第02話:石の番人より、最後の王女へ
北へ。
ペンダントが示す方角だけを頼りに、リコとクロは歩みを進めていた。乾いた荒野はいつしか姿を消し、世界は深い霧と、苔むした岩々に覆われていく。
「おい、リコ。ちっとは休んだらどうだ。俺様の自慢の翼も、この湿気で飛ぶ気にならねえ」
クロがうんざりしたように言うが、リコは答えなかった。彼女の目は、霧の奥にそびえ立つ、古びた遺跡のシルエットに釘付けになっていたからだ。
それは、忘れ去られた王家の城跡だった。崩れた城壁には、蔦ではなく、ビロードのような苔が一面に生している。人の気配はない。ただ、悠久の時が静かに眠っているかのような、不思議な安らぎが満ちていた。
リコは、吸い寄せられるように遺跡の中庭へと足を踏み入れた。
そこに、それはあった。
苔むした玉座に、一体の石像が深く腰掛けていた。屈強な戦士をかたどったそれは、城と同じように苔と風雨に晒され、もはや風景の一部と化している。
だが、リコには視えていた。
その石像から、淡く、しかし決して消えることのない魂の「残滓」が、静かに立ち上っているのを。
「……番人、さん……?」
リコがか細い声で呟く。
それは、魔物でも亡霊でもない。
あまりにも長い時間、たった一つの約束だけを胸に、この場所を守り続けてきた、気高い魂の気配だった。
リコは、そっと石像――石の番人の、苔むした膝に手を触れた。
その瞬間、リコの心にまず流れ込んできたのは、言葉ではなかった。
五百年という、人の想像を絶する孤独。風雨に打たれ、苔に覆われ、ただひたすらに主との約束だけを胸に耐え忍んだ、石の塊の、あまりにも気高い魂。その純粋なまでの忠誠心が、津波のようにリコを襲う。
そして、その感情の奔流の中から、ようやく、か細い声が聴こえてきた。
『――我が名は持たぬ。役目はただ一つ。女王様より託された、この「唄」を、血を分けた最後の一人へと届けること――』
憎しみでも、後悔でもない。
それは、純粋なまでの忠誠心。
そして、自らが仕えた女王への、深い敬愛の念だった。
主がこの世を去り、王国が滅び、五百年もの孤独な時が流れてもなお、この石の番人は、ただひたすらに、その役目を果たそうとしていたのだ。
『……だが、我が魔法の核も、もう尽きる……ああ、女王様……最後の灯火が……消えてしまう……お約束を……果たせぬまま……』
リコは、石の番人が感じているであろう、その無念さに胸を締め付けられた。
「……大丈夫。……私が、届けるから」
リコは、決意を込めて言った。
「クロ」
「ああ、分かってる。こいつは、今までで一番の大物だぜ」
クロはリコの肩に舞い降りると、中庭に生えていた一枚の、ハートの形をした苔をくちばしで摘み取った。
そして、それをリコの前に差し出す。
リコが、ゴーレムに触れていた指先で、そっと苔に触れる。
石の番人の魂の光が、女王から託された最期の唄の記憶と共に、苔へと吸い込まれていった。
緑色の苔は、瞬く間に、古代の羊皮紙のように色褪せた一枚の「手紙」へと姿を変えた。
そこに綴られていたのは、文字ではなく、優しい子守唄の楽譜だった。
遺跡の麓に、小さな村があった。
リコの「目」が捉えたのは、村はずれの小さな家から漏れ出る、か細く、消え入りそうな魂の輝きだった。
リコとクロが駆けつけると、村はずれの小さな家の扉が、わずかに開いていた。
祈るような老婆の声が漏れ聞こえてくる。
リコがためらいながらも中へ入ると、老婆は驚いて振り返った。
「誰だい、あんたは……」
老婆の目には、見ず知らずの汚れた少女への警戒心が浮かぶ。
だが、リコは老婆のことなど目に入っていないかのように、ただまっすぐに、ベッドで苦しむ少女だけを見つめていた。その瞳に宿るのは、同情ではない。まるで、その魂の痛みを、我がことのように感じているかのような、あまりにも純粋で、哀しみに満ちた眼差しだった。
