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二 指切り

 四日後──


 特に欲しい物があったわけではないが、何故かあの少女が気になって再び画材屋を訪れると、勘定場にはオヤジの女房が立っていた。


 陽も翳り始めた夕刻だというのにうだるような暑さの中、団扇を片手に服の胸元を持ち上げパタパタと煽いでいる。

「やあ、珠万緒さん。もう身体の調子はいいのかい?」

 そう声を掛けると、彼女は屈託のない笑顔でヒラヒラと手を振った。


「あらマキさん、久しぶり」

 鮮やかな水色の半袖ワンピースに白い前掛けを着け、耳たぶには大きな楕円形のイヤリング。ショートカットの髪にはパーマネントがあてられている。老舗の画材屋には似つかわしくない洒落た美人だ。それが何故か、あの禿げかけたオヤジの女房だというのだから笑うしかない。十も歳の差がある若い女房を、いったい何処で見つけてきたのだろうか。

「ただの夏風邪よ。もうすっかり良くなったわ」

 あっけらかんと笑っている珠万緒さんを見て、顔では笑っているが心の中では少し落胆している自分に、僕は戸惑った。


 では、あの少女はもういないのか──そう思うと、何故だか残念な気分になった。別に特段美人だったわけでも、色気があったわけでもない。むしろ、地味で子供っぽい印象の少女なのに、その姿には人の目を惹きつける何かがあった。

 もう一度会って、その何かを確かめたいと思っていたのに……


 当初の目的を早速失って、目当てもないのに店の中をぶらぶらと歩き出した。

 絵の具はこの前買った。スケッチブックも原稿用の上質紙も足りている。強いて言えば、絵筆がそろそろ傷んでくる頃か。


 そう思って絵筆の棚に向かう。するとその手前、色鉛筆やパステルが並んだ棚の前に人影があった。

(──あれは、あの少女じゃないか?)

 にわかに胸がざわつくのを感じて、棚の陰に隠れるようにして足を止めた。

 この前と同じように長い髪をおさげに結って、白い開襟のブラウスに膝丈のスカート。何処にでもいそうな娘のはずだ。けれど、その初々しさの中に、自分はとっくに無くしてしまった何か大切なものを、確かに持っているような気がした。


 しばらく黙って見ていると、少女は淡いピンクや若草色の色鉛筆を手に取ってうっとりと眺め始め、やがて幸せそうに満面の笑みを浮かべた。

 その表情は、声を掛けるのが躊躇われるほど恍惚として、薄紅色に染まる頬はまるで瑞々しい桃のように、柔らかくふっくらとした質感を見せていた。


 触れてはならない、禁断の果実──


 一瞬そんなふうに思ってしまった自分に、思わず顔が熱くなる。動揺を抑えるように深く息をして、できる限り冷静を装って声をかけた。


「やあ、また会ったね」

 ビクっと肩を揺らして振り向いた少女の顔には、もう恍惚さも笑みもなく、代わりに驚きと羞恥が浮かんでいた。

「あ……この前の……」

 首から上を真っ赤に染めて、手に持っていた色鉛筆を慌てて棚に戻した。ことりと音を立てて、ピンク色の色鉛筆が転がる。


「僕は蒔田俊幸。この店にはよく来るんだ。君も絵を描くの?」

 そう問うと小さく頷くだけで、下を向いたまま何も言わない。

「名前、聞いてもいいかな」

 聞くと、ようやく小さな声が返ってきた。

「笹原……美鈴」

「美鈴ちゃん、歳は?」

「十六」

「中学を出たばかりか。高校は?」

「行ってない、です。人と……上手く話せなくて、馴染める自信、無くて──」

 涙目で床を見つめ、両手でスカートを握りしめる姿が、もうこれ以上聞かないでくれと言っているように見えた。

「そう──」


 そう言ったきりしばし沈黙が流れた時、オヤジがハタキを手に持って歩いてきた。

「ああ、蒔田くん。いらっしゃい」

「オヤジさん、奥さん戻ってきたのにまだ美鈴ちゃんに手伝わせてるの?」

 その言葉に、責められたと思ったのか慌てて両手を振って弁明を始めた。

「いや、本人がね、人嫌いを治したいから手伝わせてくれって言うもんだから。ああ、もちろん給料だってちゃんと払うよ」


 それを黙って聞いていた少女が、ちらりとオヤジを見上げてから再び俯いた。

「美鈴。奥の物置に問屋から届いた荷物があるから、棚に並べといてくれるかい?」

 そう言いつけられた美鈴は、はいと小さく返事をして店の奥へと下がっていく。


 その背中を見送ると、オヤジが声をひそめて話を続けた。

「実はあの子、父親を戦争で亡くして母親と二人暮らしでさ。恩給も廃止されちまったままだから、少しでも母親を助けたくて頑張ってるんだよ。でも、小さい時に空襲で背中に酷い火傷を負って、その傷跡のせいで友達に揶揄われたりしてさ。人前に出るのを嫌がるようになっちまった。昔はもっと明るくてよく笑う子だったのに」


