6.顔を見分けろと言われても
どうも自分には、空間把握能力というものが決定的に欠けているらしいということは、幼い頃から――そう、母親の投げるみかんを受け取れなかったあの頃から、うすうす気づいてはいた。
一応、小学校の時点までは、算数とはうまくお付き合いしていた。
「とけい」が始まったあたりから、私の心はすでに彼のもとを離れはじめていたし、立方体が回転しだしたあたりで彼との仲は冷え切っていたが、それでも表面上は、なかなか親しげに振舞えていたと思う。
ただ、あれはいつだったか、点Pが動き出した時点で、私は算数や、数学といった学問にとうとう別れを告げた。
以降、ずっと彼とは疎遠である。
だが、私は彼を失ったことで、呪いと称してもいいような、ありとあらゆる世界からの悪意にさらされた。
例えば、鍋からタッパーにおかずを移そうとして、容量を見誤り溢れさせる。
お土産がいつもスーツケースに収まらない。
地図が読めない。
目測を誤り、口に届く前に箸先から食べ物を取り落とす(テレビを見ながらだと特に顕著だ)。
人の顔を覚えるのも苦手だ。これはきっと、目や鼻というパーツの座標の差異を、ざっくりとしか識別できないからだろう。
だがそれでも、私は人間の可能性を信じた。
たとえば、一つの能力を失った人間が、ほかの能力を発達させてそれを補うということがある。
ならば私も、空間把握能力を欠如させたかわりに、なにかの能力を磨くことができるのではないか? 例えば――社交性、コミュニケーション能力と呼ばれるようなものを。
そうとも、タッパーにおかずが入らないなら、家族の皿を大盛にして、言葉巧みに勧めればいい。
お土産が入りきらないなら、その場で配って、爽やかな印象を残して旅先を去ればいい。
道がわからないなら聞けばいい。人の顔が覚えられなくて、目の前の相手が誰だかわからなくても、空気を読んだ会話と愛想笑いで切り抜ければいい。
点Pの動きが予測できないなら、点Pの気持ちに寄り添えばいいのだ。
だいたい、移動する点が描く面積を愚直に計算するなんて、無粋の極み。
私なら、その問題を作った数学教師の年齢か誕生日を、エレガントに記載する。
実際その方法で高校三年の数学テストで高得点を取ったとき、私は、コミュニケーション能力とは空間把握能力にすら打ち勝つのだと、喜びに震えた。
私の人生にもはや死角はない。
空間把握能力などなくたって、この人生、なんの困難もなく渡っていける――。
だが、ある種の天狗になっていた私を、社会人になったばかりのあの日、ある悲劇が襲ったのである。
それは、新入社員研修と流通営業部研修を終え、以降は法人営業部でのOJTが始まる、といったときのことだった。
翌日は法人営業部長の企業訪問に同行させていただく、というそのタイミングで、私はふと、部長に「明日からご指導よろしくお願いいたします」といった挨拶を差し上げるべきでないのかと思い至った。
なにしろ、私は研修日誌の先輩からのコメント欄で、
「とても意欲的で、運転以外は教えることがありません」
「営業研修はもういいので、運転研修を優先しては」
「安!全!運!転!」
と三日連続で褒められるほどのスーパー新人である。
下手に調子に乗って反感を買ってはいけない。
むしろ低姿勢に出て、信頼感を獲得するのが吉だ。
ついでに言えば、私は、特にこの法人営業部長に擦り寄っておきたい事情があったのだ。
法人営業部とは、その名の通り、法人企業を相手に営業活動を行う部署である。
必然、訪問先とは都市中心部に構えられた企業オフィスであり、それ即ち、やたらめったら入り組んだ細長い道路を、営業車で突き進まねばならないということである。
知ってる、ハニー?
