『黒穴の声』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
帝都ヴァルグランの夜空を、
巨大な黒穴が覆っていた。
黒紫の渦。
歪む月光。
空を裂く瘴気。
その奥では。
“何か”が蠢いている。
見てはいけない。
本能が、
そう警告していた。
だが。
誰も、
目を逸らせなかった。
兵士達は震え。
飛竜達は怯え。
帝都全体が、
まるで巨大な悪夢へ呑み込まれたみたいだった。
その中心で。
トシオだけが、
静かに立っている。
黒穴を見上げながら。
ゆっくり。
手を伸ばしていた。
「ほれ」
穏やかな声。
まるで。
泣いている子供へ、
手を差し伸べるみたいだった。
その瞬間。
ズォォォォォ……
黒穴の奥が、
大きく脈打つ。
空間が揺れる。
兵士達が悲鳴を上げた。
「来るぞ!!」
「総員防御!!」
ヴァルドレイクが、
黒炎を纏いながら前へ出る。
アストラヴェインも、
翼を広げた。
黄金の瞳が、
黒穴を睨みつけている。
だが。
トシオだけは動かない。
その背中は、
妙に静かだった。
そして。
黒穴の奥から。
ゆっくりと。
“巨大な腕”が現れる。
黒い。
あまりにも黒い。
まるで、
闇そのものを固めたみたいな腕。
長い爪。
歪んだ関節。
滴る瘴気。
兵士達の顔から、
血の気が消えた。
「化け物……」
「なんなんだよ……
あれ……」
だが。
その腕は。
暴れなかった。
ゆっくり。
恐る恐る。
トシオへ向かって、
伸びてくる。
まるで。
何かを確かめるみたいに。
その時だった。
ヴァルドレイクが叫ぶ。
「トシオ殿!!」
黒炎が迸る。
王として。
危険を見過ごせなかった。
だが。
その瞬間。
トシオが、
静かに片手を上げる。
「待ちなされ」
低い声。
不思議だった。
その一言だけで。
ヴァルドレイクの動きが止まる。
アストラヴェインですら、
翼を止めていた。
沈黙。
夜風だけが吹く。
そして。
巨大な黒い腕が。
そっと。
トシオの手へ触れた。
ズ……ッ……
その瞬間だった。
黒穴全体が、
大きく震える。
兵士達が膝をついた。
「あ……っ!?」
「頭が……!」
黒い声が響く。
無数。
重なり合った、
何千もの声。
悲鳴。
泣き声。
怒号。
絶望。
それらが、
一気に流れ込んでくる。
ミーコが耳を押さえた。
ユキが震える。
フィルニアですら、
顔を歪めている。
だが。
トシオだけは、
静かだった。
黒い腕へ、
ゆっくり触れている。
その時。
トシオの脳裏へ、
景色が流れ込んだ。
暗い世界。
崩れた空。
黒い海。
泣き続ける無数の影。
そして。
巨大な“何か”。
それは。
世界だった。
壊れた世界そのものが、
泣いている。
そんな感覚だった。
トシオは、
静かに目を細める。
「……寒かったか」
その言葉。
黒穴が、
びくりと震えた。
ヴァルドレイクが目を見開く。
エレミアも、
息を呑んでいる。
トシオには、
分かっていた。
これは、
ただの災害じゃない。
ただの魔物でもない。
“向こう側”で。
世界そのものが、
壊れ始めている。
そして。
壊れた世界は、
こちらへ手を伸ばしている。
寂しくて。
苦しくて。
助けを求めるみたいに。
その時だった。
ギャァァァァァッ!!
黒飛竜が、
突然苦しみ始める。
瘴気が暴走する。
身体が軋む。
兵士達が叫んだ。
「また暴れるぞ!!」
だが。
トシオは、
静かに黒飛竜を見る。
「無理するな」
その瞬間。
黒飛竜の暴走が止まった。
沈黙。
兵士達が凍り付く。
ヴァルドレイクの顔から、
完全に余裕が消えていた。
ありえない。
黒穴存在へ、
言葉が通じている。
それだけでも異常。
なのに。
瘴気暴走個体まで、
沈静化している。
常識が崩れていた。
その時だった。
黒穴の奥で。
巨大な“眼”が開く。
ゾワッ――
帝都全域へ、
悪寒が走る。
兵士達が震えた。
飛竜達が鳴き叫ぶ。
アストラヴェインが、
激しく唸った。
その眼は。
あまりにも巨大だった。
夜空そのものみたいに。
深い。
暗い。
果てが見えない。
だが。
そこには確かに、
感情があった。
悲しみ。
孤独。
飢え。
そして。
“救いを求める色”。
トシオは、
静かに見上げる。
「腹減っとるんじゃなぁ」
タマが頭を抱えた。
「またそれ!?」
フィルニアまで困惑している。
「いやもう規模が腹減ったで済む感じじゃねぇぞ!?」
だが。
ミツコだけは、
少し困った顔をしていた。
「いっぱい食べる子なんやねぇ」
エレミアが、
思わず吹き出しそうになる。
こんな状況なのに。
この2人だけ、
空気が違う。
ヴァルドレイクですら、
頭を抱えたくなっていた。
だが。
不思議だった。
恐怖で張り詰めていた空気が。
ほんの少しだけ、
柔らかくなる。
その時だった。
黒穴の奥から。
再び、
声が響く。
『……ア……』
低い。
掠れた声。
兵士達が凍り付いた。
「しゃ……
喋った……?」
『ア……ア……』
声は、
苦しそうだった。
言葉を忘れた存在が、
必死に話そうとしているみたいだった。
トシオは、
静かに頷く。
「おるよ」
黒穴が震える。
『……サ……ミ……シ……』
その言葉。
誰も動けなかった。
ミーコが、
静かに息を呑む。
ユキが、
ミツコの袖を掴いた。
寂しい。
それが。
黒穴の言葉だった。
世界を壊す災厄。
その正体が。
“孤独”だった。
その時だった。
アストラヴェインが、
低く鳴く。
黄金眼が、
トシオを見る。
まるで。
「どうする」
そう問いかけているみたいだった。
トシオは、
少し考え込む。
そして。
ぽつりと呟いた。
「飯食うか?」
沈黙。
帝都全域が、
静止した。
タマが絶叫する。
「じーちゃん何言ってんの!?」
フィルニアまで叫ぶ。
「いや相手世界災害だぞ!?」
だが。
トシオは、
真面目だった。
「腹減っとる時は、
ろくな事考えん」
ミツコが、
うんうん頷いている。
「わかるよぉ」
エレミアが、
とうとう吹き出した。
肩を震わせながら、
笑っている。
ヴァルドレイクは、
深く深くため息を吐いた。
そして。
小さく笑う。
「……本当に、
なんなのだお前達は」
その時だった。
黒穴の奥で。
巨大な眼が。
ほんの少しだけ、
細められた気がした。




