閑話02「昔語り:とある盲目の記憶」
「竜殺しのキファーノ」という通り名で呼ばれ始めたのは、すでに私が第一線から退いていたときだった。
というのも視力を失った私は光の無い無限暗黒の中を数年もの間彷徨っており、魔物を倒して武名を挙げることなど到底不可能だったからだ。
さて、その「竜殺し」と言う通り名は、私の両目から光が消えたことと少なからず関係しているのだが、その経緯を話すことにしよう。
「赤剣のキファーノ」というのが私の元々の通り名で、私の歩いた後には血で赤い道が出来ると恐れられたものだ。
その当時、私は魔王討伐などと銘打って数人の仲間と一緒に魔王城を目指していたのだが、ちょっとした意見の衝突で仲間と喧嘩別れすることになってしまった。
今からすれば信じられないくらい高慢な性格だった私は、そのまま群れを作ることなく一人あちこちを放浪していた。
用心棒や賞金稼ぎ、魔物狩りのようなことをするその日暮らしの生活をしてきたが、どれもこれも私にとっては退屈極まりないものだった。
自分より強い者を探すも、どんな戦士も魔物も私の剣を赤く染める程度でしかなかった。
そんな私がとある山奥の名も知らぬ集落を訪れたのは偶然などではなかっただろう。
そこでは祭の準備がされ、人々が忙しなく働いていたのだがその表情にはいささかの活気も見られなかった。
私はその村人の一人を捕まえて何事かと聞いてみた。
「おい、この騒ぎは一体何の騒ぎだ」
「へえ、竜神様の祭の準備ですじゃ」
「ほお、祭か。しかし祭にしては暗すぎるようだが。ほら、あそこには泣いている者もいる」
私が指を指した先にはさめざめと涙を流す集団があった。
その群れの真中には若い娘がいて、その目を真っ赤に腫らしていた。
「あれは生贄の家じゃろうて。じゃから悲しゅうて泣いとるんじゃ」
「生贄だと?」
「はあ、竜神様に生娘の生贄を捧げるのがこの村の慣わしじゃて」
「ちょっと待て、その『竜神様』ってのは一体何者なんだ」
「竜神様はワシらの村の守り神じゃ。三百年も前からワシらは竜神様に村を守って貰うために季節に一度、生贄を捧げるんじゃ」
「生贄にやられた娘さんはどうなるんだい」
「湖の底で竜神様の供御、つまり食べられるわけじゃ」
その年老いた村人は一人の若い娘が死ぬと言うのにさらりとそんなことを言った。私の目には彼が狂人のようにも見えたが、これがこの村では普通の反応なのだろう。
「ふうん。で、アンタはその竜神様ってのを見たことがあるのかい?」
「滅相もねえ。竜神様を見たら目が潰れてしもうわい」
「あ、そう。じゃあな、邪魔して悪かったな爺さん」
私は老人の下を離れ、どこか手頃な宿屋に入って身を休めた。
宿屋のベッドの上で、私は苛立ちと呆れに似た感情を持って天井をじっと眺めていた。
竜神だの生贄だの実に馬鹿馬鹿しい。こんなどこにでもある昔話に出てくるような風習が現代に残っているとはお笑い草だ。
こんな習俗は到底、文明人のそれとは思えない。
竜神なんてものはどうせ人々の恐怖心が作り上げた幻想に過ぎないだろうし、もし本当に存在するにしてもそいつは低俗な魔物で、狩る側の人間様からしてみれば狩られる側の存在だ。
そんなものに恐れ、命までも捧げるなんてのは馬鹿げている。
私の閉じた瞼の裏には昼間見た生贄の娘の泣き顔が映った。美しい娘だった。
その娘の白い肌の上を一筋の涙が流れ落ちるのを見て、私は同情とは別の感情が胸の奥でぐらぐらと湧きあがっているのを確かに感じた。
「行くか」
今にも壊れそうなベッドを軋ませながら起き上がり、私はそんなことを呟いた。
時刻はもうすぐ明け方と言う頃で、私は宿屋の使用人を叩き起こし、とある場所への道案内をさせた。
村外れの森に足を踏み入れ、どんどん進んでいくと次第に足元が暗くなっていくのが分かる。
松明で足元を照らしながら鬱蒼と茂る深い森をかきわけ進む。
もう日が昇っただろうと言うのにこの森の中は夜のように暗い。今にもそこらの暗がりから何か飛び出てきそうで、目の前を歩く使用人の背中はびくびくと震えていた。
「旦那ぁ、あっしはもうこれ以上進めませんや」
「どうした、道がわからなくなったのか」
「いんや、そうじゃねえや。他所者をあそこまで案内したなんて知られたら、あっしの命がありませんや」
「そうか。よし、わかった。ここから先は私一人で行く」
