11.カガリちゃんの転落
半年の間に起きた一番大きな変化はといえば、カガリとケトラがすっかり仲違いしてしまったことだろう。
二人は今でも揃ってヨースケ達の荷物持ちをしてはいるもののの、宿は二つに分けてしまったし、仕事以外ではさっぱりお互いに顔を合わせなくなった。
いつも毎回決められた曜日の同じ時間にギルドに集まって、カガリとケトラはそれぞれの荷物をギルドから受け取って、ヨースケと剣聖の赴くまま魔の森深部で殺戮に付き合って、素材を集めて帰ってはそれなりの額の報酬を得る。
得た報酬は二つに割って、互いの懐に入れてそれでバイバイ。後は次の集合までお互いに何をしているのか知らない。
こんなふうになってしまったのには当然事情がある。
まず一番初めの事情といえば、カガリとケトラ、二人が男女の一線を越えた日に端を発するだろう。
毎回のヨースケ達の見せつけるような情事に中てられたカガリとケトラ。もともと二人は友達以上恋人未満といった間柄で二人手をつないで領都に出てきたような経緯があったから、お互いを意識するきっかけさえあれば、行為に至るのは自然な流れであった。
だがしかし、田舎者でろくな知識も持たない二人が勢いだけで交わった最初の夜は大失敗であった。
泣き叫ぶカガリに対し強引に最後まで事を済ませたケトラは、あろうことかそのままいい気分になって一人で先に寝付いてしまった。
それで一挙にカガリの心が冷めた。
次の日ケトラは申し訳程度に「ゴメン!」だとか「スマン!」だとか謝ってくれたけど、カガリにはそこに誠意を見つけることが出来なかった。
けれどもそれで何故か納得したケトラは次の晩にもカガリを求めてきて、二人は大喧嘩になった。
領都に出てきて早1年近く。ここまで大きな仲違いもなくうまくやってこれたはずの二人が、久々に故郷にいた頃と同じくらいの大バトルであった。
もしかしたら心細い領都での生活にお互い共依存気味だったのが、まとまった収入を得て心に余裕が出てきて、それでつい昔みたいにぶつかり合ってしまっただけだったのかもしれないと、その時のカガリは思った。
つまりこの時、カガリにはまだやり直す気持ちがあった。
けれどもその後、ケトラは悪い男達に捕まってしまった。もともと急に羽振りがよくなったカガリとケトラに目をつけてくる先輩冒険者たちはいた。けれども二人でいるときは用心しようとかなり距離を置くようにしていたから、彼らがつけ入る隙は無いはずだった。
今回の一件が隙になった。博打も酒もやらない品行方正なケトラではあったが、唯一、女については未知であった。それがカガリを通じてどういうものか知ってしまった。そして、その味に大きな喜びを覚えてしまった。
そんなケトラがカガリとの2度目が難しいと分かった瞬間に、隙間風を縫うように彼の心に入ってきた先輩たちからの風俗のお誘いは、彼を虜にするのに数日もかからなかった。
ケトラは夜な夜な大金を持って遊び歩くようになり、あちこちにお金をばらまきつつ、沢山の女の子たちといやらしい遊びに耽るようになってしまった。
ここで困ってしまったのがお金の出どころである。カガリとケトラは、毎回の収入である金貨10枚を共通の財産として取り扱っていた。お財布袋はカガリが握っていたが、中のお金は必要な時にはお互い自由に使っていいという、随分とアバウトで緩い約束事で運用していたのだ。
金貨10枚は大金である。普通に使っていれば二人が1年暮らすにも充分なお金のため、少し前まではものすごい勢いでお金が貯まっていったものだった。
それがものすごい勢いで減り出した。ケトラがどんどん勝手に持ち去ってしまうからである。それで二人はまた大喧嘩をした。少し前の喧嘩と違い、カガリにしてもこれは絶対に許せない事だったのだ。
二人は故郷を飛び出した時同じ夢を語った。いつかお金を貯めたら、故郷に土地を買って二人で畑でもして暮らそうと。その為の資金作りに冒険者になろうと。
だから今回の仕事の収入も、その為の貯金なのだとカガリは思っていた。ところがケトラにとってはそうではなかったようだった。
かつての夢を踏みにじられたのだと感じたカガリはケトラを許せなくなり、ここに二人の仲違いは確実となった。
カガリは二人で暮らしていた宿を出た。毎回の収入はその場で2つにしてもらい、半分づつを分け合うことにした。
ケトラは最初この決定に大変腹を立てたが、マリーさんが間に入ってケトラを叱ってくれたから、大きなもめ事にはならずに決着がついた。
こうして二人は別々に暮らすこととなった。
