『黒霧の主』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
森の奥で。
何かが笑った気がした。
クスクス……
乾いた声。
子供みたいな笑い方。
なのに。
兵士達の背筋へ、
冷たい汗が流れていた。
誰も動けない。
風も止まっていた。
木々すら、
息を潜めているみたいだった。
巨大な熊型魔獣だけが、
低く唸っている。
グルルル……
黒霧に覆われた巨体。
額に浮かぶ、
黒い“穴”の紋様。
それが。
ドクン。
脈打った。
まるで、
心臓みたいに。
セレスが、
ゆっくり剣を抜く。
「……総員警戒」
静かな声。
だが。
張り詰めていた。
フィルニアですら、
珍しく笑っていない。
「なんだよ……
この空気」
タマが、
無意識に耳を伏せる。
ユキは、
ミツコの袖を掴いていた。
ミーコも、
周囲へ水魔法を展開する。
だが。
敵が見えない。
気配だけが、
森の奥を這っていた。
その時。
トシオが、
静かに前へ出る。
誰も止めなかった。
止められなかった。
トシオは、
熊型魔獣ではなく。
その奥を見ていた。
「……おるのぉ」
クスクス……
返事みたいに、
また笑い声が響く。
その瞬間だった。
──ギャァァァァァァッ!!
熊型魔獣が咆哮する。
衝撃波。
木々が揺れる。
兵士達が吹き飛ばされた。
「ぐぁっ!?」
「来るぞ!!」
グランヴェルが怒鳴る。
熊型魔獣が突進した。
地面が揺れる。
瘴気が噴き出す。
まるで、
黒い嵐だった。
フィルニアが飛び出す。
「どけぇぇぇッ!!」
大剣が唸る。
竜人族特有の怪力。
岩すら砕く斬撃。
──ドゴォォン!!
熊型魔獣の肩へ直撃する。
だが。
止まらない。
「なっ!?」
フィルニアの顔色が変わる。
黒霧が、
傷口を覆っていく。
再生していた。
「冗談だろ!?」
カリヴァが叫ぶ。
普通の魔獣ではない。
瘴気が、
肉体そのものを動かしている。
その時だった。
巨大な腕が、
フィルニアへ振り下ろされる。
「フィルニア!!」
グランヴェルが飛び出す。
だが。
間に合わない。
その瞬間。
──ドン。
トシオが、
片手で止めていた。
沈黙。
熊型魔獣の巨大な腕。
それを。
若い黒髪の男が、
普通に受け止めている。
地面が陥没する。
衝撃波で木々が揺れる。
だが。
トシオだけ、
動かなかった。
フィルニアが、
ぽかんと固まる。
「……毎回おかしくない?」
タマが頭を抱えた。
「もう今更だけどね!?」
熊型魔獣が咆哮する。
黒霧が、
さらに噴き出す。
その時だった。
トシオの表情が変わる。
初めてだった。
静かな怒気。
それが、
ほんの僅か漏れた。
兵士達が息を呑む。
飛竜達まで、
怯えたように後退していた。
トシオは、
熊型魔獣へ触れながら呟く。
「苦しいか」
その瞬間。
黒霧が揺れた。
ビクリと、
熊型魔獣の身体が震える。
まるで。
“何か”へ怯えるみたいに。
いや。
実際に怯えていた。
森の奥から。
クスクス……
また笑い声。
今度は近い。
木々の隙間。
暗闇。
そこに。
“影”がいた。
人型。
だが。
輪郭が曖昧だった。
黒霧で出来たみたいに、
揺れている。
兵士達が青ざめる。
「なんだあれ……」
「魔族か……?」
違う。
もっと異質だった。
その影は。
笑っていた。
楽しそうに。
まるで。
壊れた玩具で遊ぶ子供みたいに。
その時。
熊型魔獣の額。
黒い紋様が、
激しく脈動する。
ドクン!!
ドクン!!
空間が軋む。
──ビキィッ!!
空へ亀裂が走った。
全員が凍る。
黒い裂け目。
空そのものが、
割れていた。
そこから。
黒霧が溢れ出す。
飛竜達が暴れ始めた。
兵士達の顔色が変わる。
「空間裂けだと!?」
「ありえん!!」
セレスの声が揺れる。
亀裂の奥。
そこに。
“目”があった。
巨大な。
暗い。
底無しの目。
それが。
こちらを見ている。
ユキが震える。
ミーコが、
思わず後退した。
フィルニアですら、
笑みを消している。
だが。
トシオだけは、
静かだった。
じっと。
“目”を見る。
数秒。
奇妙な沈黙。
その後。
トシオは、
ぽりぽり頭を掻いた。
「……腹減っとるんか?」
沈黙。
「そこぉ!?」
タマが叫ぶ。
フィルニアが吹き出した。
「なんでそうなるんだよ!!」
だが。
その瞬間だった。
空間の“目”が、
ゆっくり細くなる。
反応していた。
その時。
ミツコが、
静かに前へ出る。
全員が振り返る。
ミツコは、
買い物かごをごそごそ漁る。
そして。
干し魚を取り出した。
タマが固まる。
「え」
ミツコは、
亀裂へ向かって掲げた。
「食べる?」
沈黙。
グランヴェルが止まる。
セレスも固まる。
森の影ですら、
動きを止めていた。
だが。
空間の亀裂が、
ぴたりと静止する。
黒霧の流出が弱まった。
全員が息を呑む。
ミツコは、
穏やかに笑う。
「お腹空くと、
イライラするもんねぇ」
その声。
次の瞬間。
空間の“目”が、
ゆっくり閉じる。
黒い亀裂が、
少しずつ消えていった。
森へ静寂が戻る。
熊型魔獣の黒霧も、
徐々に薄れていく。
そして。
森の奥の“影”が、
ゆらりと揺れた。
クスクス……
最後にもう一度だけ、
笑い声が響く。
その後。
影は、
黒霧へ溶けるように消えた。
風が吹く。
木々が揺れる。
ようやく、
森へ音が戻った。
誰も、
すぐには動けなかった。
セレスが、
呆然と呟く。
「……なんなんだ、
今のは」
グランヴェルも、
険しい顔をしていた。
「分からん。
だが……」
その視線は、
トシオ達へ向いていた。
「この方々が現れてから、
世界の異変が動き始めている」
ミーコが、
静かに目を伏せる。
始まりの民。
世界を救う存在。
あるいは。
世界を閉じる存在。
老竜人の言葉が、
脳裏をよぎっていた。
その時。
フィルニアが、
急に吹き出した。
「いや待てよ」
全員が振り返る。
フィルニアは、
腹を抱えて笑っていた。
「干し魚で空間裂け止まるとか、
意味分かんねぇだろ!!」
タマも耐えきれず吹き出す。
「ほんとにそれ!!」
張り詰めていた空気が、
少しだけ緩む。
だが。
トシオだけは、
まだ森を見ていた。
その目は、
いつもより少しだけ鋭かった。
まるで。
あの“影”の正体へ、
薄々気付いているみたいに。