「すいやせん、旦那。後はこのままずーっと真っ直ぐ行きゃ湖に着きますけえ」
「わかった、案内御苦労。これは礼だ」
俺は金貨の入った小袋を使用人に投げ渡した。
「へ、こんなにもいいんですかい」
「ああ、ほんの気持ちだ」
「ありがてえや。それにしても旦那、竜神様の湖に一体何の用で?」
「ふむ、まあ見物みたいなもんだ」
「はあ、変わってますなあ。ま、くれぐれも竜神様のお怒りを買うようなことはやめて下さいよ」
「ああ、わかってるさ」
そう言って、俺は使用人と別れそのまま道を真っ直ぐ進んだ。振り返ると使用人の姿はもう見えなかった。
使用人と別れてからかなりの時間が経過した。ずっと歩き続けるが目的の湖はまだ見えてこない。
途中で何度もこの道で本当に合っているのかと思ったりもしたが、とりあえず進み続けた。
足場の悪い上り坂に差し掛かり、滑り落ちないようにぐいぐいとその坂を上る。
坂を登りきると辺りが急に明るくなり、その明るさに目が眩んでしまった。
暗い森から明るみに引っ張り出されて眩む目は次第にその明るさにも馴れ、そこの景色を鮮明に映し出すことが出来た。
空を見上げると、先ほどまで光を遮っていたは厚い木々の枝は姿を消し、青い空が姿を見せていた。
明朗な太陽の光と穏やかな緑の木漏れ日が差し込むその先には、緑白色の曇り無い湖が広がっていた。
「ここか……」
神秘的とも言えるその湖には何か主のようなものが棲んでいてもおかしくは無いような雰囲気を持っていた。
私は腰に構えていた長剣を抜いた。太陽の光がギラリと刀身を光らせ、反射した光は湖を照らした。
「さあ、出てこい。竜神様とやら!」
私は剣を構えて、湖にそう叫んだ。
しかし叫び声は辺りの岩壁に反響するか、森の中に吸い込まれるかしかなく、最後には虚しい沈黙が流れるだけだった。
「いないのか……」
湖は静けさが支配していた。そこにいる生き物はまるで私一人であるかのような、そんな静寂があたりを包んでいた。
「仕方が無い。生贄が連れてこられたときに娘を助けるか。それまでここらに隠れて……」
私が剣を収め、そこらの草むらに身を隠そうとしたそのとき、背後の湖からゴボゴボと何かが湧き上がるような音がした。
私が振り向くと、そこには真っ白な一匹の巨大な竜がじっと佇んでいたのだった。
白い。
私の目の前にいたその大きな生き物は白かった。
乳白色の鱗と所々に藻で染まった緑色。青緑色のたてがみに、真紅の瞳。
そして、湖面のような静けさを感じさせる。
昔話に出てくるような暗緑色で荒々しい竜とはかなり異なるが、そんな知識が無くとも目の前のそれは本当に竜だった。
その姿は確かに神と名乗るのに相応しいほどの高貴さを持っていて、私はしばらくの間、その美しさに見とれて声を出すことを忘れていた。
「って、クソッ! 危なかった、意識が完全に飛んでしまってた」
完全に竜の美しさの虜になっていた俺は正気を取り戻し、再び剣を抜き竜に向かって構えた。
「おい、竜神だか何だか知らないがよく聞けよ」
俺の声が聞こえているのか、白い竜は俺の方をじっと見つめている。
「貴様が生贄など欲するせいで、罪なき村人が涙を流している」
白い竜は吠えるでもなく頷くでもなく、ただただその紅い瞳で私を見つめ続けていた。
私は剣を振るって、声をさらに大きくする。
「今、私はこの負の鎖を断ち切るべきだと思う」
剣に反射した光が眩しいのか竜はその目を細めた。
「だから……貴様は私がこの手で殺す」
私はそう言い終わるや否や、即座に竜に切りかかった。
竜がまた湖の奥深く沈んでしまってはもう手も足も出せない。だから竜が湖に隠れる前に全てを終わらさなければならない。
つまり、勝負は一瞬。
私は全速力で駆け込み、竜の懐へ入り込んだ。
そして、思い切り剣を振り下ろし竜の首を一直線に切り裂いた。
鮮血が吹き出て、返り血が私の体を真っ赤に染め上げた。そのはずだった。
私が剣を振り下ろした先には何も無く、ただ緑色の濃い雑草が地表を埋めているだけだった。
私が斬ったものは虚空だった。
わけがわからない。
あの白い竜は確かに、さっきまでここ、この剣の先にいた。
それなのに剣がその身に喰い込む前に竜はこの場から消えていたのだ。
私は左右を見渡すが竜の姿は見当たらない。湖の中に逃げ込んだのかと思って、湖を覗き込むが波紋の一つも無かった。