あのファッキン忌々しいカーナビってやつは、目標建物が五百メートル圏内に入った途端、「目的地、周辺です」って勝手にナビを打ち切るのよ。
この世で最も信じてはいけない存在だわ。
知っている。
ここ数日、あの声だけは淑やかな彼女にどれだけ振り回されたことか。
オーケー、落ち着いてよく聞いて。
日本企業には序列がある。運転は新入社員の仕事。
つまり、明日、あのファッキン忌々しい道路を運転するのは私たちの仕事ってわけ。
そうとも、私はそれこそを恐れていたのだ。
優しい先輩方は新入社員の私をああ褒めてくださったが、カーナビに翻弄されるあまり、高速道路の中央分離帯で停止してしまったり、目的地周辺を三周してしまったり、側溝に落ちかけたりというのは、やはり大いに反省すべき事象だと思うのだ。
しかも、明日赴くのは、高確率で、道の込み入った都市部。
一方通行や時間限定右折禁止などのトラップに溢れた、最難関ダンジョンだ。
とても乗り切れる気がしない。
いや、日本海側の方々は東西南北が逆転した世界で運転しているはずで、それに比べれば、太平洋側住みの私はまだ恵まれているのだろうが、いやいや、男性の中にはなぜかカーナビ画面を固定している方もいて、北に向かってるはずなのに画面上は下に進んでいたりすると、頭はもう大混乱である。
百パーセント迷う自信がある。いや、迷う自信しかない。
私はなんとしても、部長に媚びを売り、さりげなく明日の運転を彼に任せてしまいたかった。
あるいは、運転に失敗したとしても、それを補ってあまりあるほどの好印象を彼に与えたかった。
大丈夫。
私はいつだって、空間把握能力の欠如をコミュニケーション能力で補ってきた。
今回もイケる。
具体的には、爽やかな挨拶を寄越し、「なかなかきちんとした新入社員である」との印象を刻み付けるのだ。
私はぐるりとフロアを見渡し、部長の姿を探した。
そのときの我が社では、「さん付け運動」「フリーアドレス制」などというナウい制度が取り入れられており、部長であっても「さん」呼び、固定席ではなく好きな席に座る、ということになっていたのだ。
新入社員と部長がなにげなく隣り合うオフィス、これを、会社は風通しがよくかっちょいい環境であると考えたらしい。
すぐに、特徴的な輝かしい頭部を発見する。
私は狙いを定め、「誠実そう」と定評のある笑みを貼り付けて彼に接近していった。
「お疲れ様です。新入社員の中村です。明日からお世話になります。至らない点も多々あるかと思いますが、ご指導のほど、どうぞよろしくお願いいたします」
「え?」
彼が驚いたように振り向く。
「ええと、明日、僕と同行だっけ?」
「え?」
慌てたようにスケジューラーを確認しだす彼の姿に、にわかに不安が兆しはじめる。
もしや、私が日取りを勘違いしていただろうか。
「ええと、たしか、明日からは法人営業部で、初日はNさんにご同行いただく予定だったかと……」
その瞬間、周囲でキーボードを打つ音が、ぴたりと止まったような気がした。
「え?」
「え?」
「あー……」
彼が、なんとも言い難い表情で口をすぼめる。
私は習い性で、彼の言葉を先取りしようと必死に脳を働かせた。
「明日は急用が入っていたんだけど、伝えそびれていて」?
あるいは、「実は僕、今日付けで法人営業部を異動になっちゃったんだよね」とか。
だが、彼は、それらとは全く異なる言葉を、そっと口にした。
「僕の名前、Kなんだけど」
私の予想範囲を野球のフィールドとするなら、彼の言葉は場外ホームランだ。
「Nさんは……あそこに座ってる人だよね」
やったね、勢いよく飛んでいきやがった。
私は言葉のボールを追うように、ばっと彼の指先を辿る。
指差された先では、きらめく頭部をお持ちのNさん(本物)が、強張った笑みでこちらを見ていた。
「あ……っ、あの、その」
「あー、中村さん」
眼鏡を掛けた彼は、哀しげに笑う。
皺の寄った目元。丸い眼鏡。輝かしい頭部。
それが二体いる。
双子のような二人に、私は今挟まれている。
彼らをどうやって見分けていいのか、私にはさっぱりわからない。
「君が、僕のことをどう思っているのか、よくわかったよ……」
オフィスがしんと静まり返る。
先輩が肩を揺らしかけ、やがて笑っていいのかを悩んだ末に、唐突な深呼吸としてごまかした音だけが聞こえた。
膨大なテキストが脳内に溢れる。
悲哀を帯び、驚愕に彩られた声音は、なんだかすごく物語的で、そのとき私の脳内ではきっと天地創造みたいなすさまじい現象が起こっている。
だが、ダイナミックでドラマティックな私の脳は、今目の前に横たわる大問題をどう処理すべきかについては、まるで解答を出してくれないのだった。
あれから十年近い時が流れた。
その間にも空間把握能力の呪いは続いていて、私は変わらず、見知らぬ人を友人と信じて話しかけ、裏に身体的特徴を書いた名刺を落として当人に拾われ、「顔が整っていると思う芸能人は?」という義母との雑談を「そうですねえ、サンドウィッチマンの――」「待って。どちらに転んでもそれはない。颯希ちゃん。それはない」と当人から真顔で遮られたりする日々を過ごしている。
そうだ、つい先週だって、不用品を友人に譲ろうとしたとき、大きさの参考になればと、事前にビール缶と一緒に撮影した写真を送ったら、「ロング缶を参考にすんじゃねえ」と叱られたっけ。
いつも飲んでいたから、それがロングだとは気付かなかった。
空間把握能力の欠如はコミュニケーション能力で補えると言ったな。
あれは嘘だ。
嘘なんだけれども……、まあ、なんとかかんとか、今日も私は生きています。
ハッピーエイプリルフール!
まあ、実話なんですけどね。