この時期、カガリとケトラの行動は対照的だった。カガリはとにかく今は勉強が大事と、魔の森に生息する様々な魔物の素材や部位、捌き方や取り扱い方などを毎日勉強した。
休みの日もギルドの資料室に籠もって、辞書を片手に難しい専門書とにらめっこしたり、鑑定士のドルジさんなどにあれこれ聞きに行ったりした。
稼いだお金は基本的に貯金に回したが、質のいい解体ナイフや作業に必要な生活魔術の習得の際には大きくお金を使い、その分確実にスキルアップしていった。
対するケトラは散財だらけだった。女を覚え、酒や賭け事についても結局は覚えてしまった。
そんな中で一度、ケトラがマリーさんに食ってかかったことがある。それは納入している魔物の量に対し、毎回の収入があまりに少なすぎるというものであった。
カガリは「とんでもない!」と反論した。正直、毎回納品している素材の価値がどれくらいのものなのかはカガリにもよく分からない。だが、今は勉強させてもらっている時なのだし、色々と道具なども準備してもらっている状況で儲けの事を口にするのは失礼だというのがカガリの見解だった。
これにマリーさんも同調し、二人でケトラを言いくるめる結果となった。
ところで少し後になってカガリは知ることになる。実はケトラの言い分はあながち間違いでもなかったのだと。この時期にカガリ達がかき集めた上級の魔物素材はギルドに莫大な利益をもたらしており、これを集めるカガリ達の賃金も本来は金貨10枚程度ですむようなものではないはずだったという事を。
だがこの時のカガリは10代の幼い子供で、なんだかよく分からないままに充分に満足してしまっていたのだ。
対するケトラはこの一件以来すっかり不貞腐れ、仕事に対する態度は目に見えて悪くなった。いつも待ち合わせに遅れてくるようになったし、素材回収の作業なども適当にするようになった。
さて、この一件にはさらに続きのエピソードがある。
すっかりいい加減な素材集めをするようになったケトラに対しカガリが注意をしたところ、なんとマリーさんから「待った」がかかったのだ。
「別にテキトーでもいいわよ? どうせ仕分けは私たちでやり直すんだし。」
「えっ?」声を上げてしまうカガリ。「でも、あたしたちがちゃんとしないと鑑定の人達が苦労しますよね?」などと思わず聞き返してしまう。
だが、続くマリーさんの返答はカガリにとっては全く想定外のものであった。
「うーん。正直あなたたちにそこまでの事は期待していないのよねぇ。カガリちゃんが一生懸命なのは嬉しいんだけれど、正直ギルドとしてはそこまでのものは求めていないというか。むしろ余計なことはしないでほしいというか。」
「なっ!?」声を失うカガリ。
反対にこれを聞いたケトラは勢いづいた。「俺たちゃ言われた通りの事をしてればいいんだよ!」と、あざけるようにそういい放つ。
マリーさんもケトラを追認するようにこう話を続ける。
「とにかくありったけのものをマジックバッグに放り込んでくれればとりあえずは充分よ。今は数より量が大切なの。多少いい加減でもいいから、少しでもたくさんの素材を持ち帰ってきてちょうだい。」
カガリはこの一言にショックを受け、返す言葉も見つからなかった。
カガリはずっと、マリーさんを信じていた。彼女はカガリの丁寧な仕事ぶりを評価してくれているものだと思っていた。それが全然違っていた。
カガリはショックのあまり、頭が真っ白になってしまう。
「ともかく二人ともっ! 今まで通り、いや今まで以上にたくさんの素材を集めること! いいわねっ!」
にっこりと微笑むマリーさんに対し、ケトラは「おうっ!」と即座に返事をする。
だがカガリはどうしていいかもわからない。
「おいっ!」イラついたケトラがカガリの肩を乱暴に叩く。
そんなケトラを片手で抑えつつも、マリーさんが少しばかり険しい顔でカガリを覗き込んでくる。
「ねぇ? カガリちゃん? あなたたちのこれはお仕事なのよ? お仕事はね? クライアントの依頼通りにすることが大事なの。そしてこのお仕事のクライアントは私なのよ? 私のお願いはとにかく沢山集めてくること。丁寧さはいらないの。そうクライアントがお願いしているのよ? そしたらカガリちゃんのするべきことは一つよね? わかるわよね?」
カガリは小さく「はい」と返事するしかなかった。
この一件を経て、カガリはマリーさんとの繋がりのようなものも失ってしまったのだった。
そんなこんなのあれやこれやがあって、当初の約束だった半年の期日がやってきた。
「今日までお疲れ様。次からはもうこのお仕事には来なくていいわよ。代わりの子たちが見つかったから。」
