王女の名前
アクアリア=ヴァル=レイシス。
その名が告げられた瞬間から。
グレイヴェル水路区の空気は変わっていた。
誰も大声を出さない。
ざわめきはある。
だが。
それは恐怖ではなく、困惑と驚きだった。
「本当に……?」
「王女……?」
「生きてたのか……?」
避難民達が小声で話している。
兵士達も落ち着かない。
監督官など、完全に顔色が消えていた。
「そ、そんな……」
ミーコは静かに周囲を見る。
久しぶりだった。
“王女”として人前へ立つのは。
けれど。
不思議と怖くはなかった。
隣に皆がいるからだ。
その時。
トシオが薪を放り込んだ。
ゴ ッ……
鍋の火が大きくなる。
空気が少し戻った。
フィルニアが吹き出す。
「じーちゃん通常運転すぎんだろ」
「腹減るぞ」
「そこなのかよ」
タマも笑う。
張り詰めかけた空気が、少しだけ緩んだ。
その間。
監督官はまだ混乱していた。
「ほ、本当に……王族……?」
シェリスが静かに前へ出る。
「偽名で王族騙る方が問題でしょう」
「っ……!」
監督官が詰まる。
完全に立場が逆転していた。
周囲の兵士達も困惑している。
だが。
その中の一人が、ゆっくり膝をついた。
「……失礼しました」
若い猫獣人兵だった。
その姿を見て。
他の兵士達も続く。
監督官だけが立ち尽くしていた。
ミーコは静かに言う。
『誰も責めるつもりは無いわ』
監督官が顔を上げる。
『でも』
『止める前に、見てほしかった』
ミーコは周囲を見る。
避難民。
補修中の水路。
働く人達。
炊き出し。
笑顔でスープを食べる子供達。
『この人達は、怠けていた訳じゃない』
『生きる場所を失っていただけ』
監督官は言葉を失う。
その時だった。
「監督官殿!!」
別の兵士が駆け込んでくる。
「西水路側、崩落止まりました!!」
空気が変わる。
「なに?」
「補強組んだおかげで、水流逸れました!」
兵士の顔は明るかった。
「橋下側も荷運び再開出来そうです!」
監督官が絶句する。
本当に改善していた。
タマが感心したように呟く。
「じーちゃん、こういう現場ほんと強ぇな」
「漁港と一緒だ」
「規模違ぇだろ」
フィルニアが笑う。
その頃。
避難民達も変わり始めていた。
「次どこだ!?」
「木材運ぶぞ!!」
「縄足りねぇ!」
もう待っているだけではない。
動き始めている。
ミツコはその様子を見ながら、小さく笑った。
「元気出てきたねぇ」
ユキも静かに頷く。
「……顔違う」
さっきまで疲れ切っていた人達に、少しだけ生気が戻っていた。
その時。
マルダが大声で笑った。
「ほら見な!!」
「動けば街も動くんだよ!!」
避難民達から笑い声が漏れる。
監督官は呆然とそれを見ていた。
やがて。
ゆっくりミーコへ向き直る。
「……申し訳、ありませんでした」
深く頭を下げた。
ミーコは静かに首を振る。
『今は謝る時じゃないわ』
『動く時よ』
監督官が息を呑む。
その言葉は。
責める声ではなかった。
王女の言葉だった。
その時。
フィルニアが小声でタマへ言う。
「ミーコ、やっぱすげぇな」
「まぁな」
「昔からああだった」
ユキも静かに頷く。
「……前に出る時は強い」
その横で。
トシオは大鍋を見ていた。
「スープ減ってる」
「追加だな」
「空気読めよじーちゃん」
「飯無ぇとまた揉める」
「間違ってねぇのが困る」
フィルニアが吹き出した。
少しずつ。
水路区の空気が変わっていく。
重苦しさだけじゃない。
人が動き始める空気。
それが戻り始めていた。
その後。
監督官も作業へ加わる事になった。
最初は戸惑っていた。
だが。
ミーコに名指しされた。
『監督官』
「は、はい!」
『あなたはこの区画を把握しているのでしょう?』
「え?」
『なら指示を出して』
監督官が固まる。
タマが吹き出した。
「逃がさねぇ」
フィルニアも笑う。
「働け偉い人」
「ぐっ……」
だが。
監督官も途中から変わり始めた。
「そ、そっち資材を回せ!」
「崩落側優先だ!!」
元々能力はあったのだろう。
ただ。
責任を恐れて止まっていただけだった。
シェリスが静かに呟く。
「……少し戻りましたね」
『えぇ』
ミーコも頷く。
レイシスは壊れかけている。
けれど。
全部が終わった訳じゃない。
まだ。
動ける人間がいる。
その時。
橋の上から、小さな声が聞こえた。
「アクアリア様ー!!」
昨日の子供達だった。
手を振っている。
ミーコが少し驚く。
『あら』
「スープうまかったー!!」
「また来る!!」
「ちゃんとお手伝いするんだぞー!!」
フィルニアが笑った。
「完全に常連じゃねぇか」
「食い盛りだからな」
タマも笑う。
ミツコは優しく手を振り返した。
トシオは静かにその光景を見る。
壊れた場所でも。
人は笑える。
腹を満たして。
働いて。
支え合えれば。
まだ前へ進める。
その時。
ミーコが空を見上げる。
グレイヴェルの空。
曇っている。
けれど。
昨日より少しだけ明るく見えた。
王族として。
王女として。
やるべき事は多い。
王都へ戻れば、もっと厳しい現実も待っている。
侵食。
貴族対立。
崩れかけた政治。
簡単には終わらない。
それでも。
ミーコは静かに前を見る。
まずは一つずつ。
目の前から。
レイシスを。
もう一度、立ち上がれる国へ戻すために。




