三話 縁〈えにし〉をつなぐモノ
突如として辺りに恐ろしい咆哮が響いた。異形の姿がぼこぼこ増幅し、部屋を包むと肉の壁となって二人を囲んでいく。桜色の艶のある壁がどくんどくんと波打ち迫ってくる。肉壁の質量を増やし、圧死させるつもりなのだ。多少抵抗されようとも飲み込む。そうすれば辰野の中にある神の力が手に入る。ある意味、この空間は化け物の腹の中と一緒なのだろう。
三葉たちに残された選択肢はふたつ。
捕まるか、腹を突き破るか。
「オンキリキリバザラウンハッタ」
鋭い声に肉壁の膨張スピードが落ちる。だがじわじわとふたりを追いつめていることには違いなかった。近くからぐちゅぐちゅと嫌な音が聞こえてくる。壁のあちこち切れ目が入り、そこが開いて目玉がでてきた。大小複数の目玉がギョロギョロと動く。気持ち悪い光景だ。
三葉は小さく息を整えた。
呪術的な面から見ると陰陽術というのはわりとなんでもありである。神道、道教、密教などをうまく取り入れ、オールマイティに使用する。「かしこみかしこみ」と古めいた言葉で神におうかがいをたてながら、真言というなまりの強いサンスクリット語で仏の威光を借りるのだ。そして星を詠み、呪を作り、式神を使役する。
その中でも三葉は式神の扱いが抜群にうまかった。
巫女の神おろしでもなく、僧が如来にすがるのとも違う。神霊を己の力で従える。使役する。術師が弱いと式神は言うことを聞かないばかりか、食い殺そうとさえする。半端に手をだしてはいけない術がゆえに、数多の式神を従える三葉唯香は最強の女子高生の名にふさわしかった。
宙に五芒星をかいたあと辰野の体は糸の切れた繰り人形のように動かなくなった。心臓は動いているのだが魂が抜けているのだ。無防備な体を守るために三葉はつなぐ手の力を緩めない。
その代りに、三葉の目の前には白い狩衣をきた男が立っていた。平安時代の貴族のような衣装だ。顔つきは辰野なのだが、雰囲気がまったく違う。長い髪は後ろで結ってあり、頭には牡鹿の角のようなものがついている。
「あなたの名前を教えて」
神を相手にしているのにも関わらず、三葉の態度は変わらない。使役する者とされるモノ。そこには絶対的な上下関係が必要なのだ。
『……辰野隆宗。いや、若宇加能売雨竜彦か』
そういって男は柔かく笑った。若宇加能売は古い水の神だ。ということは雨竜彦はどこぞの川や湖の神さまなのだろう。どうして辰野と一緒にいるのかはわからないが、二人でひとつの命を支えるように混じっている。きっとどちらが欠けても人としての辰野は生きていけない。
肉体の枷がなくなり、むき出しになった霊体は神の部分が強く主張していた。おそらく意識も雨竜彦が主体だろう。強い神気をまとった雨竜彦。異形がひるんでいるのが肌でわかる。
「現、幻、弓」
ゆっくりと言葉を紡ぎながら右手だけで印を結ぶ。
雨竜彦の体が光の粒となり、次の瞬間には大きな弓矢となって宙に浮いていた。ぎりぎりぎりと弦を引き、部屋の入口……異形の中心に狙いを定めている。
淀んだ空気がぶわりと動いた。異形が激昂しているのだ。壁に貼りついていた桜色の肉がぼこぼこと沸騰したようにあわ立ち、三葉めがけて水しぶきのように飛びかかった。ほんの一滴かすっただけで三葉の頬がじゅっと焼ける。
「滅」
刀印を異形の本体にむかって突きつけると同時に、太い光の矢が突き刺さった。光が部屋いっぱいに広がり、異形の体が塵となって消えていく。
『……ガッ……アァ』
その時にいくつもの顔が見えた。若い女の人や老齢の男性、小さなこども。おそらくあの異形がこれまでに食った霊魂なのだろう。そうやって力をつけてきたのだ。彼らはみな苦痛の表情を浮かべていた。胸が痛い。
「オンアボキャ、ベイロシャノウ——」
どうか仏の光に導かれますように。
真言を唱えていると霊が泡のよう消える瞬間、苦痛の表情が和らいだ気がした。
真言とは、大雑把に言えば仏が説いた真実の言葉とされている。インドから中国へ渡り、それが日本にもたらされた。耳馴染みのない言葉の羅列だが、その音に意味があり、力がある。
この世には人ならざるものや未知の力が存在する。
多くの人は知らないままに過ごし平穏に暮らしているだろう。それは起きた歪みを認知できないからだ。それでいい。多くの人に認知される歪みがあれば、それは大災厄のはじまりだ。