にっこり微笑みながら、突然の解雇通告を伝えてくるマリーさん。
「は!?」寝耳に水のケトラが素っ頓狂な声を上げる。それから猛烈に抗議を始める。
「聞いてねぇ!」だとか、「ふざけんな!」とか下品な言葉であれこれ反論しようとする。
けれどもマリーさんはそのいっさいに相手をしなかった。
「だからもう、お終い。前にも話してたでしょ? とりあえず半年続けてくれればいいって。ちょうどそろそろ半年だし、これでお終いね。はいお疲れ様。」満面の笑みとは裏腹に取り付く島もない。
「ふざけんなっ!」いよいよキレたケトラがつかみかかろうとすると、いつの間にか現れたギルドの保安職員の人が後ろから羽交い絞めにした。
「てめっ! 離せっ! 畜生っ! ぎゃっ!」暴れるケトラに対し、保安職員の人が何かをして、ケトラはわめき始める。「痛いっ! 痛っ! 痛っ! 止めっ! ぎゃっ!」けれども保安職員の人の手は休まらない。
そんな中、マリーさんが虫けらでも見るような目でケトラを見下しつつ、口を開いた。
「ねぇ? ケトラくん? お姉さん、前に言ったわよね? これはとてもラッキーな仕事なんだって。本来Eクラス冒険者がこんなに楽に稼げることなんてないんだって。けれどもケトラくん、半年前は『こんなのやってらんねーっ』って随分な口をきいていたわよね。おまけにこの半年の間も、しょっちゅう遅刻してくるわ、仕事もどんどん雑になっていくわ。そんなテキトーな事しかできない子たちをいつまでも雇い続けるわけ、ないでしょう?」
それからマリーさんはカガリの方へ向き直った。
「あなたもよ。カガリちゃん。勉強熱心なのはいい事だけど、まずは言われたことを言われたとおりにしてくれないとこっちは困るの。なんでも丁寧にすればいいってものでもないのよ? 時には早さが一番の場合もあるの。あなたもこの仕事には向いていなかったわね。ヘンに意固地にならずに、お客さんの希望を考えてお仕事出来るようになってちょうだいね。お姉さんからのアドバイスよ。」
マリーさんのこびり付いた笑顔。カガリはその顔に気持ち悪いものを覚えながらも、懸命に反論を試みる。
「でもっ! 剣聖様やヨースケはあたしやケトラでないと嫌だって……!」
「ああそれ?」マリーさんは鼻で笑った。「最初はそんなことも言ってたけど、最近じゃあ飽きちゃったって愚痴を言われることの方が多いのよね。」
「あ……、飽きた?」意味の分からないカガリはオウム返しに尋ねてしまう。
「そう。何でもしている最中に初々しい顔でチラチラ盗み見されるのがよかったんですって。けれども最近じゃすっかり慣れた様子で見向きもされないのがつまらないんですって。
ふふふ。新しい荷物持ちさんは女の子三人組なんだけれどね? この間組ませてみたらとても興奮したって、ヨースケ大喜びしてくれたのよ! 女の子たちもとても恥ずかしがっていたけれど、クエスト料金の金額に続けてくれるって約束してくれたし。
だからもう、あなたたちは不要なの。今までご苦労様。もう帰っていいわよ。」
そうしてマリーさんはカガリたちを手で払うように追い返そうとする。保安職員の人に押さえつけられたケトラは大声を上げた。
「そんな! そしたら俺たちは次からどうやって稼げばいいんだよ!」
そしたらマリーさんが「はあっ?」と声を上げた。それまで気持ち悪い笑顔だったマリーさんの顔は憤怒の形相に代わり、正直言って、カガリにはバケモノのように見えた。
「あなた! なに言ってるの!? フツーにEクラス冒険者をなさい! もともと半年前までそうだったでしょうが! 薬草集めたり、角ウサギを狩ったり! 元の生活に戻るだけでしょう!? だいたいあなた! あれだけの高収入があったんだから当然武器や道具は良いものに換えたんでしょう!? 半年前より全然楽になったはずなんだから、前みたいにちまちま小金とポイント稼ぎなさい!」
「そんなぁ……」ケトラはその場に泣き崩れた。
ケトラの装備は半年前からなんにも変わっていない。稼いだお金は全部花街の女の子たちに使ってしまったから、着ている服ですら半年前と変わっていない。
そんなケトラは涙も乾かぬ状態で、突如ヘラヘラと笑い出した。それからおおよそみっともない下卑た目つきで訳の分からない事を言い出した。
「マリーさぁん! 俺、何でもしますからぁーっ! ちゃんと仕事、しますからぁーっ! 俺の事雇ってくださいよぉーっ! 俺、どんなことでも聞きますよぉーっ! ちゃんと心いれかえますよぉーっ! だからぁーっ……」
マリーさんは何も返事をしなかった。返事をせず、保安職員の人にアゴで指図すると、心得た様子の職員の人が羽交い絞めにしたままケトラを持ち上げると、そのままギルドホールの外までずるずると引きずり始めた。