老婆の警戒心が、揺らぐ。医者にも、祈祷師にも見放された。この最後の瞬間に現れた、この不思議な少女。それは、神の気まぐれか、それとも……。
老婆は、震える声で、最後の望みを託すように尋ねた。
「……あんたなら……この子を、救えるのかい?」
その問いに、リコはただ静かに頷いた。
老婆は堰を切ったように語り始める。
「……王家の、呪いなんじゃよ」
「あの子は、十年前、教会の前に置かれていた子。王家の血を引く者は、十歳になると、魂が消えかける熱病にかかると言い伝えられていてのぅ……ああ、神様……」
クロは、老婆の目を盗んで、ひらりと少女の枕元に舞い降りる。
そして、「へっ、まあ見てな。こいつの仕事に、間違いはねえからよ」と悪態をつきながら、羊皮紙をそっと少女の胸の上に置いた。
少女――アーニャの指が、無意識に羊皮紙に触れた瞬間、奇跡が起きた。
そこに描かれた音符が、柔らかな光を放ち、彼女の頭の中に直接、優しい歌声となって響き渡る。
『眠りなさい、私の可愛い赤子……たとえこの国が滅びても……たとえ私が傍にいなくとも……この唄が、あなたを守るから……』
それは、アーニャが時折、夢の中で聴いていた子守唄だった。
歌声が響き渡る。
すると、死の匂いが満ちていたはずの薄暗い部屋が、柔らかな光で満ちあされていくようだった。
チリチリと肌を焼くような熱気は消え、代わりに、夜明けの森のような、澄んだ空気が満ちていく。
少女を苛んでいた高熱が、まるで嘘のようにすうっと引いていき、血の気のなかった頬に、みるみるうちに温かな生命の色が戻ってきた。
アーニャは、ゆっくりと目を開けた。
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……そう、か……夢じゃ、なかったんだ……私、一人じゃ、なかったんだ……」
その時、遥かな遺跡で、一つの役目が終わりを告げた。
玉座に座っていた石の番人の全身に、静かに亀裂が走る。
それは破壊の音ではなかった。
五百年の長きに渡る役目から、ようやく解放された、安堵のため息だった。
ゴーレムは、音もなく崩れ落ち、苔と土の小山へと還っていく。
そして、その小山の中心に、ただ一つ、瑠璃色の宝石のような石が残されていた。
人の手で磨かれたものではない。
五百年の忠誠心が結晶となり、生まれたかのような、温かい光を内包した石だった。
リコとクロは、その様子を静かに見守っていた。
やがて、石の番人の魂が、光の粒子となってリコの前に現れる。
それは言葉を発さず、ただ深々と一礼すると、彼女の胸のペンダントにすっと吸い込まれていった。
ペンダントが、再び温かい光を放ち、新たな方角を指し示す。
今度は、西のようだ。
アーニャは、涙を拭うと、ベッドのそばで心配そうに自分を見守っていた老婆の手を、今度は自らがそっと握り返した。
その顔にはもう、孤独の影はない。
リコは、そんな彼女に小さく頷くと、静かに踵を返した。
村を離れ、西へと向かう道すがら、リコは遺跡の方を振り返った。
あの場所にはもう、五百年の時を生きた魂はない。
「なあ、リコ」
クロが、不意に静かな声で話しかけた。
「五百年だぜ。たった一曲の子守唄を届けるために、石ころのままで五百年。……割に合う仕事だったのかねえ、あれは」
その、いつもの悪態とは違う、純粋な問いに、リコはゆっくりと顔を上げた。
「……うん。ただの唄じゃなかったから」
彼女は、アーニャが救われた瞬間の、あの神聖な光景を思い浮かべていた。
「五百年もの間、あの子を守り続けた、お守りだったんだよ。想いって、唄って、ちゃんと形になって残るんだね。こんなに長い時間が経っても」
その言葉に、クロは何も言わずに、ただリコの肩をくちばしで優しくつついた。
「ちっ。面倒なことに気づきやがって。こりゃ、ますますこの旅は長くなりそうだぜ」
リコは、小さく微笑んだ。
次の「唄われなかった想い」が、きっと彼女を待っている。
その足取りは、来た時よりも、確かに力強かった。