だが、その凪いだ湖に薄暗い影が出来ているのに気付く。
そのまま目線を上に向けると、そこにあった。両翼を広げた白い竜の姿が。
「貴様、飛べるのか……」
空の上から私を見下ろすそれは、太陽の光を背に、くもりガラスのような翼を広げて飛んでいた。
さて、空を飛ばれるのは厄介だ。
無論、私も怪鳥や大蝙蝠など空を飛ぶ魔物との戦闘経験が無いわけではない。
しかし、今は弓も無ければ槍も無い。飛び道具が無い上に、その飛んでいる竜の真下は底の見えぬ湖である。
こちらの岸におびき寄せない限りは到底勝ち目はない。
『人間よ……』
私が必死で打開策を考えていると、どこからとも無く声が聞こえてきた。
「な、何だ? 幻聴か」
辺りを見渡しても自分以外の人間はいない。
『我だ……お主の目の前にいる』
目の前、と言えば空に浮いている白い竜だけだ。
「もしかして貴様なのか? この頭の中で響くような声は」
『左様、我だ……お主らが竜神と呼ぶものだ』
この白い竜と言うのは空が飛べる上に、言葉まで喋れる。これほどの常識外れな魔物を私は見たことが無い。
「喋れるんなら話は早いな。なあ、貴様、殺してやるからちょっと降りて来い」
『……お主はそんなに我のことが憎いのか』
「ああ、憎たらしいね。神を騙って好き放題やって、人間様の上に立って調子に乗ってる魔物が私は大嫌いだ」
『……確かに我は神ではないが……贄を欲するのは何ら問題はあるまい?』
「は?」
竜はいまだに空の上で、私を見下ろしたまま声を頭の中に響かせている。
『……村人を守り、その対価に贄の命を貰う……実に道理に合った考え方であろう』
「貴様……」
『……贄と引き換えに村人は三百年にも及ぶ平安を手にしたのだ……我が死ねばその平安も消え去ってしまう』
「獣の分際でよく言うな。そんなことはまやかしだ、貴様が村人を搾取している限り本当の平安は訪れない」
逆光でよく分からないが、空の上にいる竜の表情が一瞬曇ったような気がした。
『……そもそも、お主は根本的なことが間違っいる……人間が獣より上だと誰が決めたのだ』
「あ? 俺たち人間は“狩る”側、お前たち魔物は“狩られる”側。そんなことは誰が見たって明らかな世界の縮図だろうが」
『……そうだ、この世は強い者が弱い者を統べる……そうして世界は回っている』
「何が言いたい……」
『……つまり、人間より“強い”我が、人間どもの上に立ち、人間どもを搾取するのに何か問題があるのか、と言っておるのだ!』
突然、頭の中で竜の叫び声がガンガンと鳴り響いたと思ったら、空を飛んでいた竜は一瞬にして姿を消していた。
すると、目の前に鈍い光を放つ刃が不意に現れたのだった。
私は咄嗟に身体を後ろに捻り、その襲い来る刃から身を反らした。
距離を置いてよく見るとその刃のようなものは白い竜の爪だった。
ああ、そうか。竜は一瞬で私の前まで接近し、そこからその鋭い爪で私を八つ裂きにしようとした、そういうことだったのか。
今さらだ、今さらだがこの竜は強い。今まで私が遭遇したどんな魔物よりも強いのは確かだ。
竜の攻撃は私の目では捉えられない。圧倒的な力の差、それを今、ひしひしと感じている。
それなのに、それなのに……。
「それなのに、どうしてこんなにワクワクするんだろうな?」
『……痴れ者め、知ったことか!』
風を切る音が聞こえた。それだけが聞こえた。竜がどうやって移動したのか、どのタイミングで攻撃してくるのか全く分からない。
「だが、それが面白い」
『……お主、我の攻撃が見えていたのか?』
竜の背中からはダラダラと鮮やかな赤い血が流れていた。私の剣はその血と同じ色に染まっていた。
真っ赤な剣の先には先程まで竜の背中についていた、白い翼がごろんと転がっているだけだった。
「貴様の攻撃なんて見えないさ。ただ、私のすぐ近くまで来る、ってことだけはわかっていたからね」
『……なるほど、我がお主に接近した時の一瞬の隙をついて、そのまま我の翼を斬り落としたと言うのか』
「ま、そういうことだ。さ、飛べない竜なんてただ図体がデカイだけの獣だからな。次こそは本当に殺してやるよ」
『……フッ、甘いな……そして、お主は我を本当に怒らせたようだ』
竜は不敵な笑みを浮かべ、私をじっと見つめる。