「マリーさぁん! マリーさぁーん!」媚びるような声でケトラが懸命に何かを伝えようとするが、そのいっさいは無視された。
いつの間にか、ギルドホールはしぃんと静まり返っていた。全員がこちらをじぃーっと見つめていて、そんな中でケトラの気持ち悪い媚びた声だけが響いていた。
もう一人の保安職員さんがカガリのそばに近づいてきた。カガリは「自分で歩けます」と意思表示をして、先を歩くケトラたちの後ろをついていった。
二人はギルドから追い出された。
ギルドホールの前でカガリが茫然と立ち尽くしていると、ケトラがにじり寄ってきた。
「おいっ! カガリ!」と、先ほどの媚びた様子はどこへやら、やけに高圧的な態度でカガリに向かって唾を飛ばしてくる。
「お前、金持ってんだろ! この俺によこせ!」
カガリは一瞬、目の前の幼馴染が何を言っているのか理解が出来なかった。何故カガリがこの少年に自分の金を渡す理由があるのか?
思わず混乱したカガリが目をぱちくりとさせていると、「聞こえてんのかテメェっ! お前の金を俺によこせっつーんだよ!」などと意味不明な供述を繰り返しながら、カガリに向かって殴り掛かってきた。
次の瞬間、道路の端までぶっ飛んだのはケトラの方であった。先ほどケトラを外まで追い出した職員の人が駆け寄ってきて、ケトラを思いっきり蹴とばしたのだ。
「ぎゃあっ!」ギルド向かいの居酒屋の壁にぶつかったケトラは、当たり所が悪かったのか、「痛いっ! 痛いーっ!」などと叫びながらその場でジタバタ身体を動かしている。
「彼氏くぅーん? いくら何でもそれはクズすぎるでしょぉ?」と保安職員の人がヘラヘラ笑いながらもそんなケトラに声を掛ける。
職員の人はカガリに向き直って、「彼女もああいうクズとは別れた方がいいと思うよぉ?」と一声掛けてから、そのままギルドの中に消えていった。
カガリとしても、言われなくともとっくのとうに縁は切れているつもりだ。地面に転がり泣きわめくかつての幼馴染の少年の事を、不思議と可哀想とも助けようとも思えない。
かつてはこの男の子と将来結婚して子供を作るのだなどとぼんやりと夢想して頬を赤らめていたような時期もあったように覚えているが、それがいつの話だったかももう思い出せない。
たった半年の間で、カガリとケトラは住む世界すらお互いに大きくずれてしまったのだと今さらながらに気付かされた瞬間であった。
カガリはうずくまるケトラに一瞥をくれると、そのまま自分の定宿へと足を進めた。
足取りはとても重いものであった。なぜならカガリもまた、今はお金が全くない。
少し前に奮発して、魔物の図鑑を買ってしまったのだ。マジックポーチにもともと入っていた、ギルド貸し出しの簡単な奴ではなく、大手冒険者クランの研究班などが読み込むための学術書的な意味合いの強い本格的な奴を。なんと金貨200枚ほどもした。
しかもこれ、借金をして買ったのだ。頭金50枚の金貨と、月20枚の金貨で8か月のローン。
普通ならただのEクラス冒険者であるカガリがローンなど組めるはずがない。けれども冒険者向けの高額小物などを金払いよく即金でいくつも買って来た実績から、雑貨屋のオジサンに特別に信頼をしてもらいローンを組ませてもらう事になったのだ。ただしこのローン、恐ろしい落とし穴がある。もし、ローンの支払いが滞った際にはカガリは即座に自らを奴隷として提供する、呪術契約が結ばれていたのである。
カガリは自分ではあまり自覚がないが、とても可愛らしい女の子である。すらりと伸びた手足に小さな顔。愛嬌のあるくりくりとした可愛いお目目に、少し癖のある赤茶色の髪。
少女がまさに今成熟した女性へと花開こうとする蕾のような瑞々しさがあり、カガリ自身のあずかり知らぬところでファンもそれなりにいる。
そして雑貨屋のオヤジは、見かけは人畜無害の人のいい小太りのオッサンであったが、裏ではあくどい事にもそれなりに手を染めている、少しばかり問題のある人物であった。
ありていに言って、カガリはオッサンにハメられたのである。
さて、当のカガリにはそんなことは思いもよらない事ではあったが、支払いが滞るとマズイという危機意識は充分にあった。それがここにきて突然の収入減である。カガリの頭の中は真っ白になってしまった。
マズイ、マズイと心が叫ぶ。
じわじわと真綿で首を絞められるかのごとく、恐怖がひたひたと足元から昇ってくる。
このままではマズイ。絶対にとてもよくない事が起こる。だがどうすればいいか分からない!