 姪のことを心底心配しているのだろう。この画材屋だってそれほど繁盛しているようには思えないが、少しでも助けてやりたい一心で彼女を雇ったに違いない。

 奥から箱を抱えて戻ってきた美鈴を目で追う。まるで怖いものから目を背けるように伏せられた目元には、長い睫毛の翳が落ちていた。

 ついさっき垣間見せた微笑みが、きっと彼女の本当の素顔なんだろう。


「オヤジさん。あの子、時々借りてもいいかな。僕も絵のモデルを探してて……少しなら、モデル料払ってあげられると思うんだ」

 そう言った途端、オヤジの目つきが変わってじろりと睨まれた。その視線には、当然のごとくある疑惑が込められているのが分かる。

「いや、ヌードモデルなんてさせるつもりは無いよ。また日本画を描こうと思って、勘を取り戻すためにデッサンの練習をしたかったんだ。脱がせたりしないから」

 慌てて疑惑を否定すると、しぶしぶながら承諾したように小さく頷いた。

「それなら、まぁ……本人がやるって言うなら」

「よかった、助かるよ」

 まだ半信半疑の視線を投げかけるオヤジに、軽く頭を下げて礼を言った。


 モデル料は生活費をもう少し切り詰めれば何とかなるだろう。プロや他人を雇うよりも安く済む。そうなれば、あとは本人の承諾だけだ。


 僕とオヤジが立っていた通路の一本隣の通路で、しゃがみ込んで品物を並べていた美鈴に歩み寄り声をかけた。

「美鈴ちゃん、ちょっといいかな」

 そう言うと、ぴくりと一瞬震えて手を止める。しかし顔はこちらへ向けずに自分の手元を凝視したままだ。


「実は僕、画家なんだ。今は少女雑誌に挿絵を描いて生計を立ててるんだけど、学校では日本画を勉強してた。それで今度、公募に出す絵を描きたいと思って、デッサンのモデルを探しているんだけど……もし良かったら、モデルをやってくれないかな? 少しだけどお礼もするよ」


 大きな瞳をさらに大きく見開いて、彼女は信じられないというような表情で僕を見上げた。湯気が出そうなほど赤くした顔には軽蔑すら浮かんでいるように見える。

「そんな……無理です! 私、モデルなんて、はしたないこと……」

 この子もか。絵のモデルっていうと何故みんないかがわしいことを思い描くんだろう?

「ええと。さっき叔父さんにも聞かれたけど、服を脱げなんて言わないから。それに、毎日じゃなくてもいい。美鈴ちゃんの都合の良い時間だけ来てくれればいいんだ」


 それでも唇を引き結んで下を向く彼女に、僕は少し卑怯かもしれないと思いながら、ある提案をした。

「美鈴ちゃん、絵を描くって言っていたよね。もしモデルを引き受けてくれるなら、アトリエにある画材を自由に使って、好きなだけ絵を描いていい。分からないことがあれば、何でも教えるよ」


 その言葉に、僅かに上げた視線を彷徨わせた。唆られているのが手に取るようにわかる。自分では買えないような道具や絵の具を使える機会など、滅多にあるものではないだろう。

「ああでも、もちろん嫌なら断ってくれていい。他を当たるよ。無理強いはしたくないからね」

 敢えてあっさりと引き下がると、彼女は縋るような目をして口を開きかけた。それでも、喉元まで出た言葉を一度は飲み込み、やや間をおいてから美鈴は観念したように首を縦に振った。


「……わかりました。でも、一つだけ約束してください」

 ついに陥落した美鈴に、僕はしたり顔で礼を言った。

「良かった、ありがとう。それで、何を約束すればいいんだい?」

 言いづらそうに口籠もりながらも、彼女は決意を込めるように大きく息を吸った。

「モデルをしている間、私に絶対に触れないでください」

 睨むような目つきで言い放ったその言葉は、彼女にとっては決死の訴えだったのかもしれない。

 しかし、あどけない声と若干舌足らずな物言いが少女の幼さを助長させ、僕の目には可愛らしい強がりにしか映らなかった。への字に結んだ唇、強い力で握り締め赤くなった小さな拳。そんな必死の姿に思わず吹き出しそうになるのをなんとか堪え、僕は右手の小指を彼女の前に差し出した。


「約束するよ。君がモデルをしている間、僕は君に指一本触れはしない」

 僕の小指に美鈴の細い小指が遠慮がちに絡む。ふと、胸の辺りがこそばゆくなって指先が熱を持った。それを誤魔化すように、わざとらしく小指の絡んだ手を上下に振った。

「これで交渉成立かな?」

 美鈴は黙ってこくりと頷いた。


「じゃあ、早速だけど明日はどうだろう?この店の仕事が終わってからでいい。時間は任せる」

 美鈴はオヤジの顔を見て問いかけるような顔をした。この子は言葉が少ないぶん、表情が豊かで分かりやすい。

「三時になったら上がっていいぞ」

 それを聞いてから、僕の顔を見上げた。

「あの……アトリエは、この近くですか?」

「ああ、歩いて十分くらいだ。場所がわからないだろうから、三時過ぎにここへ迎えにくるよ」

 頷く彼女に、そうだ、と言葉を続けた。

「できれば和服を着た絵を描きたいんだ。暑いから浴衣でも構わない。着て来てくれると助かるんだけど……」

 そう言うと、少し考えるようにしてから「わかりました」と答えた。

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