第03話:商人より、老馬へ
西へ。
ペンダントが示す方角だけを頼りに、リコとクロの旅は続いていた。
次の「唄われなかった想い」に会うまで、何日かかるかは分からない。
その間の糧は、自分たちで稼ぐしかなかった。
リコは、岩陰に腰を下ろし、慣れた手つきで作業をしていた。
ぼろぼろの革でできた、古びた魔法の鞄。
その小さな口から、旅の荷物とは思えないほど多くの薬草を取り出していく。
彼女が道中で見つけた、ごくありふれた薬草だ。
それを乳鉢ですり潰し、湧き水と混ぜ、最後にそっと指先を浸す。
彼女の持つわずかな魔力が、ただの薬草水を、傷に効く初級のポーションへと変えていく。
クロが、リコの肩の上でじっとその様子を見ていたが、やがて呆れたように言った。
「へっ、あの婆さんの道具をまだ大事に使ってんだな。そんで、相変わらずちまちまやってる。そんなもん、何本売れたって大した儲けにもなりゃしねえのに」
「……でも、誰かの、役に立つから」
リコの答えは、いつも同じだった。
彼女の心に、クロの言葉が一瞬だけ、小さな影を落としたことに、まだ誰も気づかない。
出来上がった十本のポーションを、なけなしの金で買った小瓶に詰める。
これを近くの町で売れば、数日分のパンと、安い宿の代金にはなるはずだ。
◇
町は、人々の活気で満ちていた。
リコは、広場の隅に小さな布を広げ、手作りのポーションを並べていた。
そのささやかな商いが始まろうとした時、すぐ近くで大きな騒ぎが起こった。
人だかりの中心で、一人の若い商人が、一頭の年老いた馬を必死になだめていた。
「頼むから、大人しくしてくれ! お前ももう年なんだ。楽にしてやるって言ってるんだ!」
だが、老馬は目に狂的な光を宿し、荒々しくいななきながら蹄を地面に打ち付けている。
その瞳に映るのは、恐怖と、そして深い悲しみだった。
リコの「耳」には、その心の声が痛いほど聴こえてくる。
『違う……まだだ……まだ、あの子に伝えられていない……!』
その時だった。
暴れた老馬の蹄が、リコの広げた布を蹴散らした。
ガシャン! という、魂が砕けるような音。
十本の小瓶が、硬い石畳の上で無慈悲に砕け散った。
リコの数日分の生活が、地面に染み込んで消えていく。
「あ……!」
若い商人が、呆然とするリコに気づいた。
「す、すまない! 大丈夫か、怪我は……って、瓶が……なんてことだ」
彼は、自分の不始末と、リコの絶望的な顔を見て、心底申し訳なさそうな顔をした。
「……とにかく、うちに来てくれ。弁償は……できないかもしれんが、せめて食事だけでもご馳走させてくれ」
商人の家は、広場のすぐそばにあった。
家の中には、人の良さそうな、しかしどこか厳格な顔つきをした男の肖像画が飾られている。
彼の父親だろうか。
若い商人は、気まずそうにリコに食事を出しながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……あの馬、ジフは、親父の代からうちで働いてくれてたんだ。だが、もう歳で、仕事の邪魔になるばかりでな。親父なら、きっと商売のために、非情な決断をしたはずなんだ。俺も、そうしなきゃって……」
その時、リコの「目」は、肖像画の前に立つ、半透明の人影を捉えた。
年老いた、先代の商人であろう男の魂。
その魂は、息子と、そして家の裏手につながれている老馬を、あまりにも哀しい目で見つめていた。
リコは、食事の手を止め、静かに立ち上がった。
「……手紙を、届けます」
先代の魂から聴こえてきたのは、息子への不用な愛情と、長年の相棒への深い感謝の念だった。
クロが、商人の帳簿の隅をちぎって持ってくる。
リコがそれに触れると、先代の魂の言葉が、震えるような文字となって紙の上に現れた。
若い商人は、訝しげにその手紙を受け取った。
『息子へ。
お前に厳しく当たったのは、お前を信じていたからだ。不器用な父親で、すまなかった。
お前がまだ小さいころ、一人で森に入って迷子になったのを覚えているか。
あの時、俺たちより先に森へ飛び込み、お前を探し出してくれたのは、ジフだ。
あいつは、ただの馬じゃない。お前にとって、兄のような存在なんだ。
どうか、二人で力を合わせ、この店を守っていってくれ』
若い商人の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
父の言葉は、厳しさなどではなかった。
ただ、あまりにも不器用な愛情だった。
その当たり前の事実に、彼は死んで初めて気づかされたのだ。
リコは、その手紙を彼から受け取ると、今度は家の裏手へと向かった。
まだ興奮の冷めやらぬ老馬の前に、そっと手紙を差し出す。
馬に文字が読めるはずもない。
だが、リコが手紙に触れると、そこに込められた魂の想いが、直接老馬の心へと流れ込んでいった。
『相棒へ。
お前は、ただの家畜じゃない。俺の人生そのものだった。
雨の日も、風の日も、文句も言わずによく働いてくれたな。ありがとう。
そして、頼む。俺の代わりに、あの未熟な息子を、もう少しだけ、見守ってやってはくれまいか』
老馬の荒い息が、次第に穏やかになっていく。
狂的な光が消えたその瞳には、理知的な光が戻っていた。
そして、まるで長年の友の言葉を理解したかのように、一度だけ、静かに天に向かって嘶いた。
リコには視えた。
先代の魂が、嗚咽する息子の肩にそっと半透明の手を置き、そして、万感の想いを込めて頷くのが。
魂は光の粒子となり、リコの胸のペンダントへと静かに吸い込まれていく。
ペンダントが、再び温かい光を放ち、新たな方角を指し示した。
翌朝、リコが旅立とうとすると、若い商人が駆け寄ってきた。
「本当に、ありがとう。俺は、親父のことも、ジフのことも、何も分かっていなかった」
彼の視線の先では、ジフが、息子から差し出された干し草を、穏やかな顔で食んでいた。
あの荒々しさは、もうどこにもない。
「ジフには、最後までうちで、ゆっくり過ごしてもらうよ」
リコは小さく頷くと、踵を返した。
失ったポーションの代金は、もっと温かい何かで、もう十分に支払われていた。
旅の道すがら、クロが不意に、いつもの悪態とは違う、静かな声で話しかけた。
「なあ、リコ。ポーションが全部割れちまった時、お前、ちょっと迷ってたろ。俺様の言った通り、ちまちまやってるのが馬鹿らしくなったか?」
その問いに、リコはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、吹っ切れたような、澄んだ光が宿っていた。
「……うん。少しだけ」
彼女は、素直に認めた。
「でも、もう迷わない。遠回りでも、非効率でも、これが一番いいんだって、分かったから」
クロは、何も言わずに、ただリコの頬をそっと羽根で撫でた。
西の空をまっすぐに見据えるリコの顔には、本当に小さな、しかし今までで一番強い光を宿した笑みが浮かんでいた。
その足取りは、もう、迷うことがなかった。




