第11話:愛する妻より、その夫へ
「古き北の地」の旅は、厳しさだけではありませんでした。
ドワーフの地図を頼りに進むと、雪深い山脈を抜けた先に、驚くほど大きな湖と、そのほとりに築かれた豊かな町が姿を現した。
「こんな北の果てに豪華な町か…きな臭い感じだな」
クロの軽口に、リコは小さく頷いた。
金のコンパスは、その町で最も大きく、湖を見下ろす丘の上に立つ館を、静かに指し示していた。
リコが町の門をくぐろうとした、その時だった。
「お待ちしておりました、金色のペンダントを持つお方」
屈強な鎧に身を包んだ衛兵たちが、リコの前に立ちはだかった。しかし、その声に敵意はない。
「我らが主、この地の領主様より、そのペンダントを持つ方がこの地を訪れた際は、必ず館へお招きするよう、厳命を受けております。さあ、こちらへ」
それは、拒否を許さない、丁寧な命令だった。
◇
衛兵に導かれ、館へと足を踏み入れたリコは、思わず息をのんだ。
磨き上げられた大理石の床、壁にかけられた巨大な絵画、天井から吊るされた水晶のシャンデリア。これまでの旅路では見たこともないような、豪華な装飾の数々。
まるで、南の地の王城に迷い込んでしまったかのようだった。
奥の扉が開き、優雅な物腰の男――この地の領主が現れた。
「ようこそ、小さき旅人よ」
領主は、リコの胸で輝く金のペンダントに目をやり、穏やかに微笑んだ。
「突然呼び止めてしまい、すまなかったね。驚かせてしまっただろう。この町に古くから伝わる習わしでね。金のペンダントを持つ旅人をもてなすのが、当家の家訓なのだよ」
その物腰は、どこまでも優雅だった。
「さあ、まずは旅の疲れを癒してほしい。食事の用意をさせている」
館の一室で、これまでの旅路では見たこともないような豪華な食事を前に、リコはただ戸惑っていた。
目の前の優雅な領主は、雑談を楽しむようにリコに語りかける。
「そのペンダント……実に美しい。古の言い伝えで、それはエルフの民が持つものだと聞いたことがある。違っていたら申し訳ないのだが、君は、もしやエルフだったりするのかな?」
その、あまりにも核心を突く問いに、リコはただ、静かに頷くことしかできなかった。
その瞬間、領主の穏やかだった表情が、一瞬だけ、抑えきれない興奮に歪んだ。
「なんだってっ! これは、何という幸運だ!」
彼は、慌てて表情を取り繕うと、深く頭を下げた。
「失礼。実は、ちょうど困っていることがあってね。君のような、特別な力を持つ方に、ぜひ助けてほしいのだ」
そして、彼は語り始めた。
「先日急逝したため、満足に親孝行できなかった尊敬する我が父……先代領主の魂の唄を聴き、その最期の言葉を、私に届けてはくれまいか」
彼の瞳には、父を亡くした息子の、深い悲しみが浮かんでいるように見えた。
その、あまりにも誠実な響きに、リコは頷くことしかできなかった。
クロだけが、領主の完璧すぎる芝居の奥に、一瞬だけよぎった冷たい光を、見逃してはいなかった。
◇
リコが案内されたのは、館の最上階にある、先代領主の書斎だった。
リコは、部屋の中央に置かれた、重厚な執務机にそっと手を触れた。
その瞬間、彼女の心に流れ込んできたのは、怒りや絶望だけではなかった。それは、魂そのものが、生前に受けた「毒」によって蝕まれ、黒く冷たい「呪い」という名の精神的な枷によって、この世に縛り付けられている、おぞましい感触だった。
『許さぬ……許さぬぞ、我が息子よ……!』
先代領主の魂は、息子への呪詛を繰り返すばかり。
その魂を救う唯一の方法は、魂にこびり付いた「毒(呪い)」という黒い澱を、慎重に剥がし取り、本来あるべき場所――彼を毒殺した息子へと、寸分違わず塗り付けることだけ。
