛ける。
「冷えるやろ」
ユキが、
小さく頷いた。
「……うん」
外では、
また鐘が鳴っていた。
遠い。
けれど。
耳の奥へ残るような音だった。
フィルニアですら、
今日は静かだった。
タマが、
暖炉を見ながら呟く。
「港ごと消えたって、
そんな事あるのかよ」
灯台守は、
しばらく黙っていた。
やがて。
古い記録帳を開く。
分厚い。
かなり古い物だった。
「正式記録では、
“北方沈降災害”になってる」
「だが、
実際に見た人間は違う事を言った」
ページをめくる。
黄ばんだ紙。
古い文字。
灯台守が、
低い声で読む。
『霧が来た』
『鐘が鳴った』
『海が消えた』
『街が霧へ呑まれた』
ユキが、
小さく息を呑む。
「海が……消えた?」
「正確には、
見えなくなった」
灯台守は、
静かに北を見た。
「その日から、
北の地図は繋がらなくなった」
⸻
翌朝。
吹雪は止んでいた。
だが。
白霧はさらに濃い。
灯台から見えるはずの航路灯が、
半分以上消えていた。
カヤが、
険しい顔になる。
「近過ぎる……」
港との通信も、
途中で途切れていた。
ノイズが混じる。
『こちら―――』
『白霧が――』
『鐘が―――』
ブツッ。
通信断。
ユキが、
不安そうにミーコを見る。
ミーコは、
静かに霧を見ていた。
霧が動いている。
生き物みたいに。
ゆっくり。
灯台へ近付いている。
⸻
昼前。
灯台守が、
地下倉庫を開けた。
重い扉。
軋む音。
その奥には、
大量の古地図が保管されていた。
普通の海図じゃない。
古い北方航路図。
今の地図には無い場所まで描かれている。
ユキが、
一枚を見上げる。
「街……?」
そこには。
“北方港湾都市イルゼア”
と書かれていた。
巨大港。
観測塔。
外洋航路。
かなり大きな街だったらしい。
タマが、
眉をひそめる。
「今は無いのか?」
灯台守は、
静かに頷く。
「霧が呑んだ」
「街ごとな」
カヤが、
古地図を見つめたまま呟く。
「今の航路、
ここを避けるように作られてる」
トシオが、
地図へ指を置いた。
「……近いな」
今の灯台位置と、
消えた港。
想像以上に近かった。
⸻
その時。
外で鐘が鳴った。
ゴォォォォン――――
全員止まる。
近い。
昨日より近い。
灯台守が、
即座に外へ出た。
一行も追う。
吹雪は無い。
なのに。
視界が白い。
霧だった。
灯台周囲まで、
完全に霧が降りてきている。
そして。
その中に。
街灯が見えた。
ユキが、
息を呑む。
「……え?」
灯りだった。
白霧の奥。
小さな灯りが並んでいる。
まるで。
街みたいに。
フィルニアが、
低く呟く。
「なんだあれ……」
鐘が鳴る。
ゴォォォォォン――――
その瞬間。
霧の奥で、
影が動いた。
人。
大量。
ゆっくり歩いている。
港夫みたいな服。
船乗り。
女。
子供。
だが。
全員ぼやけている。
輪郭が曖昧だった。
ユキが、
小さく後退る。
「……いる」
カヤの表情が、
初めて明確に強張った。
「イルゼア……」
⸻
霧の街は、
ゆっくり現れていた。
存在してはいけない港。
だが。
確かにそこにある。
船着場。
塔。
建物。
しかも。
鐘の音まで聞こえる。
タマが、
低く言う。
「幻覚じゃねぇのか」
ミーコは、
静かに首を横へ振った。
「違う」
「あれ、
“ある”」
その言葉で、
空気が変わる。
存在している。
だが。
存在してはいけない。
灯台守が、
拳を握った。
「近付き過ぎたか……」
その時。
霧街の方から、
歌が聞こえた。
港歌だった。
昨夜、
港夫達が歌っていた物に似ている。
だが。
遅い。
暗い。
沈むみたいな歌声。
ユキが、
小さく震える。
「やだ……」
ミツコが、
そっと肩を抱いた。
⸻
その夜。
誰も眠れなかった。
霧街は、
消えなかった。
ずっと、
灯台外へ存在している。
しかも。
少しずつ近付いていた。
窓の外。
白霧の中。
港灯りが見える。
あり得ない距離だった。
カヤが、
灯台上層で見張りを続けている。
トシオも、
一緒に外を見ていた。
「逃げるか?」
カヤは、
静かに首を横へ振る。
「航路が見えない」
「今出た方が危険だ」
白霧の中では、
方向感覚が狂う。
鐘を聞いた船は、
戻れなくなる。
それが北航路の常識だった。
⸻
深夜。
ユキが目を覚ました。
静かだった。
だが。
どこかで、
鐘が鳴っている。
ゴォォォォン……
小さい。
遠い。
夢みたいな音。
ユキは、
そっと窓を見る。
その瞬間。
息が止まる。
街が、
すぐ外にあった。
港灯。
石畳。
白い塔。
そして。
窓の向こうに、
人が立っていた。
氷を纏った船員。
ぼんやりした顔。
だが。
じっとこちらを見ている。
ユキが、
小さく後退る。
その時。
船員が、
ゆっくり口を開いた。
声は聞こえない。
だが。
確かに言っていた。
“おいで”
ユキの瞳が、
ぼんやり揺れる。
鐘が鳴る。
ゴォォォォォン……
意識が、
引っ張られる。
その瞬間。
白い手が、
ユキの肩を掴んだ。
ミーコだった。
「見るな」
低い声。
瞬間。
ユキの意識が戻る。
窓の外を見る。
もう、
誰も居なかった。
だが。
霧街だけは、
まだそこにあった。
ミーコは、
静かに外を睨んでいた。
その瞳が、
わずかに細まる。
「……開き始めてる」
タマが、
後ろから聞く。
「何が?」
ミーコは、
白霧の奥を見たまま呟いた。
「境界が」