次の瞬間、竜の口から白い光のようなものが放たれた。危険を察知した私は間一髪でその光線を避け、草むらの上を転がった。
光が放たれた先を見てみると、そこにあったはずの木が、草が、岩が、一切合財無くなっている。焼け焦げたとか、叩き壊されたとかそんなのではなく、本当にキレイさっぱり消えてしまったのだ。
驚異的な破壊力、と言うしかなかった。
竜はさっきから一言も喋ろうとはせず、依然として不敵な笑みを浮かべたままだった。
正直なところ、私の手足は震えていた。握る剣までがカタカタと音を鳴らすほど震えていた。
それはこの白い竜に対する恐怖によるものなのだろうか。圧倒的な力の差をまざまざと見せつけられたことによるものなのだろうか。
いや、それは違う。
この震えは……歓喜の震えだ。
「そう、この震えは歓喜の震えだ。強い敵に出会えて、私は嬉しい」
『……黙れ』
竜は次々と口から光を放つ。光線は十数本の線となり、森を、大地を、空間を消していった。
私はそれを避けていく。幾本の光線の軌道がまるで全て見えているかのような感覚を覚えた。
時間が経てば経つほど、光線を避ければ避けるほど、その感覚はより鋭敏なものになっていった。
体中を駆け巡るゾクゾクとした感覚。喜びに悶えるような歓喜が私の体を支配する。
目の前の強敵、私が今まで待ち望んでいた強敵と戦う喜びが、私の能力をぐいぐいと引き上げていく。
私の心の内側に眠る生存本能が呼び覚まされ、五感の全てが研ぎ澄まされた。
私の身体の内側に眠る闘争本能が呼び起こされ、前身の筋肉が最大限の力を発揮する。
竜の口から発せられる光は、もう私の目にはゆっくりとした線にしか見えなくなってしまった。
私はその光より速く走ることができ、竜の振る鋭利な爪など全てへし折ってしまった。
力が臨界値に達した時、私は竜の懐に潜り込み、剣を大きく振り上げ風を斬った。
「貴様のおかげで力を得た。ありがとう、そして……」
振り下ろした剣は竜の白き喉元を堅固な鱗もろとも斬り裂いた。
「あばよ」
竜の首と胴体は永遠に切り離された。剣も衝撃に耐えきれず真っ二つに折れた。
上から血の雨が降り注いだ。私の服も、手も、顔も全てが真っ赤だった。
「ははは、あははは」
笑っていた。血みどろの中、私は笑っていた。
どうして笑っていたのか、それは今でもわからない。
竜神を殺したからか、村娘の命を救ったからか、それとも今まで以上の“力”を手に入れたからか。
答えはどれでもない。
ただ一つ言えるのは、この上なく愉快だったと言うことだけだ。
『……やはり、お主は狂人だったようだの』
頭の中にまたあの声が響いてくる。だが、今度は声も随分弱々しくなっている。
「なんだ、まだ死んでなかったのか」
『……心配せんでも、我はすぐに逝く……だが、我の命を奪い、“力”を手にしたお主にはそれなりの対価を払って貰わねばならぬ』
「対価だと?」
『……フフッ、なに、すぐにわか……』
竜神の声は私の頭の中から余韻すらも残さずに、消えていった。
そして次の瞬間、私は闇に包まれ、意識を失った。
気が付いた時には辺りが騒がしかった。「村の守り神が殺された」「竜神様の崇りが起こる」「もうこの村はダメだ」などという悲鳴じみた声が聞こえてくる。
このときすでに私の目は闇に閉ざされていた。聞くところによれば、竜神の血と一緒に呪いまで浴びてしまったようだ。
諸悪の根源である竜神を殺した私を誉め讃えるでもなく、村人たちは私に「悪魔」「呪われ人」などと罵声を浴びせた。
目の見えない私を介抱するでもなく、村人たちは私を滅多打ちにした。
そうして私は村人たちから恨まれるようにして村から追い出された。
そのまま私は光が一切ない世界を杖を片手に当てもなく放浪した。
風の噂によれば、あの村はあれからひと月もしないうちに全滅したそうだ。
それも外敵に滅ぼされたのではなく、村人全員が湖に身を投げ、自ら命を絶ったらしい。
確かにあの“竜神”は本物の“竜神”だった。
だが、村人たちが信じていたのはあの“竜神”では無かった。それは自分たちの恐怖が生み出した幻想で、さらにその恐怖から逃れる拠り所となるのもまた、その幻想であった。
私が本当に殺したのはそんな幻想だったんだ。
今でも時々、あの鋭く響く竜の声が頭の中で響く日がある。
あの時、私は全てを自分の思い通りにやろうとした。だが、結局は全てを失ったのだった。