リコは、その事実に恐怖した。手紙を書くという行為は、神聖な儀式などではない。魂に巣食う猛毒を、自らの手で扱い、それを他者へと届ける、あまりにも危険な行為だからだ。
彼女は、初めて、自らの意志で決断した。
「……手紙は、書けません」
リコは領主の元へ戻ると、静かに告げた。
「……あなたのお父様の魂は、あまりにも深い悲しみに囚われ、今はまだ、唄を聴き取ることができません。もう少しだけ、この館を調べさせてください」
領主は、獲物を前にした猫のように、余裕の笑みで頷いた。
リコは、館の裏手にある、小さな庭園へと向かった。
先代領主の魂から感じ取った、唯一の温かい光。その微かな記憶を頼りに、彼女は一つの古い墓石の前にたどり着いた。
それは、先代領主の妻――現領主の母親の墓だった。
リコがその墓石に触れると、優しく、そして哀しい魂の唄が聴こえてきた。
夫を、そして息子を、誰よりも愛し、その二人の悲劇的な運命を、天からただ嘆き悲しむ、一人の女性の魂だった。
リコは、墓石のそばに咲いていた一輪の白詰草を媒体に、彼女の魂の手紙を書いた。
そして、その半透明の魂に、静かに問いかける。
「……一緒に行きますか?」
◇
再び、先代領主の書斎へと戻る。
呪いに囚われた魂の前に、リコは、静かに佇んだ。彼女の隣には、リコにしか視えない、半透明の女性の魂が、祈るように両手を組んでいる。
リコは、その女性の魂から受け取った手紙を、夫の魂にそっと差し出した。
『愛しいあなたへ。
もう、おやめなさい。あなたの怒りは、誰よりも私が分かっています。
ですが、その怒りは、あなた自身を永遠にこの世に縛り付けるだけ。
どうか、安らかに。あの子の罪は、いずれ、天が裁きましょう』
妻の、あまりにも優しい愛の唄が、先代領主の魂を蝕んでいた黒い呪いを、ゆっくりと溶かしていく。
やがて、呪いの枷から解き放たれた魂は、本来の、気高く、威厳に満ちた姿を取り戻した。そして、初めて、すぐ隣に佇む妻の魂の姿に気づき、驚愕に目を見開く。
二つの魂は、言葉もなく、ただ、互いを見つめ合う。数十年という、あまりにも長い断絶の時を超えた、魂の再会。
『……ああ、すまなかった。私は、憎しみにとらわれ、自分を見失っていたようだ』
魂は、リコに深く感謝すると、最後の願いを告げた。
『……最期の配達を、頼めるだろうか。馬鹿息子へではない。我が、生涯の友へ』
リコが最後の手紙を届けたのは、この館で長年仕えてきた、セバスという名の老執事だった。
手紙を読んだセバスは、静かに涙を流し、そして、固い決意の表情で、衛兵詰所へと向かっていった。
館に衛兵たちがなだれ込み、領主の絶叫が響き渡るのを、リコは遠くに聞きながら、静かに町を後にした。
正義は、果たされた。しかし、それは、また一つの家族の崩壊でもあった。
「……クロ」
「ん?」
「私、手紙を書かなかった。……それで、よかったのかな」
初めて、自らの意志で、魂の真実をすぐには届けなかった。その選択への、小さな不安。
その問いに、クロは、いつものように悪態をついた。
「へっ。うるせえな。お前がやったのは、ただの配達じゃねえ。魂の、大掃除だろ」
「大掃除?」
「ああ。一番厄介なゴミ(呪い)を片付けたから、最後の手紙をちゃんと届けられた。それだけのことだろ」
その、あまりにもぶっきらぼうな、しかし的確な言葉に、リコは小さく微笑んだ。
彼女は、もう一度だけ、丘の上の館を見上げた。そこではもう、一つの家族の、哀しい歴史が終わったのだ。
リコは、再び前を向くと、金のコンパスが示す、次なる方角へと静かに歩き出した。
その足取りは、確かに、そして静かに、前へと向かっていた。