そうなる前に専門家が手を打つ。
『……死、ネ……!』
突然、頭上に影がかぶさった。
異形の残りかす、コールタールのような黒くねばついた物体が、死力をかき集めて仇なそうと襲いかかってきたのだ。
ダンっ! と大きく爆ぜる音がした。
三葉は手に銃のようなものを持ち、不敵にほほ笑んでいる。生徒指導室の壁にはコールタールが縫い付けられるようにへばりつき、そして消えていった。
「ふふ、いまどき武器が弓矢だけなんて思っちゃダメだよ」
ちゅっと銃口に口づけると、それは光の粒となって手の中から消え、辰野の体へと戻っていった。
◇
意識が戻った辰野は繋いでいた三葉の手を慌てて離し、その場にしゃがみ込んだ。「未成年淫行……」と両手で顔を覆い、真っ赤にしている。雨竜彦にあった大人の落ち着きがウソのようだ。
そういえば、と三葉は首を傾げた。銃口にキスをしてしまったけれど、体に置き換えたらどこになるのだろう。
生徒指導室から出ると、廊下の窓から夕陽が差し込んでいる。グラウンドにいる運動部の掛け声、吹奏楽部が奏でる楽器の音色が風に乗って遠く聞こえる。
先ほどの異形は消え去った。今しばらくは辰野も平穏に過ごせることだろう。
「……なあ、陰陽師ってなんなんだ。さっきみたいに幽霊退治が仕事なのか。危険はないのか」
辰野の控えめな声が歩き出した三葉を呼び止める。振り返ると、三葉はどう説明しようかと考える。
「えっと、世界には明確な理ってあるじゃないですか。夜の次には朝が来るとか、人間の子どもは人間、みたいなごくごく当たり前のこと」
ぬるい風が吹いて三葉の髪を揺らす。窓からは強い西日がさし、彼女は半分が濃い影に覆われていた。まるで半身を闇に溶かすように。
「その理が捻じ曲げられることがあるんです」
その表情は大人びていて、辰野は思わず喉を鳴らした。この子は自分の知らない世界を見ている。
「そういうことを解決する機関がいくつかあるんですよ。そのうちのひとつが通称を『陰陽寮』と言って、所属する術師は陰陽師と呼ばれます」
突然、三葉は「おいで」とつぶやいた。
あまりに優しく言うものだから辰野は戸惑った。それはすぐに自分の思い違いだと知る。
気付くと三葉の周りを不思議な生き物たちが囲っていた。足元に、肩に、空中に。どれも辰野と知っている生き物とは違っていた。魚は空を飛ばないし、足が三本の鳥も知らない。肩に乗っている虫の顔をした日本人形には蝶の羽があって、まるまると太った狸は腰に手を当てて立ち、太々しくたばこを吸っている。
ざあっと強い風が吹いて思わず目をつぶる。
次に開けた時にはもう何もいなかった。三葉が廊下にぽつんと立っているだけだ。
「さっきのがわたしの式神たちです。みんなやんちゃだけどいい子で、強いです」
幻覚ではないらしい。
そこではたと気がついた。もしかして『強い』という言葉は『危険はないのか』という問に対してのアンサーか。危ないけれど強いから大丈夫だと。あっけに取られていると「はい先生」と日本酒の瓶を差し出された。
「もらってください」
「いや、それは」
「家に帰ったらお風呂に入って、これをひと口飲んでください。ゆっくり体を休めたらもう大丈夫。変なヤツは寄ってきませんよ」
押し付けるように酒瓶を渡すと、三葉は再び歩き出した。動けずにいた辰野もそれを見て一歩を踏み出す。歩き慣れたはずの廊下。足元はおぼつかない。
「……三葉。その、ありがとうな」
辰野は感謝を述べる。まだどこか夢心地だが、あの体験は一生忘れることはないだろう。それほどに不思議で強烈な出来事だった。
「ね、先生。本当にわたしの式神になりません?」
前を歩く三葉が振り返る。目をきらりと光らせ、イタズラっ子のような笑みを浮かべていた。瞬間、辰野は自分の表情が引きつるのがわかった。
「……こ、断ってもいいか」
「残念」
式神だのなんだの、さすがに承知しかねる。だが三葉も本気ではなかったのか言葉は軽やかだ。少し考えて、辰野は前を向いた彼女の小さな背中へ言葉をかけた。
「でも、困ったことがあったら言ってくれ。できる限り力になるから」
いたって真剣な眼差し。
三葉はぱちぱちと瞬きをした。
それから少し頬を染め、嬉しそうにほほ笑んだ。