カガリは重い身体を引きずるように宿につくと、食欲もないまま自室に引きこもり、ベッドの上で膝を抱えてうずくまる様にしてそのまま動かなくなってしまった。
どうしよう……。どうしよう!?
けれどもカガリは何にも思いつかなかった。
「万一、どうしても支払いが出来ないようなことがあったら、その時はカガリちゃんには奴隷になってもらうからね。」人の好い雑貨屋のオジサンのニコニコした笑顔と、口から出る恐ろしい台詞の落差が今さらながらにカガリを恐怖のどん底へと落としてゆく。
絶対に払えると思っていた。だから別に大したことないと勘違いしていた。あの時オジサンも言っていた。「よっぽどのことがない限り、奴隷になんてならないよ!」
あの一言は実際にはどれほどの嘘が交わっていたのだろうか?
何の後ろ盾もない田舎者のEクラス冒険者が、毎月20枚もの金貨を支払い続けるなんて、普通に考えて出来るはずがない。その普通じゃないことがこの半年間、カガリの元に起きていた。けれどもこれは、本当に奇跡のような幸運だったのだ。
そしてその幸運は、つい先ほど唐突にどこかへ消えてしまった。
「あああああ……。」人知れずカガリはうめき声を上げていた。
逃げることは許されない。契約魔法をひとたび結んでしまうと、どんなに遠くに離れていても、契約不履行が確定した瞬間に呪術が発動し、誰にでも分かる場所に奴隷紋が浮き上がる。こうなってしまってはもう駄目だ。少しでも大きな町に入ろうとすると入管で咎められるし、街の外では破落戸の目に留まれば捉えられ、いいように嬲られるだろう。
主人がそばにいない奴隷に人権はないのである。
ベッドの上でまんじりともせず、日が暮れて、夜になり、夜が明けるのをぼんやりと肌で感じていた。
身体は疲れて動かす気にもなれないのに、頭の奥底で不安ばかりがぐるぐると駆け巡り、眠ることもできない。
すっかり明るくなった窓の外を眺めると、曇り空からパラパラと霧のような雨が降り注いでいた。
窓の端が少しだけ空いていて、雨の日特有の匂いが部屋の中に忍び込んでくる。
いけない!
カガリは慌てて窓のそばへと駆け寄った。
カガリが定宿にしているこの宿のおかみさんは長期利用客が部屋を汚く使うのを特に嫌がる人で、雨の日に窓を開けて中を濡らすようなことがあると酷く怒られ、場合によって追加料金を取られることもあるのだ。
その分常に清潔な部屋を保っており、駆け出しの女性冒険者からは大変人気の宿屋ではあった。
カガリは窓の支えを外しこれを閉めようとして、「あっ!」と思わず声を上げてしまった。
小雨が静かに落ちる中、眼下の通りを見知った二人が傘もささずにのんびりと歩いていたのだ。
飄々として捉えどころのない不思議なFランク冒険者ヨースケと、美しくも恐ろしいあの剣聖様であった。
これは本当に、奇跡のような偶然である。たまたま昨日、窓を開けたままにしていたカガリが、振り始めた雨に少しばかり遅れて気づき、窓の近くに寄ったタイミングでたまたま二人が歩いていた。
だが、カガリにとっては天啓にも似た必然であるように感じられた。
カガリは駆け出した。靴を履くのも忘れ、中途半端に脱ぎ散らかしたズボンや上着に目もくれず、簡単なチュニックに素足のままで宿の二階から転がるように駆け降りると、そのまま外へと飛び出して、二人の元へと駆け寄った。
「剣聖さまぁっ!」声を張り上げるカガリ。
そしてそのまま、剣聖様の足元に縋りついた。
驚いた二人がカガリを覗き込むようにする中、見上げるカガリは必死になって訴えた。
「剣聖様ぁっ! あたし! どんなことでもしますから! どうかもう一度あたしを雇ってください!」